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翠の瞳 ~塔の魔術師 外伝~  作者: と〜や
左手の紋様 ――四日目
57/99

7.左手の紋様 1

 夜が明けても、神殿の扉は開かれない。

 今日こそは開くだろうと期待して列をなす人々の口から、失望の言葉がこぼれ出す。

 やがて、神殿の通用門が開かれ、使いと思われる神官が現れた。人々が騒ぎ出すのをおさえて、今日も神子の熱が下がらず、神託を降ろせないことを告げた。

 明日には、というあまりに頼りない神官の言葉に、列の先頭あたりにいた人々が来た道を引き返し始める。それを見て、整然と並んでいた列の人々はあらかた察したようで、引き返す者と血相を変えて神官たちに詰め寄る者とで一気にばらけた。

 その様子を、じっと立ち止まって見つめる老人がいた。

 先日シャイレンドルを占った老人である。

 老人が見つめる中、神官にすがりつく使者たちが一人、また一人と重い足取りで引き返していく。やれやれと老人はため息をつき、首を振った。

 それに気がついたのか、神官はいぶかしげに立ち尽くす老人を見た。


「まだなにかご用ですか?」


 思いがけない言葉に、老人はつい歩み寄った。


「神子はどうかなされたのかな? 昨日も入らせてもらえなかったが」

「神子は昨日より高熱を出されて、体を起こすこともままなりません。申し訳ないのですが神託ならば明日にしていただきたいのですが」


 神官は、できれば早く引っ込みたいのだが、と体を引く。


「熱ですか。ふむ、わたしには薬の知識もある。診せてはもらえぬだろうか」


 しかしその言葉に神官は警戒心を強くしたようだ。


「いや、だめだ。医師も薬師も神殿に詰めております。あなたに手を借りる程でもない。もうよろしいでしょう?」


 老人はしかたなく踵を返した。今の自分では仕方があるまい。

 町への道を歩く。その途中で十歳程度の少女とすれ違ったことを老人は知らなかった。





 重い頭を持ち上げる。朝の儀式の始まりを知らせる鐘の音だ。

 慌ててユレイオンは飛び起きた。

 寝過ごした。

 朝の儀式には必ず参加するように言われていたのに、自分らしくもない失態だ。

 今日に限って長老たちの部屋は静まり返り、気配がない。

 今朝の儀式がそれほど重要なものだったろうか、と昨日のことを反芻しつつ外へ急ぐ。

 すでに儀式は始まっていた。

 足音に数人の神官がとがめるように眉をひそめてこちらを振り返る。あわてて足音を忍ばせながら、最後尾に並んだ。

 祭壇ではいつもと同じ手順が繰り返されている。

 首を巡らせば、長老たちも今日は珍しく顔ぶれが揃っていた。

 ふと、使い女たちに混じってあの少女が何食わぬ顔で参列していることにユレイオンは気がついた。

 彼女も視線で気がついたようで、含みのある笑いを返してくる。

 視線を祭壇に転じながら、なぜ、と疑念が湧いてくる。

 街で偶然出会っただけの、ただそれだけの少女のはずだ。なのに、なぜこの場にいて、儀式に参加しているのだ。

 長老も、一緒に並んでいる使い女たちも全く気がついていない。

 儀式が終わるまで、胸騒ぎは収まらなかった。そして、その予感は正しかった。

 詠唱が終わり、儀式を担当した神官長が、その終了を告げようと振り返って一同を見渡した時。

 柔和な笑みが硬直した。

 長い沈黙に異変を感じ取った神官たちはざわめき、その視線の先をたどる。


「そなたは……なぜここにいるのだ」


 絞りだすように神官長がうめく。視線の先にはあの少女が立っていた。

 神官や使い女達が動き、人並みが割れた。


「捕らえよ!」

「その必要はないわ。逃げるつもりはないもの」


 神官長の声を打ち消すように、凛とした声が響く。


「十年に一度の栄えある神子として選ばれながら、その使命を全うせずに神殿より消え失せるとは、物事の道理の分からぬ歳でもあるまい。神子の誓約を忘れるとは何たることだ!」


 神官長が少女の名を呼ぶと、彼女は罪のない笑顔を浮かべた。


「残念ね、誓約をしたのはあたしじゃないわ。あの子なら眠ってるわよ。この中でね」


 そう言って、自分の幼い胸を指す。


「何だと?」

「あたしの名はイグレーン」


 何が起こったのか察した神官たちの間からどよめきが上がる。だがユレイオンにはその意味がわからなかった。


「おまえが、神子だと?」


 ユレイオンが思わずつぶやくと、その声に反応するように少女は彼の方を向いた。


「そう、正確にはこの体の持ち主がね。お兄さん、気がついてるかと思ってたんだけど、その様子じゃ全然気がついてなかったみたいね」


 実に楽しげなその表情は、たしかに自分を翻弄したあの少女のものだ。

 ユレイオンはいつか前に顔を合わせたはずの神子の顔を思い出そうとした。もっと地味でおとなしい、歳相応の幼い顔だったはずだ。

 だが、どうしても思い出せなかった。


「おまえは一体何者だ」


 そう問うユレイオンの瞳は冷たく厳しい。少女は前と同じ答えをあっけらかんと投げてよこした。


「あたしはあたしよ。他の何者でもないわ」

「それでは答えになっていない」

「あら、じゃああなたは自分が何者なのか、言えるの?」


 イグレーンの瞳がきらりと光った。


「あなたが魔術師なのは知ってるわ。誰の息子でどういう家族構成か、どこの生まれか。そんなものじゃないかしら? あなたの答えは」


 ユレイオンに答える隙も与えず、ますます楽しそうに論を詰める。


「でもそんなもの、あなたのいる位置を示しているだけ。あなたという存在自体を示すものではないわ。あなたは自分の存在を言葉で表すことができるの? 人の言葉じゃなくあなた自身の言葉で」


 反論を口に上らせかけていたユレイオンは、その言葉を飲み込むしかなかった。


「じっくり考えてみることね。そうすればあたしの言葉がわかるでしょう。とりあえずこれ、返しておくわね」


 にっこり笑って少女が抱えていた魔法書を差し出すと、ユレイオンははっと息を飲んだ。


「これは……」

「あたしが持っていてもしょうがないから返すわ。でも、いかなる理由にせよ誓約を守れなかったのは事実だから、ペナルティは受けてもらうわよ」

「……ああ、分かっている」


 ユレイオンは少女の前に片膝をつき、差し出された魔法書の上に手を載せた。


「正式に交わされた誓約を破った場合のペナルティは魔術師にとっては致命的よ。それを知っていても受けるのね?」


 少女の表情から笑いが消える。だがユレイオンはうなずいた。


「ああ」


 ため息をつき、やはり少女は笑った。


「あなたってほんと、真面目よねえ。あたしは魔術師じゃないんだから今回の誓約は正式なものじゃないと破棄して逃げることもできるのに」

「たとえ相手が誰であれ、自分から誓約を破ったのは事実だ。受けるべき罰は受ける」

「……いいのね? 本当に」

「やってくれ」

「……わかったわ」


 少女の手が魔術師のそれに重ねられる。

 目を閉じたユレイオンの脳裏に稲妻がフラッシュバックする。左手の甲に鋭い痛みを感じ、続いて少女の手が離れた。


「いいわよ」


 目を開ければ、左手の甲にくっきりと赤い紋様が刻まれている。触ってみればミミズ腫れのように少し盛り上がっていた。


「その紋様は三日もすれば見えなくなるわ。でも、二度と誓約主の言葉には逆らえなくなる。逆らおうとすればその紋様が動いて……」

「知っている」


 ユレイオンもかつて塔の中でこの文様を目にしたことがあった。正式な誓約を破った魔術師の信用は地に落ち、二度と宮仕えの話は来ない。誓約主に従うしかない魔術師は、誓約主が死ぬか、あるいは自分が死ぬことでしか自由を得られないと聞いている。逆らえば、その紋様は身中の虫のごとく這い、魔術師の心臓を止めるとも。

 その紋様を自分の手に焼く日が来ようとは、誰が思っただろうか。

 左手を拳に握る。

 全ては自分のまいた種だ。誰を攻めようもない。


「じゃあ、あたしからの『お願い』ね」


 両手を後ろに回して、少女はいつもの表情に戻った。


「『あの子』を探して」

「あの子?」

「そう。あたしたちを呼びつけたくせに、あの子ったらあたしたちのこと、てんで覚えてないんだもの。文句の一つも言ってやりたいじゃない? それにあなたも用があるんでしょ? 今回の祭りとも関係がないわけじゃないし」

「え?」


 差し出された魔術書を受け取って、ユレイオンは立ち上がった。


「とにかく急いで。時間が経ちすぎると危険だから。そうね……その紋章が消える前に」


 左手の甲に反射的に手をやる。


「期限は三日間というわけか」

「そういうことになるわね。引き受けてもらえるわね?」

「わかった」


 厳しい条件だが、引き受けざるを得ない。ユレイオンがうなずくと、イグレーンはいつもの笑みを返した。


「よかった、じゃああたしは眠るわ。あたしもこの子もちょっと疲れたから。くれぐれもあの子のこと、頼んだわよ」


 それだけ言うと、イグレーンの体がたおれていく。


「触れてはならぬ!」


 あわてて手を差し伸べようとしたユレイオンを鋭く制する声があった。

 一瞬の躊躇の内に、神殿の使い女たちがかけより、ぐったりした神子の体を抱え上げる。


「金聖獣の降りるべき器である神子には、乙女以外が触れてはならぬのだ」


 気がつけば、すぐ隣に神官長が立っていた。


「神官長殿」

「まさかそなたと接触していようとは、迂闊であった」

「え?」

「どこの手の者に頼まれたのだ。西か? 北か? それとも王都の回し者か? もしや先日の侵入者についても、そなたが手引きしたのではあるまいな」

「何のことです。私は何も」

「神獣の降りた神子を連れ出していたのであろう! 我々がどれほど手を尽くして神子を探していたか、よもや知らぬわけではあるまい。それとも、この期に及んで白々しく何も知らなかったとでも言うつもりか?」


 神官長が激昂する。振り向けば、神官や使い女たちが自分に敵意を含んだ視線を向けていた。


「ええ、知りませんでした。彼女が神子だということも」

「そんなはずがない! そなたは彼女の神降ろしの儀式に立ち会っているではないか! それでも神子の顔を知らぬと言い切るつもりか!」


 まずいことになった、とユレイオンは唇を噛んだ。

 今は何を言っても言い訳にしかならない。イグレーンとのやりとりを彼らの目の前で繰り広げてしまったのだ。自分が神子失踪に関与していないと主張して、誰が信じるだろう。

 それだけではない。

 理由はわからないが、神殿が塔の魔術師に対してあまりいいイメージを抱いていないことはうすうす感じていた。

 自分の行為が、危うい均衡の上にいた神殿と塔の間の亀裂を決定的にしてしまった。

 最悪の結果だ。


「塔の最高位の魔術師が聞いて呆れますな。このような、我々を蔑ろにするような者をよくも寄越してくれたものだ!」


 神官長は、そばに来ていた塔長たちに向かって言い放った。


「そもそも、金聖獣の降臨を阻害していたのは魔術師だという過去の記述もありますし」


 塔長が一歩歩み寄った。


「彼を今回の役目に選んだはわしゆえ、神事における弟子の不始末についてはわしが全ての責を負う。だが、神事を離れた行動については各自の責任において、と申し渡してある。そのことについて塔自体に言及するのは筋違いというもの。そうではありませぬかな?」

「神子については神事に関わるものと考えてもよろしかろう。神事については不可欠ゆえ、参加を認めるが、それ以外については自粛していただきたい。身柄を拘束させていただくか、監視をつけさせていただく」

「そちらがそう言うならば、彼の身柄はわしが預かる。そなたらもお聞きの通り、彼には神子との誓約がある。彼の行動の制限はしないでいただこう」

「その誓約というものがどれほどのものかは知らぬが、この男を無罪放免にするわけには行かぬ」


 すると鉄火のラマカ師が忍耐切れとばかりに吼えた。


「何も知らぬそなたらが口出しできる代物ではないわ! 魔術師の交わす誓約のペナルティは、その者の信用と命だ! それをそなたらの面子一つのために失えという資格がそなたらにあるとでも思うのか! この男が信用できぬというならば、我らはたちまちにでもこの結界を解き、塔へ帰らせてもらうぞ! そうなれば神子に降りたものを戻すことはもはやかなわぬと思え!」


 ラマカ師の言葉に、ユレイオンは目を見はった。

 若輩者の自分に対し、最も否定的だったはずのラマカ師が、これほど激昂して自分の弁護をしている。毒舌を叩くだけの師の姿以外見たことのなかったユレイオンは驚きを隠せなかった。


「ラマカ殿は気が短い」


 朗らかに笑いながら進み出たのは、温厚のスーラ師だ。


「それほど脅さずとも、とうにお分かりでございましょう、賢明な神殿の皆様は。我ら塔の魔術師が手を引けば、次回以降の十年祭がどうなるかなぞ、ねえ?」

「うぬう」

「ちなみに神官長殿。そなたには前回の十年祭くらいまでの記憶しかなかろうが、我ら塔の老人たちには少なくとも四回前までの記憶がある。神子に降りたものが金聖獣だと思いたいならそれもよかろう」


 塔長の最後の言葉に、神官長は目を見開いた。


「何ですと?」

「セイファード殿ならそのあたりをよくご存知であろうがの。さて、大神官殿はいずこへ行かれたのやら」


 エスター師が塔長の思いを読み取って口に出す。


「セ、セイファード殿はゆえあって市井に降りておられると先だっても申したばかり。し、仕方ありますまい。彼の身柄は塔長殿にお預け致そう。だが、これ以上神子に会わせるわけにはまいりませぬ」

「言ったであろう? 神子と彼の間の誓約は、我らにも、ましてやそなたらにも手出しできぬものだと。彼が神殿内を歩くことも、町中に降りることも、神子に会うことも、全てにおいて自由であると。これは譲れぬ」


 ラマカ師の野太い声が神官たちを威圧する。


「神子が求める限りは譲らざるを得ませぬな。……よろしい、身柄を解放しましょう。しかし、これ以降彼らの手を借りられるとは思わないでいただきたい。彼らとてこの神殿と神獣を預かる者。プライドもありますゆえ」

「客としての待遇をせぬ、ということですかな?」

「皆様のお世話は従来通りさせて頂くが、それ以上はありませぬな。フォーレル殿とおっしゃったか、若き魔術師殿よ、そなたの師に感謝することだな。そして忘れぬことだ。そなたが我らにしたことを」


 憎々しげに言い捨てて、神官長は立ち去った。まだ居残っていた神官と使い女がそれに従う。

 その背を見送り、塔長は弟子を振り返った。


「さて、ユレイオン」

「はい」

「そなたの決めたことじゃ。わしらは手を出さぬ」

「……え?」


 咎められると思ってうなだれていたユレイオンは、その思いがけない言葉に耳を疑った。


「そなたには最初に言うたな。今回はそなたにとって試練じゃと」

「はい」

「これはあくまでもそなたとイグレーン殿との問題じゃ。そなたの思うようにするがよい。三日のうちにシャイレンドルを探しだせ。そなたの受けた以来じゃ」

「やはり、そうなのですか」


 『あの子』はあの男だったのですか――。

 イグレーンとあの男の関係は分からないが、自分が探している、しかも祭に関係ありそうな男といえばあの男しかなかった。


「分かりました」


 そもそも彼女と会ったのはあの男を探すために街に入った時だった。


「シャイレンドルが見つかるまでの間、神殿での神事への出席は免じておく。必要なら街での宿泊も許可しよう」

「……ありがとうございます」


 かろうじて塔長への謝辞が口にのぼる。

 己の立場の予想もつかぬ変動に、ユレイオンはただ、平静を装うことしか出来なかった。


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