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  作者: しゅう


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世目発生の始まり3

背後から追い縋る無数のスマホのライト、そして絶え間ないシャッター音。それらが森の木々に反射し、まるで幾千もの眼球が自分を射抜いているような錯覚に三上は襲われた。

肺が焼けるように熱い。喉の奥からは血の味がせり上がってくる。泥に足を取られ、剥き出しの木の根に何度も爪を剥ぎながらも、三上はただひたすらに斜面を駆け上がった。


「あいつらは狂ってる……全部、仕組まれてたんだ……!」

村人たちの「カシャ、カシャ」という執拗な追跡音が、次第に遠ざかり、代わりに耳を支配し始めたのは、湿り気を帯びた不気味な「沈黙」だった。風すらもその場所を避けるかのように、大気は淀み、重く、粘り気を帯びていた。

そこは、村の境界を越えた最奥、深い窪地に形成された沼地だった。

古文書に『禁忌』と記され、長谷川や兵藤が恐れていた場所。人間が作り上げたデジタルの監視網すら届かない、原初の闇が支配する場所。


「はぁ、はぁ……ここまで、来れば……」

三上は膝をつき、激しく喘いだ。

だが、その瞬間、彼の鼻腔を突いたのは、これまでに経験したことのない異様な「臭い」だった。

それは、腐った果実の甘さと、濡れた鉄錆の臭いを混ぜ合わせ、さらにそこに「生き物の体温」を加えたような、強烈に生理的な嫌悪感を呼び起こす芳香だった。都会の編集室で嗅いできた印刷インクの匂いや、コーヒーの香りが、遠い前世の記憶のように薄れていく。


三上は、震える手で懐中電灯を向けた。

光の輪が暗闇を切り取った瞬間、彼は危うく絶叫しそうになった。

沼地の水面を覆い尽くしていたのは、蓮でも睡蓮でもなかった。

それは、赤ん坊の拳ほどの大きさがある、粘着質な肉質の「塊」だった。

無数の塊が、水面から突き出した枯れ木や岩にびっしりと張り付き、それぞれが独立した生き物のように、ゆっくりと、しかし確実に脈打っている。その表面を覆う半透明の粘液が、三上のライトを浴びて虹色に不気味に蠢いた。

そして――それらすべてに「目」があった。


「なんだ……これは……っ!」

三上が灯した光に反応するように、肉の塊たちが一斉に蠢いた。

「クチャッ」という、濡れた肉が擦れ合うおぞましい音が辺りに響き渡る。表面の粘膜が左右に裂け、中から現れたのは、湿った光沢を放つ巨大な「虹彩」だった。本物の人間の瞳と見紛うばかりの精緻な組織。しかし、そこには感情も意志もなく、ただ「光」という情報を貪り食うためだけの純粋な飢餓感だけが宿っていた。

 

村人たちがスマホのカメラで演出していた「監視」など、この光景に比べれば児戯に等しかった。ここにあるのは、悪意による密告ではない。生命そのものが「視る」という機能だけを、自然界の摂理を無視して異常に肥大化させた結果としての、おぞましい群生だった。

不意に、三上の左手が、これまでにない熱量を帯びて激しく疼いた。

見れば、肘まで広がっていた赤い斑点が、今や皮膚の下で何か巨大なものが蠢くように盛り上がっている。

「う、あああぁぁぁっ!」

激痛と共に、皮膚の線維が引き裂かれるような鈍い音がした。

斑点の中央が、まるで熟しすぎた果実が弾けるように裂けた。そこから覗いたのは、沼地の化け物たちと同じ、瑞々しくも不気味な「目」だった。

一つ、二つ、三つ……。

新たに発生した「目」が瞬きをするたび、その長いまつ毛が三上の生身の皮下組織をザリザリと擦り、脳を揺らすような激痛と痒みを同時に引き起こす。目尻からは、涙ではなく、熱を帯びた粘着質の液体が溢れ出し、三上の腕を伝って体温を奪い取っていく。それは生理的な拒絶反応を超え、三上の肉体そのものが別の「器」へと作り替えられる合図だった。

三上の腕の皮膚を食い破り、新しい視覚が「発生」していく。

それらは三上の意志とは無関係に、周囲の闇を、そして沼地の群生を捉え始めた。

その瞬間、三上の感覚は「混濁こんだく」し始めた。

 

耳から入る沼のせせらぎが、腕の目を通して「青黒い震え」として視える。森を抜ける風の冷たさが、脳髄の中で「鋭利な銀の針」となって光り輝く。嗅覚、聴覚、触覚――かつて五感と呼ばれた境界線が崩壊し、あらゆる情報が「視覚」という巨大な濁流となって押し寄せてくる。

さらに、三上の視界は異常な「断片化」を起こし始めた。まるで数千もの液晶モニターが、脳の裏側に並べられたかのようだった。前方にある沼の光景だけでなく、背後の森の暗闇、さらには遠く離れた役場の冷たいデスク、長谷川の蔵の埃っぽい空気、兵藤の家の饐えた匂いまでもが、同時進行の「現在」として三上の網膜を埋め尽くす。空間の概念が砕け散り、彼は村全体のあらゆる場所を同時に「視て」しまっていた。


長谷川たちの声が聞こえたが、それはもはや言葉ではなかった。三上の皮膚に開いた無数の目には、彼らの発声が「粘り気のある極彩色の波」として視え、それが自らの網膜を執拗に愛撫するのを感じた。

「ヨメ……世目発生とは、こういうことだったのか……」

 

三上の脳の機能が、強制的に書き換えられていく。

突如として、三上の視界に「過去」がオーバーラップした。

腕に咲いた目が、沼の底に眠る泥の記憶を読み取ったのだ。享保の大飢饉。痩せ細り、骨と皮だけになった先祖たちが、この沼の縁で這い回り、禁忌の肉塊を貪り食う姿。彼らが絶命する直前、その全身から「目」を噴き出させ、互いの空腹と絶望を視線で分かち合った地獄絵図。過去と現在が、視線の糸で一本に繋がっていく。

 

それだけではない。三上の視力は、今やマクロからミクロまで、次元の壁を超えて解像度を上げていた。空気中を舞うウイルスの幾何学的な構造、自分の肺胞で繰り広げられる酸素と二酸化炭素の交換、細胞の中で火花を散らすミトコンドリアの爆発的な鼓動。それらすべてが、精緻な曼荼羅まんだらのように重なり合い、三上の意識を情報の海へと引き摺り込んでいく。あまりの情報の質量に、絶望的な孤独と、神にでもなったかのような恍惚が交互に彼を襲った。

それと同時に、三上の中で「都会の記憶」が急速に色褪せていった。

かつて命を削って向き合っていた出版社の数字、分刻みのスケジュール、無機質なスマホの通知音。それらすべてが、奥行きのない二次元の「紙屑」のように無価値に思えた。

そして、「三上哲也」という個人の名前さえも、脳の淵から剥がれ落ち、沼の底へ沈んでいくのを感じた。かつて自分を縛っていた肩書き、経歴、プライド。それらは、この圧倒的な「生の真実」の前では、無意味な記号に過ぎなかった。彼は今、個としての「私」を喪失し、巨大な生命の潮流の一部へと溶け出していく。


「あんな中身のない記号に、俺は怯えていたのか……?」

情報の速度こそが価値だと信じていた日々が、滑稽な茶番に見える。ここにあるのは、逃げ場のない圧倒的な「生の質量」だ。グロテスクで、おぞましく、それでいて何よりも「実在」している真実。

三上の腕の「目」たちが、沼地の主――水面から立ち上がる、最も巨大な肉の塔を捉えた。

その塔の頂点には、巨大な「単眼」が鎮座していた。

 

三上と、その「単眼」の視線が、真正面から衝突した。

それは三上を「視て」いた。三上が都会で抱えていた「誰かに必要とされたい」という空虚な承認欲求と、「誰にも見られたくない」という矛盾した恐怖。その隙間に、この単眼の視線が、物理的な触手となって深く入り込んできた。


背後で、再び足音がした。

追いついてきた長谷川たちが、沼の縁に立ち並んでいる。

彼らはもはやスマホを掲げてはいなかった。

月光の下、彼らが一斉に、儀式のように服を脱ぎ捨てる。

三上は、自分に新しく備わった「目」で、彼らの真実を見た。

 

彼らの胸、背中、腹部。皮膚という皮膚を埋め尽くすように、数え切れないほどの「目」が配置されていた。それらは三上を祝福するように一斉に開眼し、瞬きをし、喜びの涙のように粘液を滴らせている。

「三上さん、ようこそ。人間の『目』を捨て、世界のすべてを視る、新しい命へ」

長谷川の言葉は、三上の全身に開いた「目」を通じて、脳髄へと直接「色彩」として刻み込まれた。

 

三上の意識が、急速に溶けていく。

個体としての「三上哲也」という編集者は死に絶えた。

代わりに、全身を覆い始めた無数の「瞳」が、これまで一度も見たことのない、あまりに鮮烈で、あまりに過剰な、そしておぞましいほど美しい「世界の真実」を脳内に直接流し込み始めた。

 

――視える。

空気中を舞う菌糸の動き、村人たちの血管を流れる赤血球の衝突、そして、沼の底で脈打つ、地球そのものの鼓動。

三上は、自分がもはや「人間という種」の檻から解き放たれ、この村の一部、すなわち巨大な「世の目」の細胞の一つになったことを理解した。

 

暗闇はもはや暗闇ではなかった。そこには数兆もの生命の息吹が、光の粒子となって渦巻いている。

「自分」という存在が消え、世界と地続きになる快感。

彼が最後に発した声は、悲鳴ですらなく、新しい世界の美しさに圧倒された、歓喜の産声に近いものだった。

読んでいただきありがとうございます。

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