表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
  作者: しゅう


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

9/52

48音1

3月31日、17:15。

誠一は、使い慣れた油差しを定位置に戻すと、工場のメインブレーカーを落とした。

重低音を響かせていた大型の工作機械が、吐息を漏らすようにしてその震えを止める。四十年間、誠一の耳を支配し続けてきた駆動音が消え、代わりに、建屋のトタン屋根が夕冷えで軋む小さな音が聞こえてきた。


「終わった、のか」

誠一は自分の右手のひらを見つめた。

長年の旋盤作業で節くれ立ち、金型の「バリ」を察知するために研ぎ澄まされた指先。その指先が、今は何に触れることもなく、所在なげに宙を泳いでいる。

「明日からは、この手に『公差』を求める仕事はない」

「俺という型は、今日で役目を終えた製品というわけだ。あとは、どこかの倉庫に積まれて、埃をかぶるのを待つだけか」

工場の重いシャッターを引く。ガラガラと鳴る乾いた音が、やけに空虚に響いた。

かつては、この音の後に明日への準備が控えていた。図面を読み込み、鋼の硬度を確かめ、コンマ数ミリの追い込みを計算する。その張り詰めた「設計」の時間が、誠一にとっては呼吸と同じだった。

「静かすぎるな」

シャッターを閉めきった後の、完全な沈黙。

誠一はふと、自分の呼吸音が耳障りなほど大きく聞こえることに気づく。

これまでの人生、自分自身の「声」など、機械の唸りにかき消されて聞こえもしなかった。いや、聞く必要もなかったのだ。図面通りの形を削り出すこと。それだけが誠一の「言葉」だった。

「耳の奥が、まだ何かを探している。金属と金属が噛み合う、あの逃げ場のない硬い音を」

「音が消えた世界で、俺は何を支えに立っていればいいんだ」

春の湿った風が、工場の外で静かに吹いている。

誠一は上着の襟を立てると、四十年間通い慣れた道を、一度も振り返ることなく駅へと向かった。


四月に入り、郊外の自宅の庭には、頼んでもいないのに春が居座り始めた。

誠一は縁側に座り、由紀子が手入れをしている庭の古木を眺めていた。桜の花びらが、風に煽られて不規則な軌道を描き、地面に落ちる。

「設計図のない動きだ。見ていて落ち着かない」

「鋼なら、削れば削った分だけ形が残る。だが、この季節というやつには『公差』という概念がないらしい」

日中、由紀子は忙しそうに家の中と外を往復している。パッチワーク、観劇、友人とのランチ。彼女が発する声は、どれも明るく、そして軽い。


「お父さん、そんなところで固まってないで。駅前に新しくできたカフェ、コーヒーが美味しいって評判よ」

「コーヒーの味なんて、どこで飲んでも豆の配合と温度で決まる。わざわざ人混みの中へ行く必要がどこにある」

「由紀子の声は、昔から高い。だが、最近はその高周波が耳の奥で滑る。中身が詰まっていない、空気を含みすぎた音だ」

五月の大型連休が来ると、世界はさらに「精度」を失っていった。

開け放した窓から、近所の公園で遊ぶ子供たちの叫び声が飛び込んでくる。テレビをつければ、アナウンサーが観光地の混雑を、まるで世紀の大発見のように騒ぎ立てている。

「なぜ、これほどまでに無駄な音を撒き散らせるんだ」

「彼らの声には、芯がない。ただ喉を震わせて、意味を垂れ流しているだけだ」

ファミリーレストランへ連れ出された時、隣の席で若者たちが談笑していた。彼らの言葉は「ヤバい」や「マジで」といった、輪郭のぼやけた単語で埋め尽くされている。

「言葉に角がない。型に流し込む前の、熱いだけの泥のようだ」

「最後まで言い切らずに、次の言葉へ飛び移る。……締まりがなさすぎるんだ」


誠一は、彼らの会話を聞きながら、無意識に自分の喉に手を当てた。

金型は、最後の一押しで密閉され、一つの製品として完成する。だが、世の中に溢れる「声」には、その最後を締めくくるための「蓋」がないように思えてならなかった。

「完成された音とは、どんな響きを指すんだ?」

「俺が求めているのは、もっと硬く、逃げ場のない、完璧に噛み合ったそのもののはずだ」


連休の最終日。街中に充満した湿った熱気が、ようやく潮が引くように去っていこうとしていた。誠一の心には、自分という「型」に適合しない世界への、静かな苛立ちだけがバリのように残っていた。


五月の連休が明け、火曜日の午後。ようやく世界は本来の硬度を取り戻したようだった。

誠一は、折り目のついたスラックスを履き、磨き抜かれた革靴に足を入れた。由紀子が「あら、お出かけ?」と弾んだ声をかけたが、誠一は「少し本屋へな」とだけ返し、家を出た。

駅前までの道のりは、連休中とは打って変わって静かだった。通り過ぎる車のタイヤがアスファルトを噛む音も、今日はどこか規則正しいリズムを刻んでいる。

「やはり、こうでなくてはならない」

「意味もなく浮き足立った音は、不純物と同じだ。そんなものが混じっていては、まともな成形はできない」


駅前の大型書店に入ると、均一に調整された空調の音が誠一を迎えた。

整然と並ぶ書棚。そこには、数え切れないほどの言葉が、背表紙という「規格」に収まって沈黙している。誠一にとって、ここは巨大な金型の倉庫のような場所だった。

「ここには、無駄な叫びも、湿った感情もない」

「インクという型に流し込まれ、紙の上で凝固した知。それだけが、俺の乾いた感覚を潤してくれる」


実用書や文芸書の棚を通り過ぎ、誠一は奥にある学術文庫のコーナーへと足を向けた。

背表紙が薄く、しかし一冊一冊が重厚な密度を誇る棚だ。誠一の目は、そこで一冊の本に釘付けになった。

『日本語のなりたちと音の変遷』

白地に黒い文字だけの、素っ気ない表紙。だが、その潔い佇まいが誠一には「精度の高い図面」のように見えた。

「四百ページ近い厚み。手に持った時のこの適度な重量感は、信頼に値する」

「ビニールに包まれた新品。誰もこの中身を汚していない、未開封の製品だ。……これだ。これを読まなければならない」

本を手に取り、レジへと向かう。

若い店員が淡々とバーコードを読み取り、「3,190円になります」と告げる。その声は感情が排され、機能に徹していた。

「いい音だ。仕事の音だ」

「連休中のあの熱っぽい喧騒に比べれば、この事務的なやり取りの方が、よほど誠実に聞こえる」


会計を済ませ、丁寧に紙袋に入れられた本を受け取る。

袋越しに伝わる本の角の鋭さ。誠一は、まだ見ぬその中身が、自分の内側に溜まった「バリ」を綺麗に削ぎ落としてくれるような予感を抱きながら、書店の自動ドアを抜けた。


家に戻ると、玄関には由紀子の靴がなかった。どこか習い事にでも出かけたのだろう。誠一は、その静寂を幸いに思いながら、二階の隅にある自分の書斎へと向かった。

三畳ほどの狭い部屋だが、定年まで唯一、自分を守り続けてきた場所だ。デスクの上には、現役時代から使っている精密なノギスと、使い込まれた筆記具が並んでいる。


誠一はデスクに座り、先ほど買った本の紙袋を開けた。

指先を湿らせ、本を包む透明なシュリンクに慎重に爪を立てる。ピリッ、という微かな音が、密閉されていた空気の解放を告げた。

「新品の匂いだ。インクの香りが、鋼の熱から俺を切り離してくれる」

儀式のように表紙を撫で、何気なく中ほどをパラパラと捲った、その時だった。

ページの間から、四つ折りにされた一枚の紙が、音もなく畳の上に滑り落ちた。

「……何だ?」

本に挟まっていたのは、古い郷土史の断片をコピーしたような、質感の悪い藁半紙だった。端の方は茶色く変色し、印刷された文字も少し掠れている。

誠一はそれを拾い上げ、デスクのライトの下で広げた。

そこに描かれていたのは、一見すると何の変哲もない、ひらがなの表だった。

しかし、その配置は誠一が知る「五十音図」とは根底から異なっていた。円環を描くようにして、中心から外側へ向けて音が螺旋状に配置されている。そして、その円環の頂点、すべての音を束ねる位置に、一際濃い墨で一文字だけが置かれていた。


「ん」

誠一はその一点を凝視した。

「……いろは歌の四十七音じゃない。これは、四十八の型だ」

「あ、い、う……と続く音はすべて解放の響きだ。だが、この『ん』だけが、唯一、口を閉じて内に響かせる」

「この一文字があることで、円全体が締め上げられ、一つの『機構』として完成している。……金型の最後の嵌合かんごうと同じだ。この音を欠けば、日本語という型は密閉されない」

誠一は無意識に、自分の喉を「ん」と鳴らしてみた。

閉ざされた口の中で、鼻腔へと抜ける振動。それは、かつて工場の工作機械が運転を終え、すべての運動エネルギーを内側に閉じ込めた時の、あの重厚な沈黙に似ていた。


「誰がこれを、あそこに差し込んだ?」

「なぜ、このタイミングで俺の前に現れたんだ」

窓の外では、夕陽が西の空を血のような赤に染めていた。

誠一は、その図面のような表を食い入るように見つめ続ける。由紀子が帰ってくる足音も、夕食を告げるチャイムも、今の彼には届かなかった。

「明日、図書館へ行こう。この『ん』という名の蓋が、何を閉じ込めようとしているのか……それを確かめるのが、俺の新しい仕事だ」

読んでいただきありがとうございます。

下の★~★★★★★で評価してもらえると勉強になります。

感想などいただけると嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ