六月中旬の日勤
佐倉の視点になります。
病棟にうめき声が響く。その苦しみに満ちた声は耳にする者の心をかき乱す。
「師長さん、村木さんを個室に移動できませんか?」ベッドコントロールは師長の仕事だ。朝の申し送りを終え、患者の様子と見に行った。同室の患者から苦情が来るのは時間の問題だろう。これ以上、大部屋で管理、ケアすることは難しい。
「そうね、10時に退院されるから、その後移動しましょう」にこやかにおだやかに答えが返ってきた。もうそろそろかしらねとため息混じりにつぶやく。
62歳男性。大腸がんの手術を2年前に受け、その後化学療法を受けてきた。化学療法による体のダメージは決して小さくなく、転移していた癌は思ったほど、小さくならなかった。癌は全身に広がり、その体を蝕み、朽ち果てようとしている。癌の痛みが強く、薬でコントロールしきれなくなってきた。痛みに加え、倦怠感、疲労感とさまざまな体の不調によって、呻かざるをえない。その苦しみに耐えかね、漏れる声は聞いていて、苦しくなる。
結婚することなく、妻も子供もいない。親や兄弟とも音信不通。患者の身よりはない。日雇いの仕事でつつましく、細々と生きてきたが、病気にかかり働くことが出来なくなってからは、生活保護を受けている。
この病院は急性期の病院であり、積極的な治療をせず、緩和ケアを行うのであれば、緩和ケアを専門とする病院への転院や自宅への退院を勧める。それは社会福祉士に家族が相談し、家族が患者の希望、家族の希望を取りまとめ、選択、決定する。どんな最後を送りたいか、どこで、どのように、それはさまざまだ。
「村木さん、このままここになるかしら。一度自宅に帰りたいって言ってみえたけど、難しそうね」
「そうですね」
「佐倉さん、社会福祉士の担当の人って誰だったかしら?」
「間宮さんです、市役所は福祉課の馬場さんです。間宮さんから、馬場さんに連絡はいってるので、すぐに対応はしてもらえます」
「なら、大丈夫ね」
患者が亡くなると、家族が葬儀屋に連絡、葬儀とそれに伴うすべての雑務を葬儀屋が担う。しかし、身寄りの無い人、家族が遺体の引取りを拒否した場合は、市役所の福祉課に連絡すると遺体を引き取り、市役所が荼毘に付す。この患者も市役所が引き取ることになる。
詰め所に大きな体を丸めて入ってくる姿が目に入った。
「あ、西口先生!村木さんのお薬の処方をお願いします」
「え?もう無いの?だいぶ痛みが強いのかな?」
「このペースで使うと、夜中になくなります。また夜中に呼ばれちゃいますよ」
「今日は早く帰りたい。昨日も当直で全然、寝れなかったんだよ」
「もう少し、お薬の量を増やせませんか?痛みがなかなか取れなくて」
「薬剤師の先生に相談してみるよ」
「お願いします。もうあまり時間がないようですね」
「そうだな、なにかあったらよんで」
個室に移動した患者と意思疎通が取れなくなり、目線が交わることもなくなった。痛みが和らいだのか、意識が遠のいたのか、呻くことも無いが、問いかけに答えることも無い。それからしばらくして、静かに旅立った。
「丸野。処置、先に入るね」ハンカチで涙と鼻水をぬぐいグズグズと泣いている丸野に声をかける。聞こえたのか聞こえてないのか、返事は無かったけれど準備をして部屋に入る。
入梅を済ませ、日差しは雲にさえぎられ外は暗い。照明をつけても暗いその部屋におかれたベッドに、病気と闘った小さな体が横たわる。枕元に立ち、手を合わせて目を閉じる。病室のドアが開き、入ってきた気配を感じ、目を開けると高井がいた。
「あれ?丸野は?」
「まだ泣いてる。誰にも見取ってもらえない最後がつらい。村木さんが可哀想ってさ」
「はぁ、そっか」
「レントゲンの移送と定数チェックを頼んできた」
佐倉は患者に可哀想と感じることはない。そんな自分を冷たいと思うが、どうしても思えない。
「体を拭いて、着替えますね」返事が返ってくることはないが、佐倉は声をかける。生きているときと同じように、右手を拭きますね、左を向きますよと。
擦り切れたスラックスはぶかぶかだった。白いポロシャツは何度も洗濯を繰り返したのか襟が少しくたびれていた。靴下を履かせ、土色の顔にファンデーションを載せ、頬紅と口紅を差す。そうするとほんのり笑っているような、穏やかな雰囲気がしてくるから不思議だ。
「お疲れ様でした」すべての処置がおわると佐倉は改めて、手をあわせる。
「いっつも、あんな感じでしてるのか?」処置室で片づけをしながら、高井が問う。
「あんな感じって?私なんかおかしかった?」
「いや、おかしくない。全然、全く」
「なら、よかった。もうこの年になると、だれも教えてくれなくなるから、妙なことしてても、誰にも言ってもらえないことっていっぱいあると思う。高井くらいはつっこんでくれないと。そうだ、市役所に電話ってした?」
「処置の前にした。15時に迎えが来る」
「了解」
患者を霊安室に運び、そこから市役所福祉課の黒いバンに乗せる。社会福祉士の間宮、医師の西口、看護師の丸野と佐倉でバンを見送る。長いクラクションにあわせ、頭を下げる。村木さんお疲れ様でしたと佐倉は心の中でつぶやく。
「可哀想過ぎます。みんな仕事の人ばっかりに見送られるなんて、そんなのってないです」丸野は目を赤くする。西口が何かを話しかけていたが、佐倉は病棟にすぐ戻った。
次は明日の12時に更新予定です。
視点がぶれる(´Д`|||)