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翠の瞳 ~塔の魔術師 外伝~  作者: と〜や
熱 ――五日目
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8.熱 1

 頭が割れるように痛い。

 時折、針を刺し込まれたような鋭い痛みが脳天から走る。

 シャイレンドルは思わず立ち止まり、傍らの壁に手をついた。

 まだ朝のひんやりした空気が残っているにもかかわらず、頭から水をかぶったかのように全身汗まみれだ。額から伝った汗が顎から滴り落ちる。

 それなのに、体はどんどん冷えていく。

 おかしいのは分かっている。だが、体を動かさずにはいられない。

 あのままアイランの側にいることなんて出来なかったのだ。





 今朝は頭痛で目が覚めた。

 飛び起きて、今まで見ていたのが夢だったことを悟る。冷や汗で全身ぐっしょり濡れている。

 頭を抱え、深くため息をつく。

 じわじわと、夢が自分の精神を蝕んでいるのがわかる。

 この街に戻ってきてから、ろくに眠れない。真夜中に何度も飛び起きる。昨夜もそうだ。

 眠れない。――眠りたくない。

 横で眠る女にきがついた。うつ伏せに眠る彼女の長い黒髪が頬にかかっているのを指先で拾う。

 彼女は……。

 意識の表面に浮かんだ名前が、昨日と同じように横滑りしていくのが分かる。そのまま滑ってしまえば、記憶の闇に消える。――忘れてしまう。


「……だめだ!」


 両手で頭を抱え、精神を集中させて必死でその名前をつなぎとめようとする。

 他のどの記憶が消えようと構わない。覚えてない両親の記憶だろうと、塔での苦痛に満ちた日々の記憶だろうと、忌々しい教官たちの記憶だろうと。

 だが、この女は。

 この女だけは忘れたくない。たとえ自分のことをすっかり忘れてしまっても。

 朱色の光景が広がる。彼女の姿が浮かび上がる。白い顔に浮かぶ唇ははっきりと『シャル』と甘い声で呼んだ。


「ア……イラン……」


 ぎりぎりのところでつなぎとめたその名を呼ぶと、彼女はにっこりと微笑んでくれた。

 だが、その顔が覚えのない別の女性の顔に変化していく。さらさらの流れるような黒髪が、ウェーブのかかったふわふわの金髪に、細面のきりっとした目つきが、丸い小顔の優しい目に。


 ――誰だ……。


 その分厚い唇が自分の名前を呼ぶ。『シャイレンドル』と。

 聞こえないはずなのに耳元でささやく呼び声が、何故か懐かしい。

 優しく微笑んでいるその姿が、赤い背景に溶けていく。

 と同時に頭痛も消えた。

 肩で息をついて、ようやくシャイレンドルは目を開けた。 

 傍らにはまだアイランが何も知らずに安らかな寝息を立てている。


「アイラン……」


 黒髪を指で梳き、一房取り上げると唇を寄せる。

 忘れてない、ちゃんと覚えてる。この髪の毛の滑らかさも、いい匂いのする肌も、可愛く鳴く声も。

 屈みこんで眠る彼女の頬に口づけると、シャイレンドルは彼女を起こさないようにそっと部屋を抜けだした。





 町はお祭り騒ぎも一段落して、今朝は比較的静かだ。が、大通りの方からは相変わらずの賑わいが聞こえてくる。

 壁に背中を預けて、そのままずるずると座り込む。

 日の当たらない路地の空気は体の熱を奪っていく。


「や……ばっ」


 頭痛は治まらない。ますますひどく締め付けてくる。視界もぼやけてきた。

 両目を手で押さえると、冷えた手のひらが気持ちいいほど火照っている。


 ――熱、出てるんか。


 意識ははっきりしてる。間断ない頭痛以外は体にどこも異常はない。頭痛のせいで集中力が切れているだけだ。

 夢のせいだ。

 たかが夢だ。でも、それ以外に心当たりはない。

 目を閉じて夢を反芻する。だが、アイランの姿以上は思い出せない。もう、赤い闇に消えた女の姿は見えなかった。

 眠い。――でも眠りたくない。

 寒い。――でも暑くて仕方がない。

 目を閉じて座り込んだのが災いしたのか、眠りそこねた昨夜のつけがどっと襲ってきた。

 赤い闇が自分を引きこもうとする。

 その朱の色が、また頭痛を引き起こす。

 見たくない。なのに、目を閉じると赤い闇が迫ってくる。

 寝不足があがく彼の精神を絡めとる。


 ――だめだ、もう……。


 根負けして意識を手放すシャイレンドルの耳に、自分の名前を呼ぶ男の声が消えていった。


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