邪ノ道ハ蛇 壱
また一人、この手で闇師を葬った。
澪に付着した血液を慎重にぬぐいながら、黒羽はそんなことを思う。
黒羽の手に握られている布切れは、一度剣の上を滑らせるだけでもかなりの量を吸収した。森と、黒羽の住む鳥ノ村の間の道で五分ほど拭いていたが、吸収力が失せる気配は全くない。
帰還したら、これを作った造物師を探さなければ。
密かに心の中で決意しながら、中心部分に刻まれた文様の上に布を滑らせる。先ほどまで赤く染まっていたのが、元の青さを取り戻した。
戦闘を終えると、黒羽はどんな状況でも必ず剣に付着した汚れを拭う。それは習慣のようなもので、仕事を終えたことを村に報告するよりもこっちを優先してしまう。村としては報告を優先してもらいたいところなのだろうが、剣に関することになると黒羽は聞く耳を持たない。敵を殺すことに何も感じない黒羽だが、剣を汚されることだけは我慢ならなかった。今もまた、そんな状況だ。
鳥ノ村は、周囲を四つの森に囲まれた場所にある。
北と東をまたいだ雲母ノ森、背後に山がそびえる南飛鳥大森林、森というよりは林に近い西飛鳥松林、そして香良洲枯森羅。
善と悪がはっきり区別されたこの世で、鳥ノ村や黒羽は善に入る。中心部分が善なら、周りの森も善になる。この四つの森は、いつでも暖かい空気に包まれていた。
一昨日あたりから、香良洲枯森羅の様子がおかしかった。
空は重たく暗い雲に埋め尽くされ、まるで侵入を拒むかのように木々は並ぶ。闇に支配された森の放つ邪気は、黒羽をも呑み込んでしまうようだった。
原因は、やはり伊吹なのだろう。彼の喉を切り裂いた後から、僅かだが邪気が薄れてきた。
先端部分を入念に磨いたところで、布にも限界が来たようだ。肌色の生地に、赤いものが浮かんできた。
手を止め、角度を変えながら剣を眺める。澪のどこにも汚れはなかった。
苔むした岩から立ち上がり、剣を一振りする。空気を切り裂くシュッという音がした。再び剣を背中に戻すと、黒羽は鳥ノ村に向かって歩き始めた。
「亥狩、いるか」
報告を終えた黒羽が向かった先は、友人が働く造物場だった。
「おう。お、黒羽じゃねえか」
木材、工具、金属などが転がった六畳ほどの工場の奥から、茶色い長髪の男が出てきた。手に金槌を持っているところからして、何かの武器でも作っているのだろう。一度も洗ったことがないのかと思うほど汚れたエプロンを腰に巻いていた。
亥狩とは、かなり長い付き合いである。黒羽の愛剣・澪を作ったのも亥狩だ。
「どうした、今日は?新しい武器か?それとも――」
視線を黒羽の顔から、体、そして手元に移る。
「その布が要件か?」
疑問形だが、亥狩にはわかっているのだろう。黒羽が頷くと、やっぱりな、という笑みを浮かべながら奥の部屋へ向かった。無言のまま、黒羽も後に続く。
幼いころに出会い、今では黒羽の裏の裏まで知り尽くしている亥狩は、当然のように黒羽の剣に対する潔癖癖も知っていた。あの布を黒羽にくれたのも、亥狩である。
「あの布、やっぱり気に入っただろ。知り合いの造物師に織物専門のやつが居てな。ずいぶんと吸収力が高いし、俺には使い道がなくてさ」
黒羽と同じ年にしては随分と厳つい手で木製の机をがさがさ漁る。机の上には、設計図やら注文票やらが山のように積まれていた。その山は今、恐ろしい速さで崩されていく。ざっと見ただけでも100枚ほどあるから、元に戻すのは大変だろう。
そんなことにもお構いなしに、更に机をがさがさと漁ると、亥狩は何かをつまみ出した。
「お、あった。これだよ」
その手には、黒羽が握っている布が拡大されたものが握られていた。
「さっきもいったけど、俺には使い道ないからさ。お前にやるよ」
素直に布を受け取り、いらないと言い張る亥狩に無理矢理代金を押し付けると、黒羽は工房を出た。
彼の元に、香良洲枯森羅が再び荒れ始めたという報告が来たのは、その僅か二十時間後だった。