深夜明けのカンファレンス
〔もう、嫌だ。あんたなんて大嫌い!私に関わらないで、私の前に現れないで!〕
夢を見ているとわかっていた。声の限りを尽くして、叫ぶ。その言葉はあの人に向けたものだったから、夢だとわかっていた。
見慣れた白い天井はぼやけて、頬は涙でぬれていた。壁にかけた小さな丸い時計は五時前をさしている。北向きに腰高窓がひとつあるだけの六畳一間のアパート。夏至の早朝にしか日が差し込むことはない。五月の下旬、カーテンの隙間からこぼれる光だけでは五時前は午前が午後か、とっさにはわからない。ベッドから飛び起き、テーブルの上の携帯を手に取る。16時56分。ほんの一瞬、何がなんだかわからなくなり、寝坊した?遅刻?嫌な汗が吹き出てくる。すぐにパズルがぴったりと合うように思い出す。深夜勤務明け、昼前に帰宅、シャワーを浴びてそのまま寝てしまった。これからカンファレンスに行かなくてはならない。
まだ湿り気を帯びている髪が首筋にからむ。重い体を引きずるように、小さなシンクと一口コンロしかないキッチンに行って、換気扇を回す。五枚の羽がくるくると回り始め、羽が溶けてひとつになる。佐倉はタバコに火をつけて、大きく息を吸い込んだ。タバコから昇る紫煙をそれよりも白い煙を口から吐き出して、勢いよくぶつけた。二つの煙は絡まって換気扇に吸い込まれていく。あの夢を見たのはずいぶん久しぶりだった。ただの夢だけれども、あの夢を見た後は滅入る。いつもは奥のほう追いやってある気持ちが容易に前に出てきてしまう。その気持ちはまるで影のようで、いつもそばから離れない。足元に小さく薄くなり、ほとんど気づかないときもあれば、大きく長く、そして濃くなり、存在感を増すときもある。いつでもそこにあるとわかってはいても、色濃くなると捕らえられてしまう。
身支度を済ませて、駐車場に行くと高井が所在無げに立っていた。
「おっ、いいタイミング。一緒に行こうぜ」うんともいいとも言う前から、車の助手席側に周り、ドアに手をかけている。
「顔色悪いぞ、深夜きつかったもんな、大丈夫か?」
「うん、大丈夫」
「マジできつかった。カンファレンス、本気でパスしようと思った。師長報告とか、委員会報告とか、書類に目を通せばいいことばっかりだし、あんまり必要性を感じない」長い手足をダラリと伸ばして座席に座り、とめどなく話し続ける。
市立病院外科病棟の看護師として働いて六年目、高井は同期で、この四月から高井が勤務異動で外科病棟勤務となった。一緒の病棟で働くまで、あまり話をしたことは無かった。
病院の周りにはたくさんの賃貸物件があるにもかかわらず、佐倉と高井は同じアパートに部屋を借りていた。高井はずいぶん前から気づいていたらしいが、佐倉はまったく気づいていなかった。四月から時々、高井と飲みに行くようになったのは、ただ同期ということと、家が近いということだろう。
十分もしないうちに病院に着く。高井は正面玄関に近いところで、サンキュ、帰り飲みにいこうぜ言い、佐倉が返事をする前にさっと車を降りてしまう。佐倉は職員駐車場に車を停め、更衣室で白衣に着替える。カンファレンスは私服でもいいのだけれど、佐倉は白衣に着替える。袖を通しボタンを止めると背筋がぴんと伸びる。
病棟に上がると日勤務者がまだ、あわただしく動いている。カンファレンスの開始は遅れそうだった。
「佐倉ちゃん、お疲れさま。深夜きつかったみたいね。こないかと思ったわ」平原綾音がシフォンのブラウスをひらひらさせて言う。
「マジできつかったんすよぉ」いつの間にかそこにいた高井が話に入ってくる。高井が深夜の状況を細かく、面白く平原に話して聞かせる。ふふふと平原が笑う。
「そうだ、佐倉ちゃん。この前、お母さんって人が来たよ。すごく若くてきれいで、とてもじゃないけどお母さんに見えなくて、ビックリしちゃった。でも、少し似てるからお姉さんって感じね。連絡してもなかなか電話してくれないから、近くに来たついでに寄ったって言ってたよ。ちゃんと連絡してあげなきゃ、心配してたよ」
「……え?病棟まで来たんですか?」
「うん、そうよ。なにそんなビックリして」
「はぁ、そうですか。すみません」頭の中が一瞬、真っ白になって目の前の景色がくるくる回る。ドキドキと胸を打つ音が響いて、別に謝ることなんてないしという平原の声や周りの音が遠くなっていく。
「佐倉。大丈夫か?お前、さっきから顔色よくない」高井が肩を掴む。
「あぁ、やっぱりちょっとくたびれたかも」遠くなっていた音がきちんと耳に届いた。
高井の予想通り聞いても聞かなくても、かまわないようなカンファレンスが滞りなく終了し、着替えて駐車場に行くと高井が待っていた。
「大丈夫か?体調よくないなら、飲みに行くのいつでもいいし」
「ん、大丈夫。聞きたいことあるみたいだし」
「まあな、でも急いでないから」
「沖の太夫でいい?」佐倉は車に乗り、エンジンをかけた。高井はまだ渋っていたが、助手席に乗り、おうと返事をした。
二人で飲みに行くのはたいていここだ。理由は二つ、アパートから近い。そして、ほどほどに混んでいる。四階建てのマンションの一階テナント、居酒屋、沖の太夫。駐車場に車を停め、色がすっかり剥げてしまった暖簾をくぐり、ガタガタ鳴る引き戸を開けると、奥さんのいらっしゃいと明るい声がかかる。5席ほどのカウンターと四人がけのテーブル席が四つあり、三組、先客がいた。奥から二番目の席に座り、高井は注文を通していく。
「生ビールと冷奴、軟骨から上げと揚げ出し豆腐」
「私、ジンジャーエールと、お刺身の盛り合わせと、枝豆。豆腐と揚げ物、かぶってるよ」
「気にならない」
「あっそ」
奥さんはすぐに生ビールとジンジャーエールとお通しを運んできた。お通しは小芋の煮転がし。お疲れと小さく言ってジョッキを軽く持ち上げて、高井はのどを鳴らす。
「それで、なんで坂さんの下血に気づいたんだよ。担当は丸野だったし、コールが鳴ったわけでもないだろう」佐倉がたまたま目に付いたことを話すと高井は露骨に顔をしかめた。
「お前、なんだよそれ。担当でもないのに患者把握しやがって、どんだけ頭の中に情報いれてんだよ」
「たまたまだよ。ほんとに」
「そのたまたまに、俺らも、坂さんも助けられたってわけだな」
「大げさ」ジンジャーエールを口に運び、ちびちび枝豆を摘む。
「丸野、最近急変とか緊急多いな。続いてないか?丸野と夜勤するとなんかいつも忙しい気がする」
「丸野が夜勤、西口先生が当直。この組み合わせはてっぱん、毎回、何かあるわ」
時々、そんなことがある。夜勤するたびに、緊急入院や緊急手術、患者の状態が急に悪くなったり、亡くなったりする。ある一定期間、それが続く。お守りを買ってみたり、お祓いに行ってみたり、対処の仕方は人それぞれだ。こんな時期もあると、あきらめてしまう人がほとんどけれど、丸野はきっとめそめそするんだろうなと佐倉は思った。
引き戸がガタガタと鳴る。高井は出入り口に向かって、手を上げる。
「先生!どうしたんですか?こんなとこで?俺たちがうわさしてたの聞こえました?」
「なんだよ、うわさって」大きな体を丸めるようにして戸をくぐり、ずり落ちてきためがねを持ち開けて、西口智哉はこちらに歩いてくる。高井は自分の隣の椅子をバシバシ叩いて、座るよう催促するると、ためらうことなく高井の横に落ち着く。
「ていうか、先生。何でこんなとこにくるんすか?家は白百合の丘でしたよね?」
「いや、この近くだよ」
「やめてくださいよー。うわさが信憑性を増しますから」
「だから、なんなんだよ。うわさって」おしぼりとお通しを持ってきた奥さんに注文を済ませにこやかに微笑んでいる。
「え?離婚したとか、原因は奥さんの浮気で、実は子供も実子じゃない?とか?」
「すごいなぁ」少し顔をこわばらせたけれど、それは一瞬で愉快そうに頬を緩める。
「ですよねぇ、あんまりにも尾ひれ付きすぎですよねぇ」高井はほっとしたようにジョッキを持ち上げる。
「そういえば、先生。丸野となんだか話し込んでませんでしたか?死亡診断書の件ですか?私が丸野と確認すればよかったですね。本当にすみません」
「もう、それ恥ずかしいから、やめてくれ。木と本を書き間違え、完全に自分のミスで、謝られても困るから」西口は大きな肩をすくめる。
「でも、なんだか丸野が泣きついてましたよね?」
「あぁ、最近、自分が夜勤のときに患者さんがよく亡くなるんで、死神みたいでつらいって」奥さんの持ってきた生ビールを一気に飲み干してしまいそうな勢いであおる。
「で?先生はなんて言ったんです?」高井は完全に面白がっている。
「別に大したことは言ってないよ、患者さんは丸野さんに見送ってほしいから、丸野さんの勤務のときになくなるんじゃないかって。こんなの定型文だろ?」うろたえる西口を後目に、高井がにやにやして言う。
「先生、それは丸野にとっては定型文じゃないっすよ。たぶん」その言葉をもらった丸野の目がきらきらと光るのを簡単に想像できる。
「ほんとに、やめてくれよ。それより、お前らって付き合ってんのか?」
「先生、病院の看護師の男は全体の5パーセント。俺が先輩とか同期と飲みに行くと、ほとんど女なんです。いちいち、疑われていたら、ハーレムっすよ」高井はからからと笑う。まぁ、そうだなと答えになっていないことに気づくことなく、西口はジョッキを傾ける。
佐倉は笑う高井の顔を見て、この前のことはやはり自分の気にしすぎだと思った。