8.熱 2
階段を上がってくる誰かの足音がする。扉の前で足音は止まり、扉が開く。
ぼんやりと目が覚めたシャイレンドルは彼女の名を呼んだ。が、帰ってきたのは男の声だった。
「気がついたようじゃな」
重いまぶたを無理やり押し開ける。どうやら自分はベッドにうつ伏せで眠っているようだった。顔を横に向けると、白髪の見覚えのある顔が見えた。
「あんた……」
記憶が途切れる前に聞こえた声が脳裏に蘇り、がばっと起き上がろうとする。が、くらりと目が回ってそのままベッドに倒れ伏した。
「ああ、無理をしてはいかん。まだ熱は下がっておらんのだぞ」
静止する腕を振りきって、なんとかシャイレンドルは起き上がった。
部屋の中を見回す。見覚えのない宿屋の部屋のようだった。戸口はまだ開いており、立ったままの青年が困惑した顔でこちらを見ている。
「あんたら……一体ナニモンや」
シャイレンドルの目がきつく老人をねめつける。
「彼はこの宿屋の主人だよ。この部屋はわしが泊まっておる部屋じゃ。彼は関係あるまい? カラ、すまんがその水桶をこちらへ」
「あ、はい。すみません。気が付きませんで」
蛇に睨まれた蛙のようにシャイレンドルの視線に氷漬けされていた青年は、ようやく我を取り戻した。だが、水桶を渡した後も、彼はその場に立ち尽くしていた。
「どうかしたかね?」
訝しんだ老人が尋ねると、、やはり困惑した顔で彼は首を傾げた。
「いえ、なんだかわからないのですが、なぜか目が離せなくて……どこかで会ったことがあるんでしょうか?」
「さての。気のせいということもあろう。それ。もうそろそろ店に戻らねばならんのではないか?」
「あ、はい」
それでも度々振り返る彼の態度にいらだちを感じて、シャイレンドルは嗤った。
「せやったらわいが立ち去らせたろか?」
「え?」
振り返ったカラと視線があった瞬間、シャイレンドルの瞳は翠に変化した。
邪眼をまともに浴びてカラはひっくり返った。
「やめよ! シャイレンドル」
失神した宿の主人を抱き起こす老人の背を、シャイレンドルは邪眼のまま睨みつけた。
「妙に絡んでくるんがはなっから気にいらんかったんや。その上、わいの名前まで知っとるとか、怪しすぎるで。わいはあんたに名乗った覚えはあれへん」
そのままゆっくり立ち上がる。
「わいはあんたに見覚えはない。どこの回し者や。塔か? 神殿か? それとも王宮か? まあ、どこのモンでもかまへんわ。わいの周りをうろちょろすんなや!」
「シャイレンドル」
「その名を呼ぶな! あんたに呼ばれる筋合いはない!」
「言ったであろう? わしは十年前のそなたを知っていると」
「わいは知らん」
「信じなくともよい。だが、わしはどこの回し者でもない。誓ってもいい」
「どーだか。あんたからは神殿の奴らと同じ匂いがぷんぷんするで」
シャイレンドルが皮肉たっぷりに笑うと、老人はカラをそっと床に降ろして振り向いた。
「少なくとも、今のわしは神殿とは関係がない。そなたを束縛するつもりもどこかに突き出すつもりもない。ただ、道に倒れていたそなたを拾っただけだ。せめて熱が下がるまでここにいなさい。このまま出て行っても、またどこかで倒れるかもしれん」
「お断りや。己の素性を語れん奴は信じられへん。わいはわいの好きなようにさせてもらうで」
背を向け、服を取り上げる。
やれやれ、とため息をついた老人は、ふと彼の背の一点を凝視した。
「シャイレンドル、その花は……」
「その名を呼ぶなと言うたはずやで。……この花がどないかしたんか?」
シャイレンドルは声を揺らさないように絞りだす。
「まさか、黄金花ではあるまいな。それほどまでに成長した姿は初めて見るが」
「……だったら?」
二輪の小さな花と、ふくらんだ蕾。
「何ともないのか?」
「何ともって?」
「呪うと言われておるのは知っておろう?」
「ああ……知っとる。呪いか……ああ、そうかもしれへんな」
視線を床に落とす。そうだ、これは呪いなのだ。天に帰らなかった――帰れなかった花の。
「どうしようもあれへん。肝心の大神官が不在とあっちゃぁな」
半ば諦めたようにため息をつく。
老人はしばらく花を見つめていたが、おもむろに顔を上げた。
「……もし、もしもわしがどうにかできる人物を知っておる、と言ったらどうする」
しかしシャイレンドルは首を振った。
「わいを騙そうと思うても無駄やで。この花は大神官でないとどうにもでけんというのは知っとる。神殿が血眼になって探しとる大神官の居場所を、神殿と関係のないあんたがなんで知っとるんや」
「わしは嘘は言わぬ」
「……せやったら、神殿の奴らに教えてやったらどないや」
「何?」
予想外の答えに、老人は驚いて顔を上げた。シャイレンドルの目は金色に戻っていたが、その視線は刺すように鋭い。
「神殿の奴らがあれほど探しても見つからんものを、あんたが知っとるはずがないやろ。嘘もたいがいにせぇや」
「ならば、呪いを解かずともそのままでよいと? そなたのその熱も黄金花の呪いじゃろう。そなたは黄金花の呪いの本当の恐ろしさを知らんのだ。その花はいわば寄生植物だ。人間に寄生して花を咲かせる。黄金花は五輪咲く。だが、五輪目が咲いた瞬間に、規制された人間は命を落とすのじゃ」
「……それ、ほんまか」
シャイレンドルの顔から血の気が引く。
「その話は本当です」
意識を取り戻し、しばらく前から二人のやりとりを聞いていたカラが不意に口を挟んだ。
「ボクは神官を目指して神殿で教育を受けたことがありますから知っています。この方がおっしゃっていることは本当です」
「まさか、そんなアホな」
「そなたには見えぬだろうが、そなたの黄金花はすでに二輪咲いている。三輪目の蕾も咲くのは時間の問題だろう。あと二輪が咲くまでに何とかしなければ、そなたは命を落とすのだぞ!」
「……あんたらが嘘を言ってないという保証はどこにもない」
視線を床に落としてつぶやく頑ななシャイレンドルの態度に、老人は悲しげに息をついた。
「こんな嘘をついてまでそなたを陥れて、わしに何の得があると言うのか!」
「わいが信じるのはわいだけや」
「では……わしの命を持って誓う。わしの言葉が嘘だった場合はわしの命を奪うがよい」
しかしシャイレンドルは首を振る。
「どうしても信じてもらえぬか」
「いや……そうじゃない。どうして気ぃつかんかったんやろなあ」
蜂蜜色の髪の毛をかきあげ、顔を上げたシャイレンドルはいつもの表情に戻っていた。
「賭けはあんたの勝ちや、大神官殿」
奇妙な沈黙が部屋の空気を支配した。
ややあって、老人は肩をすくめ、ため息をついた。
「――なぜ、わかった」
「セイファード様!」
宿の主が声を上げる。が、老人は手で制した。
「よいのだ、カラ。隠し通せるとは思っておらなんだ。しかし……これほど簡単に見破られるとはな。そなたを見くびっておったようじゃ。確かに、わしが太陽神殿の現大神官を務める、セイファード・リティカだ」
「やっぱりな。あんたの目ぇ、どっかで見たことあると思うとったら……っ」
神殿で見た肖像画と同じなんや、と続けようとしたシャイレンドルは、ひどい頭痛に言葉が途切れる。
脳裏に浮かぶ朱。猛烈な吐き気と脱力感で床に膝をつき、体を二つに折る。
「どうした、シャイレンドル! カラ、医者を!」
「や……めっ……!」
苦しい息の下から、部屋を飛び出そうとするカラを制止する。
「だれ……も……ぶ……な」
「今はそんなこと、言っている場合じゃないだろう! はやく医者を!」
「は、はい!」
体の力がどんどん抜けていき、拳を握りしめることすらままならない。シャイレンドルは床に倒れ伏した。
「一体どうしたんだ! 何か病気でも持っているのか?」
「ち……が」
ままならない体とちぐはぐに、思考がものすごい勢いで回り出す。
――一体どうしたっていうんだ、俺。これもあの花の呪いなのか? 何で、あの肖像画を思い出すたびにこうなる? この爺の顔を見ても何ともなかったのに……。
再び頭痛が襲ってくる。体の苦痛から逃れるため、シャイレンドルは意識を手放した。




