来月、同期が卒業する。
――いつかまた、肩を並べて笑い合える日を夢見て。
来月、同期が卒業する。/未来屋 環
「私、この会社卒業するわ」
研修で久々に本社に行った帰り道、いきなり高見がそんなことを言うので、俺は思わず「は!?」と声を出してしまった。
「何、安野。声おっきいよ」
高見がいつものように笑いながら言う。
その台詞が『いつも』とは違う爆弾を孕んでいるなんて、まるで想像もつかないような顔をして。
そんな高見に、俺は「そもそも『卒業』ってなんだよ」と笑い混じりに返した。
顔の表面に作り笑いを載せて、必死で平静を装う努力をしながら。
「もし辞めるんなら『退職』だろ。何アイドルみたいな言い方してるんだよ」
「わかってないなぁ、安野くん。私はこの会社で自分のやりたいことは一通り学んだわけよ。だから卒業と言っても過言ではない」
「なんだそれ」
俺のツッコミに高見があははと笑う。
新人の時は短かった髪を彼女が伸ばし始めたのはいつからだったろう。
生まれてこの方染めたことがないと言っていた、自然な栗色が夜風に靡いた。
「そもそも『退職』って言葉、ネガティブ過ぎると思わない? 学校で『退学』って言ったら辞めさせられた感すごいじゃん。入学の対義語が卒業であるなら、入社の対義語もそうであるべきだ」
「わけわかんない理屈言うなよ」
「わけわかんなくないでしょー」
何の生産性もない他愛のない会話が宙を舞う。
こんなやりとりをこれまで何十回――いや何百回繰り返してきただろう。
次の4月で俺たちは入社して10年になる。
俺が今の会社を選んだのは、単純に就職活動を早く終えたかったからだ。
学生時代からたまに利用していたカフェチェーンで、そこそこ名前が知れているし周囲への面子も立つ――そんな不純な動機で、内定をもらってすぐ入社を決めた。
しかし、群雄割拠の外食産業においては、たとえ有名企業であっても業績を上げるのは容易いことではない。
カフェというと華やかなイメージを持たれることもあるが、その実態は上から降ってくる矢継ぎ早の指示や客から寄せられるクレームを処理し、毎シーズン売り出される季節商品の準備をしつつ、日々のオペレーションを必死でこなす戦士のような生活だった。
入社当時10人以上いた同期たちは年々減っていき、残っているのは総務部にいる中間、そして企画部の高見と現場で店長をやっている俺だけだ。
――辞めるなんて言うなよ、高見。
ようやく10年勤続の記念休暇がもらえるっていうのに、勿体ないだろ。
とにかく引き留めようとそんな台詞を言おうとして、途端に情けなくなりやめる。
俺の密やかな愉しみが高見にとっては大したことないなんて、考えたくもなかった。
「――で、次どうすんの」
結果、何の工夫もない言葉を吐き出す。
すると、高見がその軽薄にも見える笑みを消して言った。
「うん、だいぶ資金も貯まってきたから、そろそろ自分のお店やろうと思って」
その眼差しに真剣な光が輝くのを見て、胸が詰まる。
――あぁ、本当におまえは変わらない。
いつか自分の店を持つためにこの会社で勉強したいのだとはっきり言える豪胆さ。
繁忙期に音を上げる皆を笑顔で励ましながら、誰よりも実務をこなし店舗を支えていたその強さ。
自ら手を挙げて店舗スタッフから企画部に異動し、夢を叶える準備を重ねてきたそのひたむきさ。
――そんなおまえのことが、ずっと好きだった。
「……本当に、辞めるのか」
震えそうになる声を奮い立たせて、わかりきったことを訊く。
高見は少しだけ困ったように笑った。
「安野が同期で良かったよ。だから私、ここまで頑張ってこれた」
「よく言うわ」
苦笑いで返すと、高見が「本当だよ」と真面目な顔になって続ける。
「入社してから色々あったけど、こうして安野と出逢えて楽しかった。今まで本当にありがとう」
そして高見が穏やかに微笑んだ。
春へと一歩踏み出した夜の空気の中で、その笑顔は静かで、それでいて確かな光を携えている。
その輝きに灼かれてしまいそうな、そんな錯覚を起こして思わず声が洩れた。
「――残された俺は、どうすりゃいいんだ」
高見がこちらを振り向く気配がして、思わず目を逸らす。
我ながら、なんて情けない。
夢に向かって一歩踏み出した高見と、日々を生き抜くのに精一杯で足踏みしかしていない俺。
同じタイミングで入社したはずなのに、何故こんなにも違うのか。
いや――そんなの当たり前だ。
だって、俺と違って高見はずっと努力してきたんだから。
そんな彼女に弱音を吐いて、前に進もうとするその足に一端の穢れを残すなんて。
――でも、きっとおまえはそんな影、あっという間に振り払えてしまうだろ?
行き場をなくした澱みがあふれ出しそうになり、これ以上はと口を噤む。
そして、暫しの静寂のあと「何言ってんの」と高見が呟いた。
「どうするもこうするもない、安野はそのままでいいんだよ」
「テキトー言うな」
「テキトーじゃないよ」
――ねぇ、安野。
これまで聞いたことのないような、高見の優しい声が鼓膜を震わせる。
それでも俺は最後の意地で、目を合わせようとはしなかった。
「……こっち見なよ」
ため息混じりに放たれたその言葉に一抹の憂いが滲んで、俺の心が揺らぐ。
隣を見ると、そこには穏やかに微笑む高見がいた。
「安野は自分のことどう思ってるか知らないけど、皆安野のこと頼りにしてるんだよ。店舗の皆だって、本社のスタッフだってそう。確かに色々文句は言うし、面倒なところはあるけどさ――でも、安野は絶対あきらめたりしない。最後まで頑張ってくれるじゃない」
高見の瞳が光を含んできらきらと輝く。
その言葉に嘘やごまかしなどないと、はっきり主張するように。
「――だから、安野は今まで通りでいいんだよ」
放たれた言葉は、俺の胸の奥にじわりと熱を灯す。
10年間かけてじりじりとすり減らされた自己肯定感をそっと撫でられたような、そんな気がして――思わず目頭が熱くなった。
「さて、じゃあ私こっちだから! また逢おうね」
そう言って踵を返す高見の背中をぼやける視界で見送る。
――その気遣いに、最後まで救われた。
頬が乾いた頃には、高見の姿はもうどこにもない。
見上げた夜空には、星々がくっきりとした輪郭を持ち輝きを放っていた。
***
『……次は……江、狛江ー……』
――夏の陽射しが眩しい。
うとうとしかけていた俺は、窓から差し込んだ光に意識をこじ開けられた。
繰り返される車内アナウンスに背中を押され、一人席を立つ。
降り立ったその駅は都下の街らしい穏やかさに満ちていた。
――何度来ても良い所だな。
そう思いながら、ゆっくりと歩き出す。
駅を出てすぐに先日オープンしたばかりの店舗が姿を見せた。
俺が企画部に異動してから、丁度10軒目に手掛けた店だ。
平日のアイドルタイムにしては賑わっている方だろう。
中に入らず、視線だけくれて俺は前を通り過ぎる。
そこから5分程歩いた住宅街の入口――そこに、その店はあった。
こぢんまりとした建物の壁は暖色のレンガで彩られていて、紺色のテント屋根と共に落ち着いた雰囲気を醸し出している。
木製のドアの上半分にはガラスがはめ込まれ、中からあたたかい光が洩れていた。
吸い寄せられるように一歩近付いたところで、カランカランという鐘の音と共にドアが開く。
「――久し振り、元気そうじゃん」
中から現れた彼女の髪は、あの日の栗色のまま。
新人の時みたいに短くなったそれを見て、俺は口を開いた。
「おまえもな――高見」
彼女が首を傾げて「……5年振りくらい?」と返す。
そうか、あれからもうそんなに経つのか。
高見が辞めてから、色々あった。
慣れない職場に異動して、思い返せば大変なことばかりだったように思う。
それでも――あれ以来俺が積み重ねてきた日々は、きっと無駄じゃなかった。
「最近おたく調子良さそうだよねー。駅前に新規店舗出されちゃって商売上がったりなんだけど」
「ふざけんな、クチコミ人気で毎日満員御礼のカフェオーナーに言われたくないわ」
「あ、バレた?」
いたずらっぽく笑みを浮かべる高見に、俺も思わず吹き出してしまう。
「せっかくだし、一杯飲んでいきなよ。飲み会まで暇でしょ?」
「じゃあお言葉に甘えるかな」
「その代わり、夜は安野のおごりね」
「おい、それバランスおかしいだろ」
何の生産性もない他愛のない会話を久々に交わしながら、俺たちは高見の店に足を踏み入れた。
(了)
最後までお読み頂きまして、ありがとうございました。
会社を辞めるには様々な理由があり、そのひとにとって前向きな辞め方であればいいのではと思いますが、個人的には残って頑張る方々にもいいことがあってほしいなと思ってしまいます。
ステップアップのために辞めることもありますが、そのまま元の会社でできるステップアップもきっとあるんだとそう思いながら書きました。
そんなわけで、すべての頑張るひとに幸あれ!✨
以上、お忙しい中あとがきまでお読み頂きまして、ありがとうございました。




