五月の下旬の深夜勤務
こんなにあわただしい深夜勤務があるのかと高井は正直、驚いていた。巡回に訪れた当直の前田師長と必要以上の言葉を交わす余裕はなかった。
目の前にはこなすべき仕事がたくさんあるにもかかわらず、予想外の患者の急変に思わずため息が出た。救急カートを持って訪れたその部屋には、無駄な動きのない、ほんのり頬を上気させた佐倉の姿があった。高井はほんの一瞬、その姿から目が離せなかった。「ありがと」そう言って微笑む佐倉にはっとして「ここは頼むわ。あとはなんとかする」といって部屋を出た。どこにも根拠はなかったが、何とかするしかないと思った。当直師長が前田であったことはとても幸運だった。
「マジで無理ッス。なんとかしてくださいよ。師長さんが要らないこと言うから、こんな無謀な勤務になってるんすよっ」前田師長はカラカラと笑って、応援を回すと快く答えてくれた。
「丸野、死後の処置は応援に来てくれるスタッフとやってくれ。それからは自分のことだけに集中して、ほかの事は気にしなくていいから。でも、わからなかったり、できないことがあったら、そのときに声をかけて。採血は全部、回るから」終わりそうにない仕事に、さすがの丸野も顔をこわばらせている。
そうしてなんとか、のりきった勤務。外科師長のため息交じりの叱責が聞こえる。
「どうしてほかのスタッフに確認をしないの?どうして西口先生と……」
「すみません。本当に忙しそうで、声をかけられなくて」丸野の声はどんどん小さくなり、ほろほろと涙をこぼし始めた。
「師長さん、すみません。てっきり、佐倉が確認したと思い込んでいました」丸野から声をかけてくると思って、こちらから声をあえてかけなかったが、それではうまく運ばないようだ。
「こちらから声をかければよかったですね。ほんとうにすみません」判断ミスは高井自身にあると思い、高井は師長にそう言った、しかし、丸野はそうとらえてはいないようだ。涙を目にためて、じっと見つめる視線に気が付いて、体のだるさが何倍にも感じられた。
夕方のカンファレンスのために重い体を引きずって、駐車場に降りると、珍しく佐倉の車がまだあった。高井は自分の車に乗らず、その車の前で佐倉を待っていた。ふらふらと歩いてきた佐倉の顔は青白く、切れ長の目はどこか遠くを見つめるように視点が定まってないようだった。すぐそばまで来てやっと高井に気づいた佐倉に声をかけるも返事はない。あまり気にせず、その隣に乗るとふっと高井の鼻にタバコの臭いがした。高井は佐倉がタバコを吸っているところを見たことがない。佐倉がタバコを吸っていると聞いたこともない。
その臭いはほんの少しで気のせいと言われれば、そうなのかもしれない。佐倉はタバコを吸うのだろうか、それとも、佐倉の部屋にタバコを吸う誰かがいるのだろうか。それを佐倉に問うことができないまま、とめどなくどうでもいい言葉を吐き続けた。
これまた短いです、もうひとつ更新。