衛星ネリュボフ4
一九六一年四月十二日、未明。
カザフスタンの荒野、バイコヌール宇宙基地に、人類の歴史を塗り替えるその時が迫っていた。
発射台に据えられたボストークロケットの最頂部。ネリュボフは狭隘なカプセルの中で、自らの鼓動を聴いていた。その音は、地上の喧騒から切り離され、宇宙の静寂を先取りするかのように規則正しく、そして力強かった。
彼の座る座席は、人間を運ぶための椅子というよりは、巨大な火薬庫の上に置かれた生贄の祭壇のようだった。周囲を囲む無数のスイッチやレバーは、冷たい金属の光を放ち、彼がこれから挑む「物理法則という名の神」の厳格さを物語っていた。
無線の向こう側で、管制官の冷徹な声が秒読みを開始する。
「Десять(ジェーシャチ/10)、Девять(ヂェーヴィチ/9)、Восемь(ヴォースィミ/8)……」
心臓が、ロケットの予熱に合わせて激しく脈打つ。
「Семь(スィェーミ/7)、Шесть(シェースチ/6)、Пять(ピャーチ/5)……」
ネリュボフは目を閉じ、地上のすべてを脳裏に焼き付けた。父の油まみれの手。ジナイダの微笑み。朝露に濡れた麦畑の匂い。それら地上の愛おしい断片が、今、宇宙という未知へと昇るための、最も純粋で強力な燃料へと変わっていく。
「Четыре(チトィーリェ/4)、Три(トリー/3)、Два(ドヴァ/2)、Один(アヂーン/1)……」
「Пуск!(プスク!/発射!)」
直後、大地を揺るがす轟音とともに、制御された爆発の奔流が彼を座席に叩きつけた。
全身を襲う凄まじい重圧。肺の中の空気が無理やり絞り出され、視界は激しい振動で火花を散らす。機体全体が悲鳴を上げ、リベットの一本一本が限界まで軋む音がヘルメット越しに伝わってくる。
「Поехали!(パイェーハリー!/行こう!)」
ネリュボフは咆哮した。それは恐怖ではなく、重力という永劫の枷を断ち切る者だけが許される、魂の底からの歓喜の叫びだった。
凄まじい振動が機体を揺さぶり、高度が上がるにつれて窓の外の色が、瑞々しい青から濃紺へ、そしてついには、生命を拒絶するような絶対的な漆黒へと反転していく。
そして、ついにその瞬間が訪れた。
燃焼を終えた最終段ロケットが切り離され、暴力的だった音と振動が、嘘のように消え去った。
無重力。
「……Здесь Нелюбов. Я вижу Землю!(ズヂェーシ・ネリュボフ。ヤー・ヴィージュ・ズィムリュー!/……こちらネリュボフ。地球が見える!)」
窓の外には、薄い大気のヴェールに包まれた、奇跡のように青い惑星が横たわっていた。
それは、いかなる宗教画よりも神々しく、いかなる宝石よりも儚い、宇宙に浮かぶたった一つの「家」だった。
彼は涙を流した。その雫は、地上では頬を伝い落ちるだけだが、ここでは真珠のような完璧な球体となって空間に浮遊し、漆黒の宇宙を背景に、ダイヤモンドのように輝いた。
だが、運命は彼に「英雄」としての帰還を許さなかった。
計器の裏側で、不吉な「バチリ」という音が響いた。続いて、電子回路が焼き切れる特有の刺すような臭いがカプセルに満ちる。警告灯が、血の色を煮詰めたような赤色で一斉に点滅を始めた。
「地上、応答せよ。酸素供給系にリーク発生。逆噴射システムが固着し、反応しない。……繰り返す、逆噴射不能。私は帰還軌道に乗れない」
無線の向こう側の沈黙は、彼という存在が歴史から「なかったこと」にされる手続きの始まりだった。
しかし、ネリュボフは微笑んでいた。パニックも、絶望もなかった。
彼は落ち着いた手つきで、通信の周波数を全世界のあらゆるラジオ局や受信機が拾える「全開放チャンネル」へと切り替えた。
「……聞こえるか。私は、人類で初めてこの場所へ辿り着いた、名もなき旅人だ。私の肉体はまもなく、この鉄の塊とともに宇宙の塵となるだろう。だが、伝えておきたいことがある」
彼は、窓の外に広がる地球を見つめ続けた。
そこには国境も、イデオロギーの壁も、昨日まで自分を苦しめていた「名前を失う恐怖」さえも、何一つ存在しなかった。
「地球は、あまりにも、あまりにも美しい。ここから見れば、我々を分かつ境界線などどこにもない。ただ、一つの命が、青い光となって瞬いているだけだ。どうか、この美しさを守ってくれ。あきらめないでほしい。私が消えても、あとに続く者が必ず現れるはずだ。私のこの終わりは、人類が宇宙へ踏み出すための、小さな、しかし消えない火花だと思ってほしい」
酸素濃度が低下し、視界がゆっくりと縁から削られるように狭まっていく。
ネリュボフは最後の力を振り絞り、胸元のペンダントの中に隠していた、小さなジナイダの写真を指先でなぞった。
「ジナイダ……。聞こえるかい。僕は今、最高に自由だ。国家の名誉も、重力も、死の恐怖さえも、僕を縛ることはできない。僕は今、宇宙という現象の一部になった。君が見上げる空の、どこか一粒の光の中に、僕はいつだっている。僕を見つけたとき、それが僕の本当の帰還だ……」
その時、地上の片隅、官舎のキッチンにある小さな短波ラジオが、激しい混信の合間に奇跡のような透明度で夫の声を拾い上げた。ジナイダは息を止め、震える指先で木製のラジオを抱きしめた。
「……聴こえているわ、グリゴリー。私には、あなたの輝きが見える」
彼女の目から溢れた涙は、重力に従って畳に小さな染みを作り、宇宙で真珠のように漂う彼の涙と、時空を超えて呼応した。歴史が彼を裏切り、世界が彼を忘却しても、この「声」を聴いた一人の女の記憶の中で、彼の命は永遠に撃墜されることのない黄金の軌道を描き始めたのだ。
無線のノイズが途切れ、カプセル内に完全な、そして永遠の静寂が訪れた。
バイコヌールの管制室では、最高責任者が沈痛な面持ちで通信機のスイッチを切り、ネリュボフに関するすべての書類をシュレッダーへと送った。彼の指紋も、筆跡も、訓練中の笑顔も、すべては紙の屑となって消え去った。
数日後、世界が熱狂と共に迎えたのは、無事に生還した「最初の英雄」ガガーリンの笑顔だった。
しかし、それから数十年が経っても。
晴れた冬の夜、ジナイダが一人でベランダに立ち、首が痛くなるほど夜空を見上げるとき。
音もなく、しかし意志を持っているかのように流れる一つの小さな光の粒が、彼女の潤んだ瞳を照らすことがある。
それは、いかなる冷徹な国家も、いかなる無慈悲な歴史も消し去ることのできなかった、純白の志そのもの。
「衛星ネリュボフ」は、今も静かに、地球という名の青い宝石を愛おしむように回り続けている。
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本作はこれにて終話となります。
物語の着想は、「カタカムナ第16首」から得たものでした。
この首にある「微粒子の変遷」や「万物は原因と結果で繋がっている」という思念に触れた瞬間、私の脳裏には、ある一枚の不自然な写真が浮かびました。歴史の表舞台に立つガガーリンたちの背後で、不自然に塗りつぶされ、消し去られた男たちの姿です。
グリゴリー・ネリュボフ。
もし、彼こそがソビエト連邦最初の宇宙飛行士であり、その存在が「微粒子」のように歴史の隙間へと霧散させられたのだとしたら……。そんな空想から、この物語は生まれました。
皆様の心の中に、一粒の光としての届けば幸いです。




