君死にたまふことなかれ(笑)
全員死亡!糞すぎる世界!!
原作の大西くんは友達居ないから電話をかける相手が居ないし、自転車乗れないから原付も無理らしいです!!二次創作以下は草
(SF空想科学にて3位にランクインしました、ありがとうございます!)
病院のベッドで目を覚ますと窓の外はすでに白み始めていた。
昼なのだろう。カーテンの隙間から差し込む光は、朝の日差しよりもずっと高く強かった。
交通事故でかなりの怪我を負った大西は、重い体を無理矢理起こした。片耳の鼓膜が破裂しているからか、起こしてくる筈の看護師の声すら聞こえなかった。一度耳に神経を研ぎ澄ますが違和感を覚えた。
音がない。
窓の外では鳥が鳴いている。雀だろうか、ヒヨドリだろうか。しかし、その鳴き声があまりにも鮮明に聞こえるということは、いつもなら混ざり合っているはずの車の走行音が、完全に欠けているということだった。この病院は街に近く、昼時ともなれば救急車のサイレンやクラクション、トラックの低い唸りが絶え間なく響く場所だ。それがない。
相部屋の三人の患者は皆眠っていた。いや眠っているように見えた。カーテンで仕切られた向こうのベッドからは、規則正しい寝息すら聞こえてこない。大西はベッドの柵を握り、ゆっくりと立ち上がった。靴を雑に履き、廊下へ出た。
廊下で人が倒れていた。
白い病衣を着た初老の男だった。顔を下に向け、腕をだらりと伸ばしている。大西は駆け寄り、肩を揺すった。「おい、大丈夫か」と声をかけるが、男は微動だにしない。首筋に指を当てる。生暖かいが、脈がない。
大西は壁伝いにナースコールを押し続けた。しかし、スピーカーから返ってくるのは、無機質な呼び出し音だけだった。誰も来ない。
ナースステーションまでの十数メートルが、果てしなく長く感じられた。途中、車椅子に座ったまま項垂れる入院患者、床に散らばったカルテ、ひっくり返った点滴スタンド。それらを避けながら、大西は足を進めた。ナースステーションのカウンターの内側では、三人の看護師がそれぞれの椅子に凭れかかり、あるいは床に崩れるように倒れていた。皆、目を開いていた。苦しんだ形跡はない。ただ、電池が切れたように止まっていた。
「……は?」
大西の口から漏れた声は、自分でも驚くほど小さかった。
エレベーターで一階に降りた。ロビーの待合椅子には、外来の患者たちが座ったまま死んでいた。受付の事務員も、警備員も玄関の自動ドアの前で倒れている。外へ出ると、日差しは容赦なく降り注いでいた。病院の前の道路を、一台の軽トラックが斜めに停まっている。運転席の男は、ハンドルに突っ伏していた。
大西はポケットを探り、携帯の電源を入れる。画面は明るく光った。しかし、電話を片っ端からかけようとしても不在着信の文字が虚しく繰り返されるだけだった。
近くに倒れていた男のポケットから、バイクの鍵を見つけた。原付だった。大西はそのまま跨がり、キーを回した。エンジンは一発でかかった。
学校までは、普段なら原付で十分程の道のりだ。誰もいない道路を、大西は原付を飛ばした。道路には対向車も、歩行者も犬の散歩をする老人もいない。世界から人間だけが消えてしまったようだった。実際通りすがる人々は一人残らず皆死んでいる。
学校下駄箱前でバイクを乗り捨て、大西は走った。校舎の中はしんと静まり返っていた。自分の足音だけが、廊下に響く。
まず杉山のいる教室のドアを勢いよく開ける。窓際の席に杉山がいた。窓の外を眺める姿勢でうつ伏せに固まっていた。大西は近づき、その肩に手を置いた。日差しの生暖かさを感じる。杉山の隣の席の奴も、後ろの奴も皆、同じように机に突っ伏し、あるいは背もたれに寄りかかったまま、動かなかった。
大西は次の教室へ向かった。箱田と、めにのいる教室だ。
ドアを開けると、そこには異様な光景が広がっていた。箱田は、めにと向かい合わせで椅子に座ったまま腕を組んでいた。まるで、話しかけているような姿勢。めにはペンを握りしめて、手帳に何かを書きかけていた。しかし、その目は開いたままで焦点が合っていなかった。
「箱田」
大西は呼びかけた。返事はない。
「箱田!」
叫んだ。しかし箱田は微動だにしない。大西は箱田の肩を掴み、揺さぶった。箱田は大西が知る限り、最も「死にそうにない」男だった。とんでもないバカで、無鉄砲でしかしどこかしぶとく、いつもその力強い眼差しが眩しいような男だった。そんな箱田が、こんな風にただの物体のように座っている。その事実が、大西の心の芯をぽっきりと折った。
膝から力が抜けた。大西はその場に座り込み、床に手をついた。涙は出ない。ただ、喉の奥が詰まるような息苦しさだけがあった。
ふいにガタン、と廊下で大きな音がした。誰かが、教室のドアを勢いよく開けた音だ。大西は顔を上げた。廊下から、一人の女が教室を覗き込んでいた。自分より少し低い身長で幼い顔立ちだ。その顔には、大西以上の疲労が滲み出ている、そして確かな生の気配があった。
「……大西、」
女…金子は小さい声で言った。金子は箱田達と共に行動する中で距離を縮めた仲間だ。
「生きててよかった⋯」
金子は教室に入ってきて、箱田とめにを一瞥した。その目は、もう驚きも悲しみも通り越して、ただ、事実として受け止めているようだった。
「箱田達も、か」
金子はそう呟くと、大西の前にしゃがみ込んだ。
「どうやら、二人だけみたいだよ」
大西は、ようやく頷いた。声が出なかった。金子は、大西の肩に手を置いた。その手は、温かかった。
「行こう。ここにいても、何も変わらない」
大西は、その手を借りて立ち上がった。教室の窓からは、変わらず穏やかな日差しが差し込んでいた。
大西達の通う一年の教室には、汗と埃と、ほんの少しの整髪料の匂いがいつも混ざっていた。それが今は、別の匂いに置き換わりつつあった。
最初の三日間大西と金子は、ほとんど眠らずに街を歩いた。誰もいないコンビニから水と食料を持ち出し、誰もいない家のリビングでテレビをつけた。画面には砂嵐だけが映った。ラジオも同じだった。メディアは死んでいた。
その間、二人は何度も学校に足を運んだ。受け入れられなかったのだ。箱田が、あの箱田があんな風に座ったまま死んでいるはずがない。杉山が、あの退屈そうな顔でもう二度と動かないなんてことがあるはずがない。もしかしたら、自分たちが戻ったとき誰かが「おせーぞ」と笑って振り返るかもしれない。そんな馬鹿げた希望を、二人は持ち続けていた。
────
二日目の朝、大西と金子はバッコウアーチャウチャウw学校に向かった。
校門をくぐるとき大西は無意識に足が止まった。前日までは「もしかしたら」という希望があった。誰かが動いているかもしれない、箱田が起き上がっているかもしれない、そんな馬鹿げた期待が心のどこかに残っていた。しかし、今日は違った。今日は現実を見るために来たのだ。
教室のドアを開けると匂いが変わっていた。昨日はまだ汗と埃の匂いが残っていた。今日は、ほのかに何かが腐り始めたような、甘くて重い匂いが混ざり始めていた。大西は口元を袖で覆った。金子も同じようにした。
教室の中では箱田が椅子から滑り落ちるように床に転がっていた。昨日の姿勢のまま固まっていた身体が、重力に負けたのだ。箱田は仰向けで、片腕を不自然に伸ばしていた。まるで、誰かを掴もうとしたかのように。
「箱田」
大西はそう呼びかけてから自分が何を言っているのかわからなくなった。返事はない。当たり前だ。でも、呼ばずにはいられなかった。
めには、机に突っ伏したままだった。昨日と変わらない姿勢。しかし、よく見ると椅子の脚が少しずれていた。体重が前方にかかり、机ごと倒れかかっている。大西は急いで駆け寄り、大髙の身体を支えた。冷たい。昨日より、確実に冷たくなっていた。
「めにごめんちゃい!笑」
大西はそう言いながら、めにの身体をゆっくりと椅子から離した。ノートとペンが床に落ちた。ペンはコロコロと転がり、教室の隅で止まった。手帳は開いたまま、書きかけの文字が露わになっていた。大西は一瞬だけ見た。それは小説のレビューの様だった。デスドラの評価は最後の一文は、途中で終わっていた。
「これ世界観、なんかのパクりじゃ」
大西は小さな手帳を閉じた。これ以上読んだら、自分が壊れてしまう気がした。
金子は黙って杉山の元へ向かった。杉山は、窓際の席でうつ伏せになっていた。しかし、上半身が窓の方に傾き今にも床に落ちそうになっていた。金子が支え、大西が手伝って二人で杉山の身体をゆっくりと横たえた。
杉山の顔は、もう杉山の顔ではなかった。皮膚が乾き、口元がオレンジ色に変色し始めていた。日差しを一日中浴びていたからか、他の誰よりも乾燥が早かった。目の周りが窪み、頬の片方は垂れ、もう片方の頬は貼ってあったガーゼから体液が漏れていた。しかしその表情はどこか穏やかで、まるで眠っているかのようだった。
「杉山、お前、最期も澄まし顔です姦?」
大西がぽつりと言った。金子が小さく笑った。
「悪口は訴訟されますよ笑」
「はい笑」
二人は杉山を窓から離し、別の教室に運んだ。これ以上、日差しに晒さないために。
ぬちんこは、廊下に倒れていた。教室を出たところで力尽きたように、うつ伏せで倒れていた。大西と金子はぬちんこの両脇に手を回し、教室の中へ運んだ。ぬちんこは体格が良かったから、二人がかりでも重かった。くくるは、教室の後ろのロッカーの前で座り込むようにして死んでいた。壁に凭れかかったまま、まるで居眠りをしているようだった。
一人ずつ、大西と金子は彼らを教室の床に寝かせた。仰向けにして、腕を身体の横に添え足を伸ばした。まるで、眠っているかのように。
「これでいいのかな」
金子が呟いた。
「知らん!」
大西は正直に答えた。葬儀の作法も、弔いの言葉も何も知らなかった。ただ、彼らを床に転がしたままにしておくことは、どうしてもできなかった。
空き教室の後ろの席から順番に、箱田、めに、杉山、ぬちんこ、くくる。五人が並んだ。まるで、整列しているかのようだった。大西はその光景を見て、ふと、存在しないオフ会に行った時の事を思い出した。皆で席に座って、箱田と杉山が騒いでぬちんこが注意して、くくるがメニューを考えて、めにがスマホを弄る。そんな日常があった。
「保冷剤、あった方がいいよね」
金子が言った。大西は頷いた。このままでは、腐敗が進む。少しでも時間を稼ぎたかった。彼らが土に還るまでの間、せめてもう少しだけ、この形を保っていてほしかった。
「ケーキ屋があった」
大西は思い出した。学校の近くに、小さなケーキ屋がある。そこなら、業務用の保冷剤があるはずだ。二人は学校を出て、そのケーキ屋に向かった。店の中は、やはり誰もいなかった。ショーケースには、売れ残ったケーキが並んでいた。クリームが乾き始め、イチゴがしなびていた。店主はエプロンをつけたまま、カウンターの内側で倒れていた。
「すみません、借ります」
金子はそう言って冷蔵庫の中から保冷剤を探した。業務用の大きなものが、段ボール箱にたくさん入っていた。二人はそれを抱えて、学校に戻った。
教室に戻ると、大西はまず杉山の元へ行った。杉山の身体は、日差しの影響で他の誰よりも温度が高かった。大西は保冷剤をタオルで包み、杉山の服の上から首の後ろと腹に当てた。冷たい感触が、杉山の身体に触れる。しかし杉山は何の反応も示さない。
「杉山、じゃ、当てるね⋯」
大西はそう言いながら保冷剤を当てる位置を調整した。まるで、熱を出した友人を看病するかのように。でも杉山はもう熱を出すこともない。大西の手が、少しだけ震えた。
次に箱田。箱田の身体は、まだそれほど進んでいなかったが、念のため保冷剤を当てた。箱田の腕を掴むと、その冷たさに驚いた。前まであれだけ熱く生きていた男が、こんなに冷たくなっている。大西は箱田の手をしばらく握っていた。何かを確かめるように。何かを伝えるように。
めに、ぬちんこ、くくるにも順番に保冷剤を当てた。五人分の保冷剤を当て終えると、大西は教室の後ろの席に座り込んだ。金子も隣に座った。二人はしばらく、並んだ最強五人の身体を眺めていた。あなまろ。
「これで、少しは持つかな」
金子が言った。
「知るかボケ」
大西は答えた。
「でも、できることはやったよね」
「あーはい笑」
窓の外では秋の日差しがまだ強く降り注いでいた。教室の中は、保冷剤の冷気で少しだけ涼しくなっていた。大西は目を閉じた。五人の仲間が静かに眠っている。自分達が出来る事はこれくらいしかなかった。でも、これ位の事をどうしてもやっておきたかった。
「また来るわ」
大西はそう言って立ち上がった。金子も立ち上がった。二人は教室を出た。ドアを閉める前に、大西はもう一度振り返った。五人は、静かに並んでいた。まるで昼寝をしているかのように。
「おやすみ」
金子は小さく呟いて、ドアを閉めた。
廊下には二人の足音だけが、響いていた。
─────
三日目の朝、大西は目が覚めたとき隣に金子がいないことに気づいた。
一瞬、心臓が止まるかと思った。死んだか笑。大西は立ち上がり、部屋の中を見回した。誰もいない。廊下に出ようとしたとき、玄関の方から足音が聞こえた。金子が戻ってきたのだ。両手にビニール袋を提げていた。糞が。
「起きた?」
金子はそう言って袋をテーブルに置いた。中にはパンと水と、それから消臭スプレーが入っていた。業務用の、介護施設で使うような大きなものだった。
「どこでや」
「ドラッグストア。棚にあった」
大西はその消臭スプレーを見て、金子が何を考えているのか悟った。そして、自分も同じことを考えていたのだと気づいた。
「今日も、行きましょか」
大西は一言呟き、パンを一口かじった。味はしなかった。
学校までの道のりは日を追うごとに匂いがきつくなっていた。原付のエンジン音が街に響く。前はそれすらも寂しく感じたが、今は自分の存在を確かめる唯一の音だった。
教室に入る前に足を止めた。大西は深く息を吸い、そして吐いた。消臭スプレーを体に吹き付けてから、校舎の中に入った。
五人は昨日と同じ場所に並んでいた。大西が最初に気づいたのは、箱田の顔だった。
箱田の肌は赤紫色に変色していた。特に身体の下、首周りが濃い紫色に染まっていた。制服で隠れている背中も恐らく重力に従って血液が沈み、皮膚の下に溜まっているのだろう。顔にも、斑点が浮かび上がっていた。耳の後ろから首筋にかけて、点々とまるで誰かがスタンプを押したように。目の周りは窪み、眼球が乾いてまぶたが半開きになっていた。まるで、薄目を開けてこちらを見ているようだった。
「箱田」
大西は呼びかけた。声が震えた。返事はない。箱田の口元は、昨日よりもっと乾いていた。唇はオレンジ色に縮み、めくれ上がっていた。緑色の歯茎が見えていた。笑っているようだった。笑っているように、見えた。
「触らない方がいいよ」
金子が後ろから言った。大西は頷いた。知っとるわクソアマ!でも、触らずにはいられなかった。大西は箱田の腕に手を伸ばした。昨日はまだほんのりと残っていた温もりが、完全に消えていた。まるで冷蔵庫に入れた肉のように、均一に冷たい。大西は手を引っ込めた。指先に箱田の匂いがついた気がした。
めには、閉じた目がまた半開きになっていて、頭が重いのか重力で顔がのけぞっていた。口元が開いて、変色と乾燥が酷い。大西は目を逸らした。
杉山は一番変化が激しかった。昨日まではまだ人間の形を保っていた。しかし、今日は少し顔全体が膨らんでいた。特に瞼と唇が腫れ上がり、まるで喧嘩後の顔だ。頬のガーゼが体液を吸ってパンパンに膨らんでいた。皮膚は赤色から、所々緑に変色し始めていた。血液の重さで、耳たぶが垂れ下がっていた。保冷剤はもうほとんど効果をなしていない。タオルは温くなり、保冷剤の中身は液体に戻っていた。
「杉山、触るにょ」
大西はそう言って新しい保冷剤に交換した。冷たい物を当てても、杉山の身体はもう冷えきっている。意味があるのか、わからなかった。でもやらない訳にはいかなかった。
ぬちんこの身体は仰向けのまま、両腕が少し横に開いていた。まるで、何かを受け止めるような姿勢だった。髭の生え際が黄色に変色していた。きも笑
くくるは、顔が横を向いていた。昨日はまっすぐ天井を向いていたはずなのに、今日は横を向いている。首の筋肉が緩んで、重力に従って動いたのだ。大西はくくるの頭を元の位置に戻そうとした。しかし、皮膚が柔らかくなりすぎて殆ど動かせなかった。
「無理に動かさない方がいい」
金子が言った。大西は手を引っ込めた。
教室の中に、小さな羽虫が飛び始めていた。蝿ではない。もっと小さな、羽虫のようなもの。それが五人の身体の周りを、ゆっくりと飛んでいた。大西は手で払ったが、すぐにまた戻ってきた。
「窓、閉めようよ」
金子が言った。大西は頷いた。窓を閉めると、教室の中の匂いがさらに濃くなった。大西は消臭スプレーを撒いた。シューッ、シューッ。しかし匂いは消えなかった。匂いをごまかすだけの、虚しい抵抗だった。
金子が、五人の身体を順番に調べ始めた。大西は最初、何をしているのかわからなかった。しかし、金子が杉山の身体をそっと横向きにしようとしているのを見て、理解した。同じ場所に血が溜まり続けると、変色が進む。体位を変えてやる事で、できる限り進行を遅らせようとしているのだ。
「貸せや」
大西はそう言って金子の隣にしゃがんだ。二人は杉山の身体をゆっくりと横向きにした。杉山の腕がだらりと垂れた。大西はその腕を優しく元の位置に戻した。杉山達の冷たさに慣れ始めていた。それが一番怖かった。
めにも、箱田も、ぬちんこもくくるも。一人ずつ、体位を変えた。仰向けから横向きへ。横向きから、また仰向けへ。まるで寝返りを打たせるかのように。介護の現場でやるような、そんな作業を大西と金子は黙々と続けた。
「ちなこれ、意味あるのか」
大西がぽつりと言った。
「わからない」
金子は正直に答えた。
「でも、やらないよりはいい」
「しね!」
全部を終えると二人は教室の後ろの席に座り込んだ。五人の身体は、昨日と同じように並んでいた。しかし、その姿は昨日とはまるで違っていた。膨らみ、変色し乾き、崩れ始めていた。それでも大西にはわかった。箱田がそこにいる。杉山がそこにいる。めにが、ぬちんこがくくるが。彼らは、まだそこにいた。
「おい女ァ!」
大西が口を開いた。
「なに」
「死人に口無しキュピーン」
大西は笑った。金子のそれは冷笑でした…教室の中で死んだ五人の前で笑う事でしか、今の自分達を保てない気がした。笑わなければ壊れてしまう気がするから。
やがて、笑いは止まった。沈黙が戻ってきた。空気ヒエッヒエで草!窓の外では相変わらず鳥が鳴いていた。誰もいない校庭に、誰もいない街に鳥だけが鳴いていた。
「帰るか」
大西が立ち上がった。
「うん」
金子も立ち上がり、二人は教室を出た。ドアを閉める前に大西はもう一度振り返った。五人の身体が、並んでいた。保冷剤の水滴が床を少しずつ濡らしていた。羽虫が一匹、杉山の口元から飛び立った。
「ンまた来るねぇ」
大西はそう言って、ドアを閉めた。
廊下に出ると、金子が消臭スプレーを二人の身体に吹き付けた。大西はされるがままになった。匂いは服に染み付いていた。バッコウアーチャウチャウw学校の匂い。それはこれから先どれだけ洗っても落ちない気がした。
校門を出るとき大西は空を見上げた。秋の空は高く、どこまでも青かった。雲一つない、澄み切った青。その青が妙に憎らしかった。こんなに綺麗な空の下で、自分達はこんなことをしている。それが、どうしようもなく馬鹿馬鹿しかった。
「明日も行こう」
金子が聞いた。
「はい笑」
大西は答えた。
「行くぞ。来れる内は」
「そうだね」
二人は原付に跨がった。エンジンをかけると、乾いた音が街に響いた。大西はアクセルを回した。学校を背に二人はゆっくりと走り出した。後ろから羽虫が一匹ついてきたのを大西は気づかないふりをした。
────
四日目の朝、二人は校門に入る前に足を止めた。大西は深く息を吸い、そして吐いた。消臭スプレーを顔の近くに吹き付けてから、校舎の中へ足を踏み入れた。マスクを二重にしていても、校舎全体に染みついた匂いは容赦なく鼻腔を突いた。昨日までは教室の中だけだった。今日はもう廊下まで匂っている。コンクリートの壁に匂いが染み込んで、この校舎自体が少しずつ腐敗している様な気がした。
教室のドアの前に立つと、金子が一歩下がった。大西は横目で金子を見た。女は目を閉じ、唇を小さく動かしていた。何かを唱えているようだった。大西には聞き取れなかったが、聞こうとは思わなかった。
教室のドアを開けた瞬間、昨日とは比べ物にならない匂いが押し寄せた。甘い。とにかく甘い。腐った果物のような、それでいてもっと重たい鼻腔の奥にへばりつくような匂い。大西は口元を腕で覆い、金子は消臭スプレーを空中に撒いた。シューッという音が、静かな教室に虚しく響いた。
五人の姿は昨日の面影を残しながらも確実に変わっていた。
皮膚は緑がかった灰色に染まり始めていた。昨日までは赤紫色だった斑点が、今日はもっと広がっていた。特に身体の下側、床に接している部分が濃く変色していた。箱田の首筋から耳の後ろにかけて、赤紫色の斑点が浮かび上がっていた。皮膚が重力に沿って垂れ、不自然なほど濃い紫色に染まっていた。顔全体が少し膨らみ、皮膚が張っていた。眼球は沈み、顔が引きつっていた。口は半開きで、唇が乾き始めていた。
めには横向きの姿勢のまま固まっていた。顔の片側だけが赤黒く変色していた。床に接していた側だ。もう片側は、まだ昨日の面影を残していた。白く濁った目が半分だけこちらを向いていた。
杉山は昨日よりも膨らんでいた。顔は元の倍近くに膨らみ、皮膚はピンと張っていた。頬のガーゼから漏れ出た体液が髪を濡らしていて、皮膚は緑がかった灰色の中に、所々黒ずみ始めた部分があった。特に瞼と唇が腫れ上がり、まるで眠っているかのようだった。しかし、その眠りは永遠に覚める事は無い。膨らんだ腹部が、服の下で圧迫されているのがわかった。裾の下の皮膚には、無数の細い血管が浮き出ていた。日差しを一日中浴びていたからか、他の誰よりも乾燥と膨張が早かった。
保冷剤を変える時、結露と体液で湿ったタオルに皮膚が張り付いていた。大西は少し考えて、そのまま保冷剤を追加した。
ぬちんこの身体は仰向けのまま、両腕を広げていた。顔は黒ずみ始め、目の周りが窪んでいた。髭の生え際は、緑色に変色していた。手のひらは、白く変色していた。指は少しずつ曲がり始めていた。死後硬直が解け、また硬直している。そんな繰り返しが、指の形を歪めていた。
くくるは顔が横向きに戻っていた。顔は半分ほど床に埋もれ、片方の耳が垂れ下がっていた。耳たぶが重力に従って伸びていた。口元から黄色い体液が漏れている。
教室の中に羽虫が飛び始めていた。昨日は数匹だったのに今日はもっと多かった。小さな羽虫が五人の身体の周りをゆっくりと飛んでいた。大西はスプレーをかけて追い払ったが無意味だった。死者になった彼らは、もう彼らのものだった。
近所のケーキ屋やアイス屋からかき集めた保冷剤の水滴が、床を変色させていた。教室の床は、ところどころ黒く染まっていた。まるで、五人の身体から染み出したものが、床に染み込んでいるかのようだった。実際そうなのだろう。死は周囲のすべてを、少しずつ汚染していく。空気も、床も、壁も。そして生きている者たちの心も。
帰り道に寄ったスーパーの肉は冷え切っている筈なのに杉山達と同じ臭いがした。
────
五日目の朝、大西は起き上がるのに時間がかかった。身体が重い。筋肉痛でも風邪でもない。ただ、布団から出る気力が湧かなかった。天井を見つめ、隣で眠る金子の寝息を聞いていた。このまま時間が止まればいいのにと思った。朝が来なければ、学校に行かなくて済む。現実を見なくて済むから。
しかし、朝は生者にも死者にも平等に来る。
「大西」
金子が目を覚ました。大西は返事をしなかった。
「今日も行く?」
大西はしばらく黙っていた。そして、ようやく口を開いた。
「ああ」
声は、自分でも驚くほど掠れていた。
支度をする間二人はほとんど会話をしなかった。消臭スプレーを互いの背中に吹き付け、マスクを二重にした。金子がマスクを着けた大西の横顔を見て、少しだけ目を細めた。
「似合わないね」
「お前もな」
それだけの会話だった。しかしその短いやり取りに大西は救われている。
バッコウアーチャウチャウw学校までの道のり、大西は原付のスピードを落とした。行きたくないが行かなくてはならない。相反する気持ちがアクセルを重くした。
校門の前に立つだけで、喉の奥から迫り上がる様な感覚がするのだ。あの匂いを嗅ぐ前に、身体が拒絶する。
校舎の中に入る前に、金子が大西の肩に手を置いた。
「無理しなくていいよ」
「女が指図するな!」
大西はそう言ったが、自分でもその言葉が虚勢だとわかっていた。
教室のドアの前に立つと、匂いが漏れ出ていた。マスクを二重にしていても、わかる。甘くて重くて、鼻の奥にへばりつくような匂い。大西は深呼吸をして、ドアを開けた。
瞬間、大西は口を押さえた。胃が跳ね上がった。吐き気を必死に堪えた。
五人の身体は、昨日とはまるで違っていた。
箱田の顔は、もう箱田の顔ではなかった。皮膚は黒ずみ、ところどころが緑色に変色していた。特に首の周りがひどく、まるで誰かに絞められたかのような痕跡のように黒い筋が浮かんでいた。顔全体が膨らみ、まぶたは腫れ上がって目が完全に閉じていた。いや、閉じているのか開いているのかもわからない。ただ、膨らんだ皮膚の隙間から白く濁ったものが覗いていた。
口元からは、泡のような液体が漏れていた。それは乾き、口の端に固まっていた。歯茎は黒ずみ、唇はめくれ上がりまるで笑っているかのようだった。いや、笑っているように見えた。
「箱田」
大西は呼びかけた。声は、震えていた。返事はない。当たり前だ。返事があるはずがない。でも、呼ばずにはいられなかった。
めにの身体は、変わらず横向きのまま固まっていた。顔は半分ほど枕に埋もれるようにして、片方の目だけがこちらを向いていた。その目は、乾いて白く濁り今にも崩れそうだった。開いた口元からは、黒い液体が垂れていた。床に大きな染みを作っていた。
杉山は、もう原型を留めていなかった。顔は元の二倍近くに膨らみ、皮膚は緑と黒と紫が混ざり合った、絵の具を混ぜたような色をしていた。頬のガーゼの色は元が白だったとは想像がつかない程に変色していた。特に腹部がひどく、制服のボタンが弾け飛びそうだった。膨らんだ皮膚は今にも裂けそうで、血管が浮き出ていた。いや血管ではない。腐敗ガスで膨らんだ身体が、今にも限界を迎えようとしていた。
保冷剤はもう意味をなしていない。タオルは体液を吸って変色し、昨日の保冷剤の中身もただの水になっていた。それでも大西は新しい保冷剤を追加した。冷たい物を当てても杉山の身体はもう冷えなかった。むしろ、常温になっていた。
ぬちんこの身体は、今日も仰向けのまま両腕を広げていた。まるで、何かを受け止めるかのように。顔は全体が黒ずみ、髭の生え際から皮膚がめくれて、黒と緑の肉が見えた。乾燥した瞼はミイラの様に見える。
くくるも昨日と同じ横向きだった。重力で片方の頬が膨らみながら変色している。顔の大部分が崩れていた。片方の耳たぶが赤黒く、パンパンに膨れ上がっていた。目から涙の様な白濁した液体、鼻と口元からは、黒い液体が垂れ始めていた。それは、床に小さな染みを作っていた。染みは昨日よりも広がっていた。
教室の中は羽虫が飛び交っていた。昨日よりも数が増えていた。小さな羽虫が五人の身体の周りをゆっくりと飛んでいた。大西は手で払ったが、すぐに戻ってきた。何度払っても、戻ってきた。やがて大西は払うのをやめた。
「大西」
金子が後ろから呼んだ。大西は振り返った。女の顔は、マスクで覆われていたがその目は赤く、涙で潤んでいた。
「もう、無理だよ」
金子の声は、震えていた。
「これ以上、見てられない」
大西は何も言えなかった。女の言っていることは、正しかった。でも認めたくなかった。認めてしまったら、女さん弱スギィ!と煽る事もできない。
「大西」
金子がもう一度呼んだ。
「私達、できることはやったよ。保冷剤も当てた。体位も変えた。でも、もう」
金子は言葉を切った。大西は、金子の肩に手を置いた。女の身体は、震えていた。
「わかってますかき」
大西はようやく口を開いた。
「わかってるよ」
そう言って、大西は五人の方へ向き直った。箱田、めに、杉山、ぬちんこ、くくる。彼らは、もう大西の知っている彼らではなかった。しかし、大西にはわかった。彼らはそこにいた。変わり果てても、そこにいた。
「杉山」
大西は杉山の傍らに膝をついた。そして、そっと杉山の手を握った。弱くなった皮膚からシュワシュワとした炭酸みたいな触感がする。もう、人の手ではなかった。それでも、大西はしばらく握っていた。
「今まで、ありがとう」
大西はそう言った。声は、震えていた。
「お前らと過ごした時間、楽しかった。本当に楽しかった」
涙が、溢れた。止められなかった。マスクの内側が、濡れた。
「わりぃ。置いて行く。でも忘れない。絶対に忘れないから」
大西は立ち上がった。金子も、五人の前で手を合わせた。
「さようなら」
金子が小さく言った。大西は五人の身体に消臭スプレーを吹き付けた。シューッ、シューッ。と最後の別れのつもりだった。教室中にスプレーの匂いが充満した。それでも腐敗の匂いは消えなかった。
二人は教室を出た。ドアを閉めた。廊下に出ると、大西は壁に手をつきしばらく動けなかった。金子が背中をさすった。
「よく頑張ったね」
大西は頷いた。よしよしプレイでちゅか?と煽ろうとしても声が出なかった。
校門を出るとき大西はもう振り返らなかった。振り返ったら、戻ってしまいそうだったから。
原付に跨がりエンジンをかける。バッコウwアーチャウチャウw学校を背に二人は走り出した。後ろから羽虫がついてきた。今度は、一匹ではなかった。十匹百匹。黒い靄のような羽虫の群れが学校から流れ出てきた。大西はアクセルを回すと、風がマスクの隙間から入り込んだ。かすかに杉山達の匂いがした。それはこれから先どこに行ってもついてくる気がした。
「もう、行かないね」
金子が後ろから言った。大西は頷いた。
「んにゃぴ…」
「でも、忘れない」
「はい笑」
「絶対に」
「おけ笑」
大西はそう答えて、空を見上げた。秋の空は今日も高く青い。雲一つない澄み切った青。その青の下に杉山達はもういないが、自分達は生きている。それがどうしようもなく悲しかった。
原付は誰もいない街を走る。信号は機能していない。風が頬を切った。大西は涙を拭わなかった。拭ったら前が見えなくなるから。前を見て杉山達の分まで、生きなければならなかった。
学校は遠ざかっていった。後ろには羽虫の群れが、まだついてきていた。
街の匂いも日に日に変わっていった。最初はどこか甘ったるい、花が腐ったような匂いだった。それが数日経つと腐った肉と糞と、鉄錆が混ざったような、もっと鋭く重い匂いになった。街の至るところに、人が倒れている。家の中にも店の中にも、路上にもハエが湧いた。
最初は一匹、二匹だった。それが十匹、百匹、千匹。道路という道路に、黒い靄のようなハエの群れが低く舞っていた。死体から死体へ、丸々と太った蛆虫が死体の口元を這い回り、やがて蛹になる。
ハエのブウン、ブウンという低い羽音が街全体から聞こえるようになった。大西はその音を聞く度に耳を塞ぎたくなった。
────
最初に消えたのは街灯だった。次に信号が消え、やがてビルの光も消えた。夜になると東京の街はかつてないほど暗くなり、星が見えるようになった。しかしその美しさを眺められるのは二人だけ。
大西と金子は学校から離れることにした。離れると言ってもあてがあったわけではない。ただあの校舎の近くにいることが二人の限界だった。あの教室の窓を見る度、五人の姿が浮かぶ。それが少しずつ二人を削っていった。
「どこに行く」
金子が聞いた。大西はしばらく考えて、それから口を開いた。
「駅の向こう側。あの辺りは人気がないし、確かアパートがあった」
「そこら辺詳しいの?」
「杉山の家が近い。昔よく通って空き巣してました笑」
杉山、と口に出した瞬間、大西は自分の声が少しだけ震えるのを感じた。金子は何も言わなかった。ただ頷いて原付の後ろに跨がった。
街を走ると至る所に人が倒れていた。大西は最初の頃、その一人ひとりを見ていた。誰か知っている人ではないかと。しかしもう見なくなった。見ても何も変わらないからだ。それに見る度に心が削られていく。削られて、削られて最後には何も残らなくなる気がした。
駅近くのアパートは三階建ての古い建物だった。外階段が錆びつき、手すりがぐらついていた。大西は三階の角部屋のドアを開けた。鍵はかかっていなかった。中は誰かが住んでいた形跡があった。テーブルの上に、飲みかけのコップ。住人はどこにもいなかった。ベッドの上に誰かが寝ていたような窪みがあった。住人が何処へ行ったのか大西は考えないことにした。
「ここにしよっか」
金子が言った。大西は頷いた。二人は荷物を降ろし、換気の為に窓を開けた。街の匂いが入ってきた。腐敗と、鉄錆と時々ハエ。しかし教室よりは、まだマシだった。
最初の夜は静かだった。電気はつかないが、水道はまだ出た。二人は懐中電灯を灯し、まだ日持ちのする食品を食べた。会話はほとんどなかった。疲れていたから。疲れているのに、眠れなかった。大西は天井を見つめながら睡魔を待った。光量を落とした懐中電灯の丸い影が、段々箱田の首筋の斑点に見えてきた。大西は目を閉じた。
夜中、大西はふと目を覚ました。何かベタベタと小さな音がする。大西は耳を澄ませた。音はキッチンの方から聞こえた。大西は立ち上がり、懐中電灯を持ってキッチンへ向かった。シンクの中に、何かがいた。うぞうぞと動く小さな影。まるまる太った蛆虫だった。学校の廊下を這い回る小さな虫が排水溝から、一匹、また一匹と這い出てきていた。
大西は近くにあったボウルで蓋をした。しかしもうすでにシンクの縁まで到達した奴もいる。
「大西?」
金子が、眠そうな声でキッチンに来た。
「どうしたの」
大西はシンクを指差した。女は、シンクを見て息を呑んだ。
「キッショ」
「お前も大概だろアホ」
二人は、シンクに熱湯をかけた。蛆虫は、一瞬で死んだ。しかし翌朝には、小さな羽虫と共にまた出てきた。
三日目には、トイレにも出るようになった。便器の中に、黒い点と白い点が浮かんでいた。大西は水を流した。しかし流しても流しても、虫は戻ってきた。下水道の中に羽虫が湧いているのだ。街の至る所に転がる死体が、下水道に流れ込みそこで腐敗し、羽虫が大発生している。その羽虫が排水溝を通って家の中に入ってくるのだ。
「下水をどうにかしないと」
金子が言った。しかしどうにかする方法はなかった。街の下水道はもう腐肉で詰まっていた。二人にはどうにかする方法が思い浮かばなかった。
五日目には、照明の隙間からも出るようになった。懐中電灯を消した夜、天井からカサカサと音がした。大西が懐中電灯を照らすと、照明のカバーの隙間から羽虫が這い出てきていた。配管の隙間を通って、天井裏にまで入り込んでいるのだ。羽虫は光に集まる習性があった。懐中電灯の光の先をブウンブウンと飛び回った。
「もう、嫌だ」
金子が小さく呟いた。大西は金子の肩を抱いた。金子の身体に力はない。
「まあ、ね大丈夫なんじゃないですかほら、まあさ、ほら」
大西はそう言った。しかし自分でもそれが嘘だとわかっている。何が大丈夫なのか。街は死に、虫が蠢き、二人は虫と異臭がマシな場所に住んでこれだ。大丈夫な訳がない。
二人は外気に触れたくないあまりベッドの中で蹴落とし合い、毛布を奪い合う。羽虫が二人の周りを飛んでいた。しかし大西はもう払わなかった。払っても意味がないことを知っていたから。
「大西」
「ん」
「私達、ここにいていいのかな」
大西は、答えられなかった。どうでもよすぎる笑。ここにいていいのかなんて分からない。ただここにいるしかなかった。他に行く場所はない。街はもう何処も同じだった。死体と、虫と、異臭。何処に行っても逃げ場はない。
「知るかボケ」
大西は、正直に答えた。金子はもう何も言わなかった。大西は落ち着かせる為に金子の髪を撫でた。犬のノリすぎる。髪は何度洗っても街の死臭が染み付いてベタつく。ベッタマン笑。
夜が更けていく。羽虫の音が子守唄のように部屋の中に満ちていた。大西は目を閉じた。眠れるかどうかは分からなかったが、目を閉じ続けた。
翌朝、大西はキッチンのシンクを見た。羽虫は昨日より増えていた。シンクが、黒と白で染まっていた。大西はボウルを退けて熱湯をかけた。羽虫は死んだ。しかし一時間も経つと、また湧いてきた。
「引っ越しますか」
大西が言った。金子は首を振った。
「どこ行っても、同じだよ」
んにゃぴ…大西は黙った。金子の言う通りだ。どこに行っても同じ。街はもう蟲のものになりつつあった。
────
あの日の夜から、ずっと大西は眠れなかった。
頭の中が妙に冴えていた。疲れているはずなのに、身体は重いはずなのに、意識だけが研ぎ澄まされていく。まるで、眠ることを拒否しているかのようだった。
目を閉じると教室が浮かんだ。暗闇の中に、五人の姿が浮かび上がる。箱田の膨らんだ顔。めにの白く濁った目。杉山の黒ずんだ皮膚。ぬちんこの曲がった指。くくるの垂れた耳。それらが闇の中に繰り返し浮かんでは消えた。
大西は目を開けた。ただの天井にほっとした。しかし、天井の木目が箱田の首筋の斑点に見えた。大西は目を閉じた。今度は瞼の裏に杉山の膨らんだ腹部が浮かんだ。袖から見える浮き出た血管。あれは腐敗ガスで膨らんだ、組織そのものだった。
大西は息が荒げ体を起こした。心臓が、痛いほど打っていた。隣で金子が寝返りを打った。大西は金子を起こさない様に、そっとベッドを抜け出した。
水を飲もうとした。コップにペットボトルの水を注ぎ、口に運ぶ。しかし喉を通らなかった。水が異物のように感じられた。大西はコップを置いた。
手が震える。
窓の外を見た。街は暗い。誰も居ない。当たり前だ。こんな時間に、誰かがいるはずがない。しかし大西には見える。
暗闇の中に五つの影が浮かんでいた。校門の前に、並んで立っている。箱田が笑顔だった。杉山がこちらを見つめていた。ぬちんこがゲームをしていた。くくるが腕を組んでいた。めにがスマホを見ていた。
大西は窓から離れた。背中に冷たいものが走った。幻覚だ。わかっていた。でも現実よりも鮮明で現実よりも生々しかった。
胃が締め付けられた。鈍い痛みが鳩尾のあたりから広がった。大西は口を押さえた。吐き気が込み上げてくる。
それでも収まらず、大西は急いで便所に向かった。便器の前に膝をつき、口を開け、えずいた。しかし何も出なかった。昨日は殆ど食べていない。
腹の中は空っぽで胃液だけが、口の中に広がった。酸っぱい味がした。大西は便器に手をつき、何度もえずいた。涙が自然と溢れた。吐き気のせいだけではなかった。
やがて胃の中から何かが込み上げてきた。それは夕食の残りカスだった。ほとんど消化されていない、白い塊。それが便器の中に落ちた。
大西はそれを見た。
白い塊の中に何かが混ざっていた。黒い点。羽虫だった。ただの黒い粒が大西には羽虫に見えた。教室で飛んでいた、杉山の口から出てきた様な。
大西はまたえずいた。今度はもっと多くのものが込み上げてきた。胃液と、白い塊と黒い粒。それらが混ざり合い、便器の中に落ちていった。大西は、便器に顎を付けた。冷たい陶器の感触が、妙に心地よかった。涙が便器の中に落ちた。ぴちゃ、という音が静かな便所に響いた。
「大西」
声がした。大西は顔を上げた。便所の入り口に、金子が立っていた。寝ぼけた顔で、大西を見ていた。
「大丈夫?」
大西は答えられなかった。口の中が、気持ち悪かった。何も言えなかった。
金子が近づいてきて、大西の背中をさすった。その手のひらが温かかった。
「触んなボケ!!」
大西は、ようやく絞り出した。声は掠れていた。
「起こしちゃいまちたね」
「いいよ」
金子はそう言って、大西の背中をさすり続けた。
「眠れなかったの?」
大西は頷いた。
「目を閉じると、見えるんですよ」
「何が」
「箱田達が教室に並んでる姿が。日に日に変わっていく姿が」
金子は何も言わなかった。ただ、背中をさすり続けた。
「俺、アイツ等の事、ちゃんと見てやれなかった。冷やして、体位を変えてそれだけで。もっと、何かできたんじゃないか。もっと、ちゃんと看取ってやれたんじゃないか」
「大西は、十分やったよ」
金子が静かに言った。
「あんなに、ちゃんと向き合った人はいないよ。私なんて、途中で無理だって言った。大西は、最後まで」
「でも、俺は」
「大西は、ちゃんとやった。誰よりもちゃんと」
大西は、便器に顔を向けたまましばらく動けなかった。吐き気は、もう収まっていた。しかし身体の震えは、止まらなかった。ただ、悲しかった。悲しくて悲しくて、どうしようもなかった。
「水、持ってくるよ」
金子が便所を出て行った。大西は一人になった。便器の中には吐瀉物が浮かんでいた。白い塊と、黒い粒と胃液。大西はそれをしばらく見ていた。
やがて、立ち上がった。足が震えたまま。壁に手をつき、身体を支えた。
金子がコップを持って戻ってきた。大西はそれを受け取って水を一口含んだ。今度は喉を通った。冷たい水が身体の中に染み渡っていく。大西はほっとした。
生を実感した。
「寝よう」
金子が言った。大西は頷いた。二人はベッドに戻った。大西は目を閉じた。今度は箱田達の姿は浮かばなかった。代わりに金子の寝息が聞こえた。規則正しい、静かな音。その音が大西を安心させた。
「なあ」
大西は、小声で言った。
「ん」
「しね!」
金子は何も言わなかった。しかし大西の手をそっと握った。その手の平が温かかった。大西はガン無視でゆっくりと目を閉じた。
今度は夢を見なかった。
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秋麗。
街路樹の銀杏が黄色く色づき、やがて葉を落とした。誰も掃かない落ち葉が、死体の上に積もった。夕暮れは早くなり、朝は遅くなった。気温が下がるにつれて、腐敗の速度は少しずつ緩やかになっていった。しかし、ハエの数は減らない。東京には死体の数が多すぎた。全てが土に還るには、あまりにも時間がかかりすぎる。
ある夜、二人は屋上にいた。正確には、学校の隣のアパートの屋上だった。学校の高い塀の中を見下ろすことのできる、その場所になぜか二人はよく来るようになっていた。学校には行けない。しかし、学校を見ないでいることもできなかった。
「ねえ、大西」
金子が、フェンス越しに金子を眺めながら言った。
「私達、いつまでこうしてるんだろうね」
大西は答えられなかった。りゆうは知らないので
街の灯りが全て消えて東京では、本来なら見えないはずの星まで、はっきりと見えるようになっていた。アンドロメダ座。ペガスス座。北極星。大西は本来星座に興味は無かったが、最近この女の影響で名前だけ覚えた。
「くくるって、星とか見る子じゃなかったよね」
金子がぽつりと言った。大西が小さく笑った。
「アイツ、空見ても適当な事しか言わないからな」
「その度ぬちんこが名言集にしてたっけ」
「そういえば杉山も夜空を眺めるのが好きだった」
「中学の頃、橋からずっと空ばっか見てたぞアイツ不登校だし」
「めには、」
大西は言葉を切った。めにのことを思い出そうとすると、なぜか、手帳に書きかけていたあの姿勢ばかりが浮かんだ。続きのページを知ることは、もうできない。
冷たい風が吹いた。二人は暫く黙って学校の校舎を見ていた。窓という窓は暗く、その中にかつて自分たちが笑い、騒ぎ、怒り、喧嘩をした教室があるのだと思うと、大西は胸の奥がぎゅっと締め付けられるような感覚を覚えた。
「明日は、どうする」
大西が聞いた。
「わからない」
金子は正直に答えた。
「でも、たぶん、また起きてまた何か食べて、また夜が来るんだと思う」
「んな事分かってんだよしね!」
大西はそう言って、空を見上げた。
「そうだね」
その声は泣いているのか笑っているのか、大西にはわからなかった。DVしちゃったか笑。大西はそっと目を閉じた。
無為に生きるより死んだ方がマシ




