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  作者: しゅう


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世目発生の始まり4

三上の喉から溢れ出した「歓喜の産声」は、沼地を包む湿った大気に吸い込まれ、やがて完全な静寂へと変わった。

嵐のような情報の奔流が、一瞬にして凪いだ。先ほどまで三上を追い詰め、執拗にシャッターを切っていた村人たちの存在は、今や遠い霧の彼方の出来事のように感じられた。耳をつんざくようだった嘲笑も、スマホのバイブレーションの振動も、今の彼にとっては不快な雑音ではない。それは、大気が震える現象、すなわち「ヒビキ」という生命の根源的な波動の一片として受容されていた。


三上の意識は、もはや肉体という脆いおりの中に留まってはいなかった。

彼の「視覚」は沼のほとりに横たわる自身の体から離れ、上空へ、そして地中深くへと、村の境界を越えて放射状に広がっていく。沼地の水面下で脈打つ肉塊の鼓動、地殻の奥底でゆっくりと動く岩盤の軋み、さらには数キロ先で静かに眠る村人たちの寝息までもが、まるで自分の指先の感覚であるかのように鮮明に伝わってきた。


これこそが、古文書に記されていた「世目ヨメ」の真の姿なのだと、三上は確信した。

新しい目で見える世界は、もはや物質としての「カタ」に支配されてはいなかった。

都会で彼をさいなんでいた「他人の評価」や「監視の視線」、あるいは「数字という記号」がいかに矮小で、表面的な幻影であったか。それらは潜象世界カムから湧き上がる巨大な生命の流れの上に、泡沫うたかたのように浮かんでは消える、一時的な揺らぎに過ぎない。

 

すべては重なり合い、変化し、途絶えることなく進んでいる。

三上の意識は、かつてこの境地に辿り着いた男の精神と、数百年の時を超えて完全に同期した。

現世うつしよに生きているが、違う世界がそこにある事を知りなさい」

男が最期に残したその言葉の真意が、熱い奔流となって脳髄を満たす。それは「目に見える世界」のあるじである「目に見えない世界」を意識せよという、始元の教え。三上は、沼の底に沈む無数の犠牲者たちの骨も、風化した石碑も、そして自分を騙した村人たちのドロドロとした執着やごうさえも、すべてを等しく「愛おしい生命の流れ」として肯定し、抱擁し始めた。


恐怖は消えた。

あるのは、宇宙の方向性と同化した、永遠に続くような平安だけだった。

三上の肉体は沼のほとりで動かなくなり、やがてその輪郭が闇に溶けていく。だが、彼の視覚――「世目」となった意識は、永遠にこの地を観測し続ける「ヨメ様」そのものへと昇華していく……。


その、刹那だった。

視界が、爆発的な白い光に包まれた。

「……う……」

頬に、硬い畳の感触があった。

鼻腔を突くのは、沼の腐敗臭ではなく、古びた木造建築特有の埃っぽい匂いと、朝露の匂いだった。

三上はゆっくりと目を開けた。

そこは沼地でも、裏山でもなかった。昨日まで過ごしていた、役場が提供してくれたあの宿舎の部屋だった。


三上は半身を起こし、呆然と周囲を見渡した。

脇には、読みかけのまま伏せられた例の古文書がある。昨夜、深夜まであの不気味な挿絵と記述を読み耽っているうちに、いつの間にか眠り込んでしまったらしい。

「……夢、か?」

三上は慌てて自分の左手を見た。

袖をまくり、肘まで剥き出しにする。そこには、赤ん坊の瞳のような「目」もなければ、脈打つ赤い斑点すら一つもなかった。ただの、都会での不摂生が抜けきらない、痩せた男の腕がそこにあるだけだった。

だが、感覚が追いつかない。

起き上がろうと畳に手を突いた瞬間、指先が触れたイグサの繊維一本一本が、夢の中で見たあの「マクロな解像度」を伴って脳に飛び込んできた。畳の網目が、まるで巨大な編み込まれた蛇の群れのように視え、一瞬、平衡感覚を失いそうになる。

「落ち着け、ここは現実だ」

自分に言い聞かせ、壁に掛けられたカレンダーに目をやる。そこにあるのは無機質な数字の羅列、記号化された日常だ。しかし、その白い紙の奥に、壁を構成する木材の導管を流れる微かな湿気や、壁の裏側に潜む微細な菌糸の蠢きを「感じて」しまう。夢の残照が、現実の解像度を異常なまでに引き上げてしまっていた。


窓の外からは、秋の始まりを告げる鳥の声が聞こえてくる。

窓のカーテンの隙間から差し込む朝日は、強烈で、眩しく、三上の網膜を白く焼き切るように照らした。

その光の柱の中に舞う埃の粒が、三上の目には銀色の世界の粒として映る。それらは空気に乗って踊り、重なり合い、目に見えない幾何学模様を描きながら、静かに三上の肺の中へと吸い込まれていく。


三上は大きく息を吐き出し、畳の上に仰向けに寝転んだ。

あんなにも生々しく、あんなにもおぞましく、そして最後にはあんなにも美しかった体験が、すべて脳内の幻影だったというのか。あの極限の監視社会も、沼地の肉塊も、すべては古文書の内容に触発された、脳が見せた悪夢に過ぎなかったのか。


枕元に置かれたスマホが、不意に短く振動した。都会の編集部からの、緊急でもない連絡だろう。以前ならその微かな振動だけで胃が縮み上がるような不快感を覚えたはずだった。しかし、今の三上は、その電子の震えさえも、遠い宇宙の果てから届いた微弱な星の瞬きと同じ「エネルギーの変遷」の一つとして、静かに受け止めている自分に気づく。

三上はカーテンの隙間から、眩しい朝日をじっと見つめた。

あざはない。痛みもない。

しかし、何かが決定的に変わってしまっていた。

差し込む光の粒子の中に、空気が振動する音の中に、そして窓の外に広がる平凡な村の景色の中に――。

三上は、夢の中で視たあの感覚の残照を感じずにはいられなかった。


立ち上がり、窓辺に歩み寄る。カーテンを引き開けると、そこには朝霧に煙る村の全景が広がっていた。遠くの畑では、夢の中で自分を執拗に追い詰めた長谷川に似た男が、静かに腰を屈めて作業をしている。役場の佐々木のような人物が、原付で細い道を走り抜けていく。

彼らは、三上を陥れようとする異形の怪物ではない。ただ、この狭い土地で、それぞれの業を背負って懸命に「カタ」を維持し続けている、切ないほどに健気な生命体。その背後に、夢で見たあの巨大な「単眼」の影が重なって見える。彼らもまた、視られ、視ることで、この生命の大きな流れを繋いでいるのだ。

 

目に見える「世界」のすぐ隣に、潜象の「世界」が静かに、確実に横たわっている。

三上は静かに目を閉じた。

もはや、都会へ戻っても以前のような恐怖に怯えることはないだろう。誰に視られようと、どんな数字に翻弄されようと、自分は常に、この世界の「主」である潜象の海と繋がっているのだから。

あざが消えたはずの左手の甲が、朝日の熱を吸い込んで、ほんのりと、しかし確かになぞるような違和感を伴ってうずいた気がした。

三上はその疼きを、忌まわしい傷跡としてではなく、世界と自分を繋ぐ「新しい感覚」の芽吹きとして、静かに受け入れた。

「……さあ、行こうか」

三上は独り言ちると、読み終えた古文書を丁寧に鞄にしまい、眩しすぎる光の渦の中へと一歩を踏み出した。

読んでいただきありがとうございます。

下の★~★★★★★で評価してもらえると勉強になります。

感想などいただけると嬉しいです。



前回『天野成美さんの著書『カタカムナ』の第2首に触れたとき、ふと、自分の中にある言葉たちが「声」となって動き出しました。』と後書きしました。

今回は第3首を見ていて閃いたのが、

ミステリーを書いて見たい!

でした。

しかし、書き進めるとなぜかホラーになってしまった。

不思議ですね。

こんな感じですが、まだまだ「トコノウタヒ」の一部として短編を重ねていきたいと考えております。

これからもよろしくお願いいたします。

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