8.熱 4
通された控えの前で、セグニールは無言のまま座していた。兄のカラより預かった手紙は、対応した神官に預けた。
しばらく待てと言われてすでに半刻が経つ。
渡してくればよいから、と出掛けに言われた言葉が空々しく蘇る。
軽くため息をつき、視線を左の扉に巡らせた。神官が去った扉の方角を。
簡単なことだ、と引き受けねばよかった。得体の知れぬ者の使者を務めるなどと、自分の役目でもないのに。
手紙を渡した際の、ただならぬ様子の神官に奥でお待ちください、と言われた時に断ればよかった。
そう思いながら腰を上げずに待ち続ける自分の優柔不断さを笑う。
その時、自分が見ていたのと反対側の扉が勢い良く開いた。
「おや、先客か。失礼」
反射的に振り向いたセグニールは、漆黒の黒髪に目を奪われた。
滝のようにまっすぐ腰まで流れる美しい黒髪、額に走る金の細い輪。
その髪が縁取る白い顔が、黒で統一された旅装とそぐわない。
「それほど珍しいか? 私が」
凛と通る声で言われて初めて、自分が不躾な視線で彼女を凝視していたことに気がつく。
「失礼いたしました」
己が座ったままであることにも気がついて、サラリと立ち上がる。
「そなたが使者か。水の神官が己の領域より出るは珍しいな」
望んで使者を務めたわけではないが、口にだすのを控える。
「水の神殿で仕えております、セグニール・カディルと申します」
おそらくこの女性が手紙の受け取り主だろうと判断して名乗りを上げると、彼女はめんどくさそうに首を振った。
「名乗らずともよい。私はただの通りすがりだ。シュワラジー殿はじきに来られよう」
彼女が口にした名が塔の魔術師を統べる長だと知らぬセグニールは、その言葉を聞き流す。
「私はただ使者を頼まれたにすぎないのですが」
「彼の者にも用がないとは限らぬさ。どこの神殿に務めておる」
「ゴーラの水神殿です」
すると彼女はふんと鼻で笑った。
「あぁ。貴族の御用達か。かの神殿は見目よい者を集めていると聞くからな」
その言葉に含まれる揶揄を読み取って、セグニールは眉をひそめた。
「水神殿を愚弄されるおつもりか」
しかし女性は淡々と続けた。
「水の本体はアーダのウーラ山の奥深くにある。水の大神殿はその麓のリウスとウラの町にある。そこからはるか遠いゴーラなどにある水神殿で満足しているのなら、程度が知れよう」
「お言葉ではございますが、現在アーダと我が国は敵国の間柄。たとえ大神殿が彼の地にあろうとも、我らは国境を越えることが出来ませぬ。だからこそゴーラに代理神殿を建て、そこで勤めを果たしておるのです」
「砂漠を越え、北の国を回れば彼の地に入れる。彼の地の長が大神殿に赴く神官を害するはずもない。彼の地では水の神官は族長よりも位が高い。水の神官に害なす者は、全てのアーダの民より追われることになることを、彼の地の長はよくご存知だ。彼の地を蛮族の地と呼び、彼らを蛮族と呼び、敬遠するそなたらの方がよほど物知らずであろうう?」
薄く笑いながら辛辣に言い放つ彼女に、セグニールは唇を噛み締めた。
「そなたは未熟だ。そなたが大神官の使いとはな。しかも妙な気配を纏う」
はっと目を上げると、彼女は目を眇め、眉間にしわを寄せて笑いを消していた。
反論しかけていたセグニールは口をつぐむ。
沈黙が流れ、女性の己を検分する視線に焦りと不安が一気に噴出する。その赤い唇が何を紡ぐのか。
きりきりと胸が痛む。
「そなた……」
沈黙を破って彼女が口を開いた時、扉から街人が現れた。
「おまたせして申し訳ない」
にこやかな表情の老人は、西の塔の魔術師を統べる塔長だと自己紹介した。
「礼を言わねばと思うての。――シャナ殿?」
二人が挨拶を交わす横をすり抜けて奥へ進む女性へ、シュワラジーは声をかけた。
「同席してはいただけぬかのう?」
しかし彼女は足を止め、振り向きもせず言った。
「断る。その坊やは私の契約外だ」
「坊……失礼なっ」
いきり立ってセグニールは立ち上がった。こんな口の悪い女性を、一瞬でも美しいと思ってしまったのかと己を恨む。
「そなたのような未熟者は坊やで十分だ。――私は下にいる。終わったら呼んでくれ」
それだけ言い残し、彼女は出て行った。
「一体どういうお方ですか、今の女性は」
セグニールは憤りを抑えきれず、長に尋ねた。
「このような侮辱を受けたのは初めてです。神殿の方ならば、このまま黙って帰るわけにはまいりません」
塔長はやれやれ、と肩をすくめた。
「どういうやりとりがあったのかは存ぜぬが、あの方は神殿の関係者ではない。強いて言うなら、魔術師の塔――シルミウムに縁のあるお方じゃ」
「魔術師の……」
言われて、額に輝いていた金環を思い出す。では、あれは魔術師の位を示す環だったのか。
「何か言われたのかね?」
「……色々と」
辛辣な言葉たちを反芻する。
「人は誰も、隠している真実を目の前に晒されると憤慨するものじゃ。彼女の言葉に思い当たることが一つもなかったといえるかね?」
「それは……」
セグニールは唇を噛んだ。
静寂と静謐を重んじるゴーラの水神殿において『心まで氷』と言われた己が憤るほど、彼女の言葉は容赦がなかった。
「彼女の前では誰も、己を隠すことはできない。そなたも己に恥じぬ生き方をなされ。そなたはまだまだ若い」
扉から別の老人が現れた。セグニールに会釈をした後、塔長に何事か耳打ちする。塔長はうなずくとセグニールに向き直った。
「セグニールとおっしゃったな、水の神官殿。そなたが持って来られたこの手紙、どなたのものか、そなたはご存知か?」
老人の手には自分が持ってきたあの封書が握られている。
「いえ、宿屋を営む兄よりことづけられたもので、どなたからとは存じません」
差出人を尋ねた時の兄の困惑した顔を思い出す。何も聞かずに持って行ってくれ、と兄は懇願した。
「そうか、ではセグニール殿。そなたの兄が営むという宿屋に案内をしていただけぬか?」
「兄の? なぜにございましょう?」
「手紙の差出人はおそらくそなたの兄の宿屋に泊まっておられるのであろう。迎えが欲しいとおっしゃるので、案内を請いたいのだが」
「案内、ですか」
誰ともわからぬ者のために、塔の魔術師が迎えに行く。
奇妙な符号だ、とセグニールは思う。いや、おそらくあの手紙の中で、差出人は分かっているはずだ。だったらなぜ、己にその正体を問うのだろう?
ふと、先ほどのやり取りを思い出す。シャナと呼ばれた女性は、こう言ってはいなかったか? 『大神官の使い』、と。
「不躾な質問を、お許しいただけますか?」
「なんなりと」
「その差出人の御方を、塔長様はご存知なのですね?」
すると、塔長は奇妙な表情をうかべた。驚きとも困惑とも取れる顔。
そして、軽く頭を下げる。
「失礼した。そなたを若輩と見くびっておったようじゃ。なるほど若いながらも水の正神官となるだけのことはあるらしい。試すような真似をして申し訳ない。じゃが、そうなると、そなたに案内を請うのはやめておいたほうがよさそうじゃな」
「水の正神官が介入してはまずい、ということですか?」
ふう、とため息をついて塔長は目を伏せた。
「そなたは本当に察しがよいのう。そういうことじゃ。これ以上深入りすれば、そなたの身柄を拘束せねばならなくなる」
沈黙が場を支配する。
セグニールは視線を床に落としたまま、唇を噛み締めていた。
手紙の中身に興味があるわけではない。だが、気がついてしまったことを、いかにしても覆すことができなかった。己に嘘をつくことになる。
「私が……その手紙の差出人に気がついていると申し上げても、私を解放なさるのでしょうか?」
「セグニール殿」
「私とて水の神殿の一員。この太陽神殿で起こっていることに興味がないわけではありません。ああ、もうっと早く気がつくべきでした。あの手紙に使われている紙は、彼の方専用のものですよね?」
塔長と老人は顔を見合わせ、同時に深くため息をついた。
「分かってしまわれたのか。それではもう、そなたをお返しすることが叶わなくなりました。セグニール・カディル殿。申し訳ないが、祭りが終わるまでは神殿内に逗留くだされ」
「では、案内をいたしましょう」
「よろしくお願いする。家族の方々へは書状をしたためるゆえ」
しばし待たれよ、と塔長たちは引き上げていく。
誰もいなくなった部屋で、ソファに身をうずめ、セグニールは顔を両手で覆い、目を閉じた。
軽率だったか、と思いながらも、一体この太陽神殿で何が起こっているのだろう、と興味が湧くのを抑えられなかった。
今の太陽神殿の大神官をセグニールはよく知っている。だからこそ、何も知らないような振りをしてそのまま立ち去ることができなかったのだ。
「セイファード様が、なぜ」
神殿が、祭を重んじるのを彼はよく知っている。しかもそれが十年に一度しか開かれない重要な祭ならば、その性質上、盛大に行うのが常である。全ての神官が全土より呼び戻されることだってありうる。
なのに、なぜこの大祭にあの方がいないのか。
――まさか兄の宿屋に潜伏していたなんて。
「残ったのか」
聞き覚えのある声が耳に届き、セグニールは目を開けた。
彼女がいつの間にか目の前に立っていた。
「世情を知らぬ未熟者と思うたが、少しは使えるようだな」
「あなたには関係ありません」
「そなたが案内するのは私だ。彼を迎えに行くは我が役目ゆえ」
「あなたが?」
「……今回のことには私も無関係とは言えぬゆえ」
「塔の魔術師の方が、なぜ神殿の――?」
大神官と関係が、と言いかけるのをシャナは厳しい目で制した。
「迂闊に口にしてはならぬ。神殿の中とはいえ、情報が漏れていないとは限らぬ。とりわけそなたは他神殿の者。最も疑われるべき立場にある。そのような者が迂闊にそのことを口にすれば」
結果は火を見るよりも明らかだろう。
セグニールはうなずいた。
「断っておくが、私は塔の魔術師ではない。シュワラジー殿がどういう説明をしたかは知らぬが」
等を離れた魔術師というのは市井にいくらでもいる。彼女もそういう存在の一人なのだろう、とセグニールは理解し、うなずいた。
「では言い換えます。なぜあなたが関係あるのです?」
「そなたとは関係のないことだ。要らぬことは聞かぬがよい。無事にこの神殿を出たいならば」
「お言葉ですが、私も成り立てとはいえ正神官の端くれ。他門の神殿でそのような扱いを受けるいわれは……」
「まだそんな甘いことを言っているのか」
シャナはセグニールの腰掛けるソファの背に両手をつき、セグニールに詰め寄った。口調が急に厳しくなる。
「ここは太陽神殿の中。正神官とはいえお前は他門の者。ここでは単なる一般人の一人にしか過ぎぬ。しかも太陽神殿の中枢を揺るがすだけの秘事を知っているのだぞ! お前が知っていることを神殿側は知らない。だからこそ、こうして自由の身でいられるのだ。神殿側がこのことを知れば、お前はただでは済むまい」
シャナの言葉に、セグニールは改めて自分が巻き込まれようとしていることの重大さを思い知らされた。
「で、ではこのことは」
「我々魔術師しか知らぬ。もともとそういう契約だ」
「契約?」
「要らぬことを聞くな」
苛立たしげに頭を振ると目の前の物分りの悪い神官をねめつける。シャナの肩から黒髪が一房滑り落ちた。
「こんな坊やが正神官とは、世も末だ。しかもお前……誰にその術をかけられた」
今度はセグニールがたじろぐ番だった。至近距離にあるシャナの黒い瞳が鋭く光る。セグニールは顔をそらし、表情を消す。
「それこそあなたには関係ありません」
彼女の白い手がすいと伸び、神官の顎を捉えた。そのまま強引に自分の方を向かせる。
「魔術師にごまかしは効かぬ。お前、何のために何を売った?」
「離して、ください」
己の顎にかかる手を外そうとするが、思いの外その力は強かった。
「これは黒魔術だ。神殿も塔も禁じている、な。このことが公に慣ればお前は神殿から永久追放だ。分かっているのだろうな」
「あなたには関係ありません! あなたに――私の苦しみなど分かるはずがない!」
言い放ち、シャナの黒い瞳を睨みつける。彼女はじっとその視線を受け止めていたが、何の反応も示さず神官の顎を自由にした。
「お前たちはいつもそう言うのだな……」
彼女の瞳は悲しげに揺れていた。
そのまま、ついと身を翻すと彼女は出て行った。
「何なのですか、一体……」
セグニールは、扉に向かってそうつぶやいた。




