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翠の瞳 ~塔の魔術師 外伝~  作者: と〜や
左手の紋様 ――四日目
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7.左手の紋様 3

 何も映さない水盤の前でたじろぎもせずに立ち尽くす影があった。

 黒ずくめのユレイオンである。

 水盤に満たされた水面に映るのは、明かりに照らされた自分の白い顔だけ。

 たかだか五日前、同じように水盤の前に立った時と何ら状況は変わっていない。

 あの男を探すために水盤を覗く。水盤は封じられたまま何も映さない。

 縁に手をかけ、ため息をつく。やはり街に降りて足で探さねばならないのだろうか。でも、それでは時間を浪費するだけだ。

 あの時見えたのは、町の東門近く、粗末な作りの建物が密集した地区だった。場末の宿屋かと思ったが、どちらかと言えば夜を眠らないあの様子は、花街界隈なのだろう。

 そこまで考えて、ユレイオンは顔をしかめて深くため息をついた。

 そのあたりを手当たり次第に探す以外に手はないのか。

 どうもこの祭は、己の甘さや弱さをさらけ出すようなことばかり起こっている気がする。次から次へと。

 どれも己が乗り越えなければならない壁になるだろうことは以前から予想がついていた。が、これほどはっきりと形になって現れたのは、今回が初めてだ。

 いらぬ考えに滑りかけた心を引っ張り直して、ユレイオンは顔を上げた。

 何がどうであれ、今は己が受けた以来はこなさなければならない。期間中に。


 ……そう、命にかけても。


 口元に笑いが浮かぶ。己への嘲りの笑いだ。


「無様だな……」


 人に言われれば無性に腹が立つであろう言葉を、己の口で吐く。

 分かっているのだ、自分でも。それでも、自分の取るべき唯一の道だと、自分で選び取った現在だ。誰に責のあることでもない。

 と、不意に扉がノックされる。入ってきたのは塔長だった。


「長様」

「手こずっておるようじゃのう」

「……申し訳ありません」


 頭を下げる。塔長は何も映さない水盤にぱしゃりと手を浸け、水をすくった。


「そなた、塔に入って何年目になるのじゃったかな」

「今年で九年になります」

「そうか、ではシャイレンドルとは同期であったのか」


 ユレイオンは唐突な塔長の発言の意図を汲み取りきれず、水盤に手を浸したままの塔長を見つめた。


「同じ年月を塔で過ごしたとは思えぬ違いじゃな。片や銀二位に手の届く優秀な魔術師、片やサークレットも持たぬ未熟者」


 その言葉が自分とシャイレンドルを表していることは分かる。


「そなたは塔に入るのは通常より遅かったが、その上達ぶりは他の者を凌いでおったの。じゃが、応用はいまいちのようじゃな」

「申し訳ありません」

「責めておるわけではない」


 恐縮し、頭を下げるユレイオンに塔長は微笑みかけた。


「基礎に忠実であることは、魔術師として最も重要なことじゃ。じゃが、もう一歩踏み出すには自分なりに魔術を応用し、開発していかねばな。――実は、そなたに確認しておきたいことがあっての」

「何でございましょう」


 誓約の紋章を捺された自分に、塔の重鎮たちはその扱いを変えようとしない。それはユレイオンにとっても救いではあったが、これが最後だと思えば胸が苦しくなる。


「そなたの今後の進退についてじゃ」


 胸が傷んだ。冷や汗がどっと浮いてくる。


「私の……」


 最後通牒。こんなにも早く、しかも塔長から直接話が来るとは思っても見なかった。


「そなた、塔に残るつもりはないか?」

「……え?」


 一瞬耳を疑った。


「長様?」


 己の左手に目をやる。

 誓約の紋章をこの手に刻んだ己が、塔に残れようはずもない。それは塔長が一番良く知っているはずだ。

 だが、ユレイオンの葛藤を知らずか、塔長は続けた。


「そなたは銀三位、次に位が上がれば卒業じゃ。希望するなら条件のよい所へ斡旋してもよい。じゃが、わしとしてはそなたには塔に残ってもらいたいと思っておるのじゃ。考えておいてくれぬか」

「長様、お言葉は嬉しく思います。ですが、私は」


 左手を隠すように手が動く。

 だが、塔長は気にした風もなく続けた。


「誓約の紋章のことならば気にせずともよい。そなたならば問題はあるまい? 今はイグレーン殿の依頼を果たすことに集中しておればよい」

「……少々、お聞きしてもよろしいでしょうか?」

「何じゃ」


 ユレイオンは前々から抱いていた疑問を口にした。


「イグレーンのことをご存知なのですね?」

「ああ、知っておる」

「では、彼女とあの男との関係もご存知なのですか?」


 水盤から手を引き上げ、塔長はため息をついた。


「そうじゃな……そなたは知っておくべきかも知れぬの。イグレーンはの、十年前の十年祭の時期に亡くなった、シャイレンドルの実の姉の名じゃ」

「えっ? ……亡くなった?」


 塔長の言葉に、ユレイオンはショックを受けた。


「そんな馬鹿な……では、あのイグレーンは一体」

「ユレイオン、この祭での神子の役割を知っておるな」

「……はい、神獣を降ろすための依代だと」

「なれば想像もつこう。なぜ彼女が神子に降りたかはわからぬがの」

「そんな……」


 自分をからかっていた彼女の姿を思い出す。

 十歳ほどの少女の姿と、妙にそぐわない大人びた口調。その違和感は最初からつきまとっていた。あれが、死者だというのか。


「幽霊だったと、そうおっしゃるのですか」

「うむ、間違いはなかろう。そなたは死者と誓約を交わし、死者の依頼を請け負ったのじゃ」

「そして、その製薬を破り、紋章を受けた……この紋章は、死者との誓約の証だと……?」


 塔長は深くため息をついた。


「なぜ彼女が魔術師の誓約の方法を知っていたかはわからぬがの。……ユレイオン」

「はい」

「先ほどの件、考えておいてくれ。ああ、それから水盤でだめなようなら他のもので試しなさい。無事シャイレンドルが見つかると良いのだがな」

「――ありがとうございます」


 部屋を出る塔長に頭を下げる。

 塔長の言葉が、真っ暗だった己の胸に火をつけていったのが分かる。たとえそれらが嘘であろうとも、今は貴重な救いの光だ。

 顔を上げたユレイオンの瞳からは、絶望と自嘲の光が消えていた。


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