9.花街 6
宙に浮いて見えた水鏡が消えたのを感じて、シャイレンドルはため息をついた。
大神官があの金位の魔術師とともに出て行ったあと、熱がぶり返してぶっ倒れた。
宿屋の主人が時々見に来ているようだったが、夢か現か判別できないほど意識は混乱していた。
眠りたくない、と思うのに、熱に浮かされて目を閉じると寝かけてしまう。その度に意識を必死に引きずり上げて目を開ける。
あの紅い夢をもう見たくない。なのに気を抜けばすぐ夢に引きずり込まれる。
無理やり目を開けて、さっきまで見えていた水鏡を思い出す。
水鏡にはアイランの顔も映っていた。眉を寄せて泣きそうな顔。いや、泣いてたんだっけ。
すすり泣く声がこっちにも聞こえてきた。
もうどうにでもなれ――そう思ってたのに。
彼女の顔を見て、約束という言葉に心が揺れた。彼女の涙が心に染みた。
――泣かせるなと言われていたのに。
ため息をついて天井を見つめる。
このままどこかに消えてしまいたかった。
そうすれば、塔の奴らも諦める。諦めてくれる。
――お願いだから、何もできない男に過大な期待をしないでくれ。見捨ててくれ。俺は――ただの人なんだ……。
目尻からあふれた涙が押し出されてじわりと耳に伝う。
宿の主人が声をかけるまで、シャイレンドルは声なく泣き続けた。
「シャル」
片手を上げて部屋に入ってきたのはあのいけ好かない監視役ではなかった。
幼なじみの二人の顔を見て、シャイレンドルは顔を拭い、体を起こした。
「おい……大丈夫か?」
アマドが慌てて起き上がろうとするシャルの体を支えた。
「熱いな。熱出てるんじゃないのか?」
アマドの言葉にオスレイルはシャルの額に手を当てた。
「熱あるな。薬もらってくる」
「いや、いい。――薬はもう飲んでる」
枕元の薬袋を指すと、オスレイルは安心して向かいのベッドに腰を下ろした。
「そっか、ならいい。――お前がぶっ倒れてるってカラに教えてもらってさ」
「ここに泊まってるとは知らなかったよ」
アマドもオスレイルのとなりに腰を下ろす。シャイレンドルは口元を歪めた。
「俺の部屋じゃないけどな」
「ああ、それも聞いた。ぶっ倒れてたの、拾われたんだって?」
「――知ってんのかよ」
ぶすっとむくれてシャイレンドルは顔を背けた。
「でもよかったよ。会えて。昨日からお前を探してたんだ」
オスレイルの嬉しそうな声に、シャルはちらりと視線を戻す。
「俺を?」
オスレイルは目を閉じると、両の拳を膝に置いた。そして、ずいぶん迷った挙句、口を開いた。
「……あのな、昨日、ティアに会った」
沈黙が落ちる。窓から忍び込む表の喧騒がいやにうるさく聞こえる。
シャイレンドルは眉根を寄せて、オスレイルを見つめて言った。
「えっと……それってオスレイルの彼女か何かか?」
オスレイルの目が見開かれた。
「……はっ? お前、自分の妹の名前も忘れちまったのかよっ!」
アマドの怒鳴り声に、シャイレンドルも目を見開いた。
「――いもう、と……?」
ずきん、と頭に差し込む痛みで、頭を抱え込む。目を閉じると脳裏に真っ赤な海が見えた。海を背景に振り返った少女の、さらさらの金髪がふわりと広がる。嬉しそうに開いた口が『おにーちゃん』と動き――赤い海に飲み込まれて消えた。
「――アーーっ!」
「おい、シャル!」
喉を振り絞って叫んだはずのその名前は、記憶から滑り落ちた。
目を開けば、アマドとオスレイルの顔が飛び込んできた。腕をがっちり捕まれ、自分でも誰かの服の裾を握り込んでいる。
「正気に戻ったか……お前、また発作起こしてたぞ」
「本当にどこも悪くないのか?」
「あ……ああ」
自分の手から握りしめていた布を引き剥がし、二人の腕を外すと、ゆっくり布団に横たわる。
「悪い……帰ってくれ」
二人に背を向ける。
「こんな状態で……お前一人にできるわけ、ないだろう?」
オスレイルは声を荒げた。
「それに……黄金花……今日、何日目だよ。シャル、お願いだ。意地張らないで、俺たちと神殿に行こう」
「もう、四輪目が咲いてるじゃねぇか……」
アマドも呻くように言った。
「あぁ……今のが四人目だったのか……」
シャイレンドルは目を閉じた。滑り落ちていった記憶が誰のものだったのか、もう思い出せない。
「……なあ、オスレイル」
「なんだ」
「お前のオヤジさんは神殿に戻った」
「えっ」
「おい、それほんとか?」
二人の声に、シャイレンドルは目を開いた。
「ああ。――俺を拾ってここに預けたのがお前のオヤジさんだった。今朝、神殿から迎えが来て帰っていった」
「ほんとに?」
「よかったな」
アマドの言葉に、オスレイルはくしゃっと顔を歪めた。
「よかった……」
シャイレンドルは目を閉じた。あの男の気配が近づいている。
――なんで分かるんだろう。どんどん近づいてくる。そんな気がする。
目を開けると、シャイレンドルはよろよろと体を起こした。慌てて助け起こそうとした二人の手を払い、頭を上げる。
「……お前たちは神殿へ行け」
「シャル?」
「迎えが来たらしい」
どたどたと大股に歩く足音と、それを制止しようとする宿の主の声が飛び込んでくる。
「お客さん、勝手に入られたら困ります!」
「すぐに失礼すると言っているだろう!」
叩きつけるような声に、アマドとオスレイルは立ち上がった。
扉が荒々しく開かれる。
シャイレンドルは戸口の方に目をやった。
初めて会った時からずいぶん頬がやせ、目の下にくまを作った黒髪の美丈夫が、黒尽くめの姿で立っていた。
「よぉ」
弱々しくも片手を上げて見せると、ユレイオンは怒り顔のままベッドに近寄り、胸ぐらを掴み上げた。
「おいっ、病人になにをっ……」
オスレイルが割って入ろうとする。が、振り上げられた右手は、振り下ろされることはなかった。
シャイレンドルは目の前に迫る男を見上げた。もともと白い顔色はさらに青白く、怒りで目は血走り、薄い唇を食いしばり、自分を睨みつけている。
「……寝不足か?」
「誰のせいだと思っている!」
「……俺のせいか」
「あたりまえだっ! どれだけ探したと思っているっ! お前の身勝手な行動でどれだけ人を振り回せば気が済むんだっ!」
「……すまん」
ユレイオンは驚いて胸ぐらをつかんでいた手を離した。支えを失ってシャイレンドルの体はゆっくりと倒れていく。その体をアマドが受け止めた。
「ちょっ、シャル! ……あんた、いきなり何なんだよっ!」
ユレイオンはそう言われて初めて自分とシャイレンドル以外の人間がここにいることに気がついたようだった。
「あなたたちは……?」
「シャルの友達だ。あんたこそ、いきなり来て病気のシャルに掴みかかるなんて、何者なんだよっ!」
「私は……シルミウムの塔の魔術師だ。ユレイオンと申す。シャイレンドルのお目付け役を仰せつかっている」
「シャルの、お目付け役?」
オスレイルは驚いて目を見開いた。
「ともかく、彼は私が神殿まで連れて行く。――もう時間がないんだ。わかってるな、シャイレンドル」
「……ああ」
体を起こし、ベッドから出て立ち上がろうとしたシャイレンドルは、足の力が入らずに床にへたり込んだ。
「おい、大丈夫か?」
「ああ、肩、貸してくれへんか」
ユレイオンはシャイレンドルの右腕を取るとなんとか立たせた。が、歩こうとしても足が前に出ない。仕方なくシャイレンドルの両腕をつかむと自分の背中に体をのせて腕で引っ張り上げた。
「腕……いてぇ」
「我慢しろっ。……済まないが、馬車を手配してきてくれないか。こいつは私が背負っていく」
「あ、ああ」
アマドは部屋を走り出ていった。
「君は階段を降りるのを手伝ってくれ。不安定で落としそうだ」
「分かった」
幼なじみたちの声を聞きながら、シャイレンドルの意識は闇に飲まれていった。




