9.花街 5
ユレイオンは話を聴き終わっても黙りこんだままだった。
――記憶を失う――。
それが黄金花の呪いだと、読み取っていいのだろうか。今の話が本当だとすれば――あの男はどこまでの記憶を失ったのだろう。
黄金花を町に降らせて、今日は何日目だ? 何日経った?
「話は……それで全部です。黄金花は記憶を奪い、命も奪う……。だから……」
女はそう言って言葉を詰まらせた。
一刻を争う。……そう、あの少女も言った。
彼女との約束の期限は明日。急がねばならない。
ユレイオンは立ち上がった。
「話してくれてありがとう」
あとはどうやってあの男を追いかけるべきか。何か手がかりがほしい。
壁にかけられていた外套と鞄を思い出し、ユレイオンはそれらに手をかけた。
――一度神殿に戻って――。いや、そんな時間ももったいない。あと一日のうちに見つけられなければ、どのみち自分も彼も終わりなのだ。
「すみませんが、水盤になるようなものはありませんか」
「水盤……?」
アイランが怪訝そうな顔をする。魔術師以外には馴染みのない言葉だと気が付き、あわててユレイオンは言い直した。
「ああ、ええと、水を張れる大きなたらいのようなものがありませんか。それと水を」
「キリに聞けばあると思いますが……何に使いますの?」
「ここで彼を探します。構いませんか?」
「彼を……分かりました。探して参ります」
はっと気がついたようにアイランは顔を上げ、あっという間に階下に降りていった。ユレイオンは鞄を探り、中のものを机の上に広げた。
小銭入れと着替えの他は何も入っていない。普通は何か常に持ち歩くものが一つぐらいあるものだが、それすらない。それほど物に執着しない自分でさえあるのに、彼には何もなかったのだろうか。
仕方なく、外套をベッドに広げる。フード部分に金の糸が絡みついているのに気がついて、そっと拾い上げる。黒基調の外套に金糸は使われていない。あの男の髪の毛だろう。
ベッドの枕元も見たが、こまめにベッドメイクされているのだろう、アイランの黒髪以外は残っていない。
ほどなくしてアイランがたらいと水差しを持って来た。たらいに水を張るが全く足りない。何度か往復してもらって――終いにはあのキリという女もぶつぶつ言いながら手伝っていたが――水を張り終わると、水を清め、手を浸す。
金の髪は左の人差し指に巻きつけた。本人から離れてそれなりに日数が経っている。まとわりつくその気配は随分薄くなっていたが、なくなってはいない。
ユレイオンは力を集中させる。人の活動が始まる時刻で、町を動く人の気配がせわしなく動く。その中を、水盤に映る街の様子を見ながら、ただ一人の気配を名前を呼びながらたぐり寄せる。
弱々しい応答があった。間違いない。本人だ。
『あんたか――覗き見野郎』
はっきりと聞こえた。が、その力ない声に、ユレイオンは焦りを覚える。あわてて揺らした水盤の水紋を心を落ち着けて取り去り、声に集中する。
水盤には、金髪の魔術師が映っていた。が……。
肩で荒く息を吐き、汗で金糸を頬にまとわりつかせ、頬のこけた顔。
「お前……何があった!」
思わず水盤に叫ぶ。水鏡の魔術も使えないシャイレンドルには、こちらからの声はきっと届いていないだろう。だが、声をかけずにいられなかった。
『ああ、何か言うたか? 聞こえへんけど。……アイラン、そこにおるやろ』
はっと顔を上げる。女は椅子に腰掛けて心配そうにユレイオンを見守っていた。
ユレイオンは彼女を手招きすると、横に立たせる。
「よくわかったな。――アイラン殿、見えるか?」
アイランはうなずくと、肩を震わせ、涙を落とした。涙は水盤に吸い込まれてさざ波を立てる。
『ああ、アイラン……すまん、戻れそうに……ない。ごめんな……』
そう言い、シャイレンドルは力なく目を伏せる。アイランはその場にしゃがみこんで泣き崩れた。
「貴様、どこにいる!」
眠ろうとするかのように目を伏せた男を起こそうと声をかけながら、場所を特定、マーキングをする。
『もう、ええ。……ほっといてくれ。このまま消えても……かまへんのや。どうせ誰も……待ってへん』
「待ってる人がいるだろうが! ここに! それに、貴様の呼び寄せた者たちも! ……アイラン殿、立ってくれ」
泣き続けるアイランを立ち上がらせる。彼女の声が届いたのか、シャイレンドルは目を開けた。
「彼女をこれ以上泣かせるな。貴様は約束したんだろう? 必ず戻る、と」
水盤に映る男の瞳が一瞬大きく見開かれた。聞こえるはずのない声に反応したように。
『……ほな、頼むわ。わいの居場所……分かってんねやろ……』
あと頼むわ、と言い置いて、水盤の中の男は口角を上げて目を閉じた。
ユレイオンは水盤の魔力を消し、一歩下がるとシャイレンドルの外套と鞄を取り上げた。
「アイラン殿、行ってきます。必ず、彼を連れて戻ります。それまで預かっていてもらえますか?」
まだ水盤の前ではらはらと泣く彼女に、鞄と外套を手渡してユレイオンが言うと、彼女は顔を上げてうなずいた。
部屋を出ようとしたら、あの痩せた女が立っていた。何か言いかけたようだったが、目を閉じて首を振ると道を空けてくれた。
「ありがとう。彼女を頼みます」
ユレイオンは足を早めた。




