7 初めてのベッド
彼の唇と手が、体中をめぐっていく。その中に、びり、と感じる場所があって、そのたびに、勝手に体が揺れる。
声は我慢していたのだけれど、一度漏れてしまうと、もう駄目だった。自分の声とは思えない、どこから出しているのか自分でもわからない艶めいた声が、刺激されるたびに、とめどなく出てくる。
彼のするどれも、全然嫌じゃなかった。心配していたような嫌悪感や拒否感は、何もなかった。
自分でも触ったことがないような場所にまで触れられても、それは同じだった。
ただ、とても恥ずかしくて、本当に、どうしようもなく恥ずかしくて、緊張して、緊張してしょうがなかった。
甘ったるい自分の声も、意志とは違って勝手にはねる体も、彼が触れていることも、体の中にたまっていくばかりのものも、現実なんだけど、自分の身に起こっていることとして受け止めるには、あまりに刺激的すぎて、これはなんだろう、どうしたらいいんだろうと、戸惑いばかりが大きかった。
いつまでこれが続くんだろう、もうこれ以上は、と思った時、傍にあった彼の体が、ゆらりと上に持ち上がった。足の間に割って入ってきて、のしかかってくる、ように見える。
そのとたん、ざあっと恐怖が体を縛りあげた。本能としかいえないものに急きたてられて、私は、小さく悲鳴をあげた。
「なに? なにするの!?」
横に体を捩じって、足と手を縮めて、上にずりあがるようにして、震える声で叫んでいた。
彼の動きが、ぴたりと止まる。
途方に暮れた空気が、その場を覆う。
そこでようやく、私は我に返った。なに、じゃない。彼はするべきことをしようとしていただけで。
「……あ。ご、ごめんなさい」
私は、いたたまれない雰囲気に、謝った。重い沈黙の後、彼は投げ出すように言った。
「……俺とするのは、嫌?」
「そ、そうじゃなくて」
「じゃあ、なに」
彼の声は冷たかった。怒っているのか、嫌われてしまったのか、どちらかわからなかった。両方かもしれなかった。
私は泣きたい気持ちで、言い訳をした。
「こ、怖かったの。は、はじめてだから、よく、わかってなくて、急に違う人みたいに見えたから、怖くなって、それで、」
「はじめて?」
薄明かりしかなかったけれど、彼が驚いた顔をするのが見えた。どうして驚くのかがわからなかった。
「まさか。だって、キスしてみますかって、あなたから誘っただろう。だから、見かけによらず、ずいぶん手馴れていると」
「違うの! あれは、……あれは、だって、毅さんがしたそうにしてたから」
彼がうろたえたのを感じた。彼からの圧迫感がなくなる。それに力を得て、言葉を続ける。
「私も、あの時、まだ毅さんと離れたくなかったから。もう少し、一緒にいたいって、思ったから。そ、そうしたら、あんなふうな言い方になっちゃっただけで」
そこまで言って、ふと恨み言が浮かんできて、それも口を突いて出てきた。
「は、初めてだったのに、いきなり舌を絡められて、びっくりした。……今日も、急で、びっくりしたっ」
言い切ってしまったら、喉を嗚咽がはいのぼってきて、涙がこみあげてきた。
泣くのは卑怯だと思うから止めたいのに、止められずに、ぼろぼろとこぼれおちてくる。
「……ごめん。あんまり簡単についてくるから、いつも他の男ともこうなのかと、嫉妬した」
「違うもの!!」
「うん。わかった。だから、ごめん。勝手に誤解した」
彼が、しゅんとした雰囲気をまとうのを感じる。
彼はその場で胡坐をかいて、腰を落ち着けた。私ももうちょっとずりあがって、傍にあった枕を抱えて、胸やなんかが見えなくなるようにした。
それと、枕元にあったティッシュも取って、顔を拭う。私はしばらくティッシュに顔を埋めて、ぐすぐすとやっていた。
それが落ち着いた頃、毅さんが、言いにくそうに声をかけてきた。
「あの、さ。無理につきあわせちゃったのかな。断りにくいことをやったという自覚はあるし。その、なんていうのか、さっき、好きと言っても、反応が薄かったし。俺のこと、あまり好きじゃないでしょう?」
私は少し考えた。もう、無理をするのは駄目だとわかったし、ちゃんと正直に答えるべきだと思ったから。……それで、駄目になってしまうかもしれないとしても。
「無理に、じゃないと思う。それでもいいって、思ったもの。でも、好きとか、本当を言うと、よくわからない。毅さんのことは、いいなって、思う。でも、友達やなんかの好きと、どこが違うのか、まだよくわからない……」
自分で言っていて、あまりに子供じみたそれに、情けなくなってくる。
「ごめんなさい、こんな歳なのに、恋愛も経験不足で……」
うつむいて、抱えている枕を見下ろした。
「誰ともつきあったこと、ないの?」
「……ないです」
「初恋もまだ?」
「そ、そのくらいはっ」
反論しようと顔を上げれば、ちょっと首を傾げた毅さんが、こちらを見ていて。
「初恋はいつ? 誰? 告白したの?」
矢継ぎ早な質問に、しどろもどろに答える。
「しょ、小学校六年生の時。クラスの子で、こ、告白なんて、してません、見ていただけで」
「ふうん。じゃあ、誰かに好きって言ったことはないんだ?」
「……ないです」
「そう。……ねえ、なにもしないから、布団に入ろうか。体が冷えてきた」
私は頷いた。さっきはあんなに体が熱かったのに、確かに肌寒く感じた。
毅さんが掛け布団を上げて、ゆっくりと近付いてくる。私も一緒に、その下に入った。
枕もそのまま中に入れる。ちょうど二人の間で、防波堤みたいになった。彼はそれを見て、苦笑した。
お互い、向き合うようにして、もぞもぞと居心地のいい姿勢を探した。人心地ついたところで、なんとなく見つめ合う。
「あのさ。今さらだけど。俺は、本当に、ちゃんと藍子……が好きだよ」
名前の後の間は、さんを付けようか迷ったのだと、わかった。
「初めて会った時から、いいなと思ってた」
すぐに続けられたまっすぐな言葉に、どきんとする。
「だから、改めて、結婚を前提につきあってほしい」
私は、考えた。考えて考えて、考えてみたけど、どうしたらいいのか、答えが出てこない。
だって、結婚を前提にって、これまでのお試しみたいな、いつ無しに戻してもいいような、そういうおつきあいじゃない。
大家さんや、両親や、そういう人にも、話がいくようなつきあいになる。
本当に、この人と結婚するの? それって、どうやって決断するの? 一生を共にする人を、どうやって選ぶの? もしも、この人じゃ嫌だってなったら、どうすればいいの?
今の私には、重かった。そんなところまで、考えてなかった。ただ、このままでいてはいけないと思って、紹介してもらったのが、この人だったってだけだった。
なのに、この人との縁を切ってしまうのも、躊躇われる。
「わからない、です……」
彼が答えを待っているのを感じて、私は答えにもならない答えをしぼりだして返した。
しばらくすると、衣擦れの音がして、彼の手が布団の中から出てきた。それが伸びてきて、びくりと体をすくませる。
彼の指が、頬に掛かっていた髪を払った。優しく何度か往復して、すっかり後ろに流してくれる。そのまま、頬に留まった。
「俺に触られるのは、嫌?」
私は彼の手の下で、横に顔を振った。すると、手が肩にまわり、背中にいった。首の下から肩甲骨のあたりまで、撫でられる。
「こうするのは?」
嫌ではなかった。あたたかですべらかな感触が、心地よかった。
私がまた横に首を振ると、彼の体が近付いてきて、枕ごと、抱え込まれた。
「じゃあ、これは?」
さっき膝の上で抱き締められたのと同じ、包み込まれる感触に、ふわりと安堵が広がる。本当に、心の底からの安心感。くたりと体から力が抜けていく。
なんかこの人ずるい、と思いながらも、私は正直に、三度目も横に首を振った。
「ねえ、キスしたい。嫌だったら、逃げて」
次には、吐息のかかりそうな距離で、そんなことを言われて。
ああ、もう、ほんとうに。
どうして私はこの人を拒絶できないんだろう。
そんな感慨と共に、おりてくる彼の唇を、私は目をつぶって、受け入れた。