四月の日勤
少し前になります。
高井の視点になります。
「高井君、勤務異動ね、四月から七階南、外科病棟ね」五年勤務した整形外科の師長前田の言葉は、高井駿にとって意外でもなんでもなかった。順番としては、次は自分だという意識はあった、年に一度の希望調査票にも、外科への異動を希望していたからだ。
「はい、わかりました」すんなりとその言葉は出てきて、そして、外科病棟の同期、佐倉茉莉子の顔が浮かんだ。
時々、アパートの階段や駐車場ですれ違うけれど、高井に声をかけることもなく、視線すら合うことなく、佐倉は下を向いたまま、軽く頭を下げて通り過ぎていく。その背中は小さく、歩調は重い。そんな同期に高井もあえて、声をかけることはなかった。
同期は三十人足らず、毎年退職によって減っている。研修や勉強会、委員会で同期と関わることは多い。そして、男性看護師は高井ともう一人、手術室勤務の島田、二人だけなのだ。市立病院に勤務する男性看護師は約五パーセント。外出時に視線を感じるとたいてい病院の職員、自分は知らない人でも、向こうは自分のことを知っている。それが当たり前だった。だから、佐倉の反応はあまりにも意外だった。
外科病棟は看護師三十三人、三チームに分けて患者の担当をしている。高井はA チームとなった。四月の異動は新人と重なり、新人の教育が優先される。そのため、丁寧な指導は期待できない。実際、勤務表を確認し、背中につめたい汗が流れた。四月の二週目から夜勤が始まっている。外科師長からは「前田師長から高井君はかなりできるってお墨付きもらってるから大丈夫よ」取り付く島もない。
佐倉に声をかけたのは同期だったからか、同じアパートだったからか。
「佐倉、ちょっといいか?」昼の休憩室には、ちょうど、出払ったようで佐倉のほかに誰もいなかった。
「何?」小さい弁当箱を広げていた佐倉は怪訝そうに顔を上げる。
「外科ほんとにわからん。何かいい資料もあったら、貸してくれ」
「あぁ、うん。わかった。病棟勉強会の資料を適当に見繕って、持ってくるわ。あれが一番わかりやすいし」
「じゃ、今日、取りに行くわ。佐倉って部屋、どこ?」
「え?今度、病棟に持ってくるよ、そんなわざわざ取りに来なくても……」口に運ばれていた卵焼きが止まる。
「俺、明日休みだから、早くほしいし、いいよ、別に面倒でもなんでもない。同じアパートなんだし」
「ふえぇ?同じアパート?」切れ長の目を見開いて、ぱちくりさせている。
「お前マジ、気づいてなかったわけ?何度もすれ違ってるし。どうりでスルーされるなぁって思ってたけど。視野、狭すぎだろう?」
「ほんとに?全然気づかなかったし。え?最近、引っ越してきたとか?」
「俺、学生の頃からあそこだから。かれこれ十年近いかな」
「ええ?私のほうが後だし」
「だな、見かけるようになったのって、三、四年くらい?」
「うん、二年目だったから、四年かな?」
「佐倉ぐらいじゃないかな?俺に気づかない職員って?」
「そんなことないでしょ!まぁ、高井って」
平原綾音が休憩室に入ってきた。佐倉は言葉を飲み込むように口を閉じた。
「何?急に静かになっちゃって。邪魔しちゃった?」レジ袋を提げた平原はくすくす笑って、椅子に座る。
「俺、佐倉と同じアパートなんっすけど、何回もすれ違ってるのに、全然気づいてなかったんすよ?」
「うふふ、高井君って目立つのにね。いっつも、喋ってるから」
「なんすっか!その理由。四六時中喋ってるみたいに、言わないでくださいよ。まぁ、口数が少ないとはいえないですけど、そんなに喋ってますか?俺って?まだ、外科で三日なんですけど」
「おしゃべりっていうよりは、調子がいいとか、ノリがいいって感じ?高井君の前評判はなかなかよかったし。まぁ、女ばっかの職場で話題の種にはなるんじゃない?結構、もてるんじゃないの?」平原は当然のようにいい、おにぎりにかじりつく。
「それは平原さんの想像ですか?確定情報?俺の子と好きな子がいたら、教えて下さいよ。ほんとに」
「あれ?高井君って彼女、いるんでしょ?」
「いませんよ。そんなガセネタが出回ってるから、遠慮しちゃってるとか?」
「ほんとに?確かな情報なんだけどな。いつからいないの?」
「もう、一年くらい前っすよ。浮気の濡れ衣、着せられてたいへんだったんすよ。女とご飯食べに行かないでって言われても、無理だし」
「うふふ、そうね。同期も後輩も、先輩も女ばっかりだもんね」
ほとんどが女性の職場で仕事をすることをうらやむ友人が高井にもいるが、看護師という職種の女性たちは、一緒にいて高井を男扱いすることがない。しなだれかかられることもなく、甘えられることもなく、彼女たちは一様にサバサバとしている。少なくとも高井のであった看護師たちはそうだった。
仕事の帰りに佐倉の部屋により、資料をも貰う。ついでにアドレスを交換した。書き込みの多い資料はとてもわかりやすく、佐倉の字は読みやすかった。
どんどん更新します。