五月下旬の深夜勤務
初めての連載です。
深夜二時。しんと静まり返る7階南外科病棟の看護師詰め所、ナースステーションには、カタカタとキーボードをたたく音、用紙をめくる音、椅子のきしみが聞こえるだけで、深夜勤務中の三人は静かに業務をこなしている。
沈黙を破るように、詰め所におかれたモニターが警告音を響かせる。騒がしい昼間でさえ大きく響く音は、深夜においてはより大きい。三人がそろってモニターに目を向ける。心拍数が正常値をかなり下回っている。佐倉茉莉子は立ち上がり、警告音の解除ボタンを押す。
「見てきます」丸野愛梨は引き止めるまもなく、ぱっと出て行く。
「鈴木さん、今夜中かな」高井駿はパソコンから目を離すことなくつぶやく。
癌の末期、ベッドに横たわったまま、もう動かない。呼吸は弱く、心臓はいつ鼓動を止めてもおかしくない。状態が悪くなった二日前から家族が呼ばれており、そのベッドの周りで、そのときを待っている。
「そうだね」佐倉は看護師として働きはじめ六年目になる。その間何人もの患者を見送ってきた。その経験がきっと今夜中に旅立つだろうと思わせる。
目を真っ赤にした丸野は、鼻水をすすりながら戻ってきた。
「今のうちに、済ませられること全部済ませていてね。亡くなったら処置あるし」
「はい」
警告音が響く。心拍数は一桁。鼓動が止まろうとしている。
『西口先生、鈴木さんの心拍が止まりそうです。病棟まで来てください』高井が素早く外科当直医に連絡する。
「丸野、鈴木さんところに行って」はいと返事をしながら、丸野はぱたぱたと靴を鳴らしていく。
「佐倉、お前は手術直後の患者の観察があるだろ?俺が丸野と処置は入る、コール対応頼んでいいか?」
「わかった」
夜勤のスタッフは三人。一人で十五人くらいの患者さんを担当する。輸液管理、体位変換、おむつ交換、トイレ誘導、廃液管理、指示の確認、カルテチェック、患者は眠っているが仕事はたくさんある。朝になれば、検温や採血もある。洗面の介助、配膳や食事の介助もしなければならない。
病院勤務は患者の状態によって、その忙しさは天と地ほど違う。死後の処置、それに伴う家族への説明や書類の準備など、かなりの時間がかかってしまう。今日の勤務中の休憩は取れそうにない、きっと9時までノンストップだ。
外科当直医師の西口が白衣を片手に走ってきた。そのひげの伸びた顔の色はいいとは言えない。
「どんな感じかな」モニターを前にして、あぁとつぶやき、足早に部屋に向かった。
「すぐに始められるように、準備だけ済ませてくるわ」高井も今日の勤務が忙しくなることが容易に想像できたのだろう、処置室へと行く。
丸野が準夜勤務者からの申し送り事項を簡単に書きとめた用紙が佐倉の目に留まった。
「坂さんの血圧が92?」
血圧は正常値だ。しかし、坂さんは高血圧の既往があり、佐倉は低すぎると思った。電子カルテを開き、血圧を確認すると日勤は154だった。前日、前々日の血圧も120台を下回ることはない。
佐倉は血圧計を握り、坂さんの病室へと向かう。消灯はとっくに過ぎており、個室の明かりも消えていた。そろっと中に入り、ベッドサイドに近づく、ツンと異臭が鼻に付く。
患者の顔を見やったその瞬間、はぁと大きくため息をついてしまった。
ベッドサイドの明かりを断りもなく灯し、冷たくじっとりと汗をかいた腕に血圧計を巻き、加圧し、脈を取る。胸まできっちりと掛けてある布団をめくると、その異臭は強くなり、目に鮮やかな赤が映った。
「坂さん、坂さん、大丈夫ですか?」返事が出来ないとわかってはいたが、声をかける。うーんとうめくだけだ。病院内用PHSで高井に連絡する。
「坂さん、急変。救急カートとモニターを持って来て。西口先生に連絡して」
西口は死亡宣告を終え、息つく暇もなく部屋にやってきた。
「下血、レベル100、血圧70です」
「点滴生食500、全開で落として、酸素投与。もうひとつルート確保。下肢挙上して。消化器内科の当直医に連絡して、来てもらって」西口は落ち着いた声で指示を出す。
佐倉はその指示に従う、後で電子カルテに入力するために小さな紙にメモを取ることを忘れない。
救急カートを押してやってきた高井は「ここ頼むわ。あとはなんとかする」そう言ってすぐにきびすを返した。
「なんとかするってなんとかなるの?」言葉にする前に高井は出て行き、佐倉は目の前の処置に追われた。
大腸からの出血、ショック状態だった。消化器内科医による内視鏡下での止血の処置がされ、一命は取り留めた。
佐倉は一瞬たりとも休むことなく、動き続けた。担当患者の点滴を交換し、熱を測り、血圧を測る。患者の疾患、その経過にあわせて、必要なところを観察する。忙しいということは、こちら側の都合であり、それを患者に気使われることの無いように、佐倉はいつもゆっくり話すようにしていた。
廊下を駆けるように歩き、採血の準備をしようとしたけれど、試験管には真っ赤な血液がすでに規定量納められていた。礼を言おうとしたけれど、高井は見当たらない。ナースコールが鳴り、佐倉はその部屋へと向かった。
八時半になり、日勤務者に申し送りを済ませると体がずっしりと重く感じた。まだ、記録が出来ていない。一つにくくった髪をいったん解き、ぎゅっとくくりなおす。ほんの少し頭がはっきりしたけれど、それは短い時間しか続かなかった。
止まりそうになる思考を叱咤しつつ、記録をやっとの思いで終わらせる。はぁっと息を付いたとと同時に高井がふらりと横に立った。
「なんか、あるか?」
「いや、私も今、終わったとこ。丸野は?」
「まだまだ。しかも丸野、死亡診断書の鈴木さんの名前、違ってたの気づかなかった。朝、コピー見た師長さんが気づいて」
「そんなことってあるの?しかもダブルチェックするでしょ?高井、見たんでしょ?」
「俺は見てない、佐倉が見たと思ってた。西口先生とチェックしたみたい。だけど、先生が鈴本って書いたことに二人とも気づかなかったって。俺たちは忙しそうで声を掛けられなかったんだってよ」
「先生も十分、忙しかったでしょうに」
なんで、どうしてと思ってもどうしようもない。その小さな一本余分な線は消えない。丸野は細かいミスが多い、たいていカバーできることだけれども、小さなミスが重なると大きなミスにつながる。丸野との勤務はそういう意味で、とても気が抜けない。
「あぁ、そうだ。採血ありがとう。助かったし。高井ってさ、仕事速いよね」
「なんだよ、知らなかったのか?」にたりと笑う。
「まぁ、死後の処置は応援頼んだし、採血くらいは出来るでしょ」
「何?応援?」
「当直師長に連絡して5階の北のスタッフに応援に来てもらった」
「ほんとに?何その裏技?」
「普通に夜間緊急時マニュアルに載ってる」
「それは知ってるけど、なかなかできないし、電話したことない」
「あの状況は三人で対応できないだろ?」
「確かに。それでも、高井さ、かなり丸野フォローしてくれたでしょ?」
「言えば、それなりにできるんだよ。ただ、要領が悪い。だから遅い。あれして、これしてから、あれするって具体的に言うとできる」
「もう、二年目なのにねぇ、しかもすぐ泣くし。また泣いてた?」
「今も泣いてる。それよりおまえさぁ……」高井が腕を組んでまじまじと見てくる。
「何?私、何かおかしかった?何か間違えてた?」忙しいと時々、やり忘れたり、片づけを忘れていたりすることがある。丸野のことを偉そうに言っている場合ではない。
「そんなんじゃないし、まぁ、いい。今日のカンファレンス、18時からだよな」
「あぁ、そうか。今日か。もう帰って寝よ」重い腰を上げて、師長に懇々と叱られ、ぐずぐず泣いている丸野に先に帰ると小さく言って、病棟を出たのはもう昼近かった。