世目発生の始まり2
三上の手の甲にある赤い斑点は、翌日になっても消えるどころか、むしろその色を濃くしていた。
役場のデスクに座りながら、彼は無意識に左手を右袖の中に隠し続けていた。隣の席の佐々木は、昨日までの怯えが嘘だったかのように、事務的に淡々と書類を捌いている。しかし、三上がふと顔を上げると、周囲の職員たちが一斉に作業を止め、無言で自分を凝視しているのを感じた。彼らが視線を逸らすタイミングは、まるで指揮者がタクトを振ったかのように正確で、そのあまりの不自然さに三上は背筋が凍る思いがした。
「……三上さん」
不意に、佐々木が声をかけてきた。その声には、昨日のような親愛の情は一切含まれておらず、どこか録音された音声を再生しているような無機質さがあった。
「午後の古文書整理、今日は中止になりました。長谷川さんの屋敷の蔵、鍵を掛け替えるそうで」
「中止? まだ整理の途中ですよ。昨日見つけたあの帳面も、まだ精査しきれていない。あの『ヨメ』という記述が、飢饉の記録とどう結びつくのか……」
「いいんですよ」
佐々木は顔を上げず、キーボードを叩く指を止めないまま言った。
「もう、あんたが『見た』ことで、目的は果たされたんだから。あとは、あんたがどう『観られるか』の問題だ。我々の関心は、もう資料にはない。あんたという検体に移ったんだ」
三上は、吐き気にも似た不快感を覚え、役場を飛び出した。
この村は何かがおかしい。オカルト的な呪いというより、もっと人為的で、組織的な悪意が網の目のように張り巡らされている。
村の古道を歩きながら、周囲を観察した。
すると、昨日までは風景に溶け込んでいた異常な光景が、次々と鮮明に目に飛び込んできた。
古い家屋の軒下。道端の石碑。崩れかけた土壁。そこには、あの古文書の挿絵に似た「目の形をした紋様」が、至る所に刻まれていた。それも、長い年月をかけて風化したものから、つい最近彫られたような生々しい削り跡まで様々だ。村人たちは、この紋様を拝んでいるのではない。この紋様を通じて、互いの罪を、あるいは秘密を覗き合っているのだ。
そして何より異常なのは、村のあちこちに配置された「鏡」の数だった。
道角のカーブミラーは、道路ではなく特定の民家の窓を向いている。古い商店の軒先に吊るされた手鏡。民家の窓辺に立てかけられた化粧鏡。それらすべてが、不自然な角度で調整され、太陽の光を不気味に反射させていた。
三上が歩を進めるたび、どこかの鏡が彼の姿を捉え、その光がまた別の鏡へと、バケツリレーのように受け渡されていく。自分が曲がり角を曲がっても、その姿は反射の連鎖によって、常に誰かの「視界」の中に留まり続けていた。
「……世を、監視する目か」
三上の脳裏に、かつて出版業界で触れた情報操作や、極限の心理社会学の知識が蘇る。この構造は、ナチスのゲシュタポや、東ドイツのシュタージが作り上げた「超監視社会」の縮図そのものではないか。
彼は真相を確かめるべく、村の端にある、廃屋同然の家に住む偏屈な老人、兵藤を訪ねた。兵藤はかつて村の駐在所に勤務していたが、ある事件をきっかけに心を病み、今は村人からも疎まれていると聞いていた。
兵藤の家は、腐った木材の臭いと、古い紙の匂いが立ち込めていた。
「ヨメ……? ああ、あれは『世目』だ。世の中を観る目。つまり、スパイのことさ」
兵藤は、濁った瞳で三上を見据え、ひび割れた声で笑った。その笑い声は、枯葉が擦れるような乾燥した響きだった。
「この村じゃあ、古くから『密告』こそが最大の徳目とされてきた。享保の飢饉の時、誰かが米を一合隠せば、他の十人が死ぬ。だから、全員が全員を見張る必要があった。隠し事は死を意味した。それがいつしか、歪な信仰になったのさ。誰が何を話し、誰がどこへ行き、誰が何を考えているか。それを『ヨメ様』――つまり村の長に報告する。そうすることで、村の平穏は守られる。この村にプライバシーなんて言葉はない。あるのは、剥き出しの共有だけだ」
三上は絶句した。
「じゃあ、昨夜の石の配置や、血の名前も……全部、人間がやったことなんですね」
「あんたを試したのさ。外から来た人間が、この『監視の円環』に耐えられるかどうかを。だが、気をつけろ。あんたが彼らを見張っていると思っている時、彼らもまた、あんたを見張っている。……いや、もうあんたの『中』に、目が入っちまってるかもしれないな。一度刻まれた視線は、内側からあんたを食い破るぞ」
兵藤の言葉に突き動かされるように、三上は宿舎に戻った。
彼は半ば狂乱状態で、備え付けの古い全身鏡を壁から引き剥がした。案の定、壁には小さな覗き穴が穿たれていた。さらに、畳を剥ぐと、床下には不自然に配線された集音マイクのような黒い塊を見つけた。
三上のこれまでの三ヶ月間の生活は、すべて誰かのエンターテインメントとして消費されていたのだ。寝顔も、着替えも、独り言も。
そして、三上は最も恐れていた真実に辿り着く。
昨夜、地面に置かれていた「黒い石」。それを再び拾いに行き、部屋で分解した。中から出てきたのは、呪いの道具ではなく、超小型のワイヤレスカメラの基盤だった。
「呪いなんて、嘘だ。全部、あいつらの仕掛けじゃないか!」
三上は、笑いと怒りが混ざり合ったような叫び声を上げた。
長谷川も、佐々木も、そして村人全員が、古文書の恐怖を演出することで、三上の精神を崩壊させ、この「監視教」とも呼ぶべき異常なコミュニティの奴隷にしようとしている。三上の編集者としての理性は、これを「狂気じみた村の儀式」だと理解した。
その時、部屋の外から、無数の足音が近づいてくるのが聞こえた。
カサカサ、という服の擦れる音。そして、低い呟き声。
三上は窓から外を見た。
庭には、村人たちが手に手に松明や――スマートフォン、あるいはタブレット端末を掲げて集まっていた。端末の画面には、今まさにこの部屋の中で狼狽し、床を這い回っている三上の姿が、リアルタイムで映し出されている。
「三上さん、おめでとう。あんたはついに、真実を『視た』」
スピーカーを通したような、歪んだ長谷川の声が響く。どこかの木にスピーカーが隠されているらしい。
「この村では、プライバシーなんて不純なものは存在しない。隠し事がないこと、すべてを晒し合うこと、それが命の証明だ。さあ、あんたもこちら側に来い。あんたの左手の甲に現れた『芽』は、新しい目、すなわち『世目』の始まりなんだよ」
三上が左手を見ると、あの赤い斑点が、今や手首を超え、肘のあたりまで脈打つように広がっていた。そして、斑点の一つ一つが、まるで粘膜を切り裂くようにして、小さな、しかし意志を持った「虹彩」を覗かせようとしている。
それは、精神的な極限状態が見せる薬物的な幻覚なのか。それとも、この村の狂気が、彼の肉体そのものを書き換えているのか。
「……ふざけるな! 誰が、お前らの仲間になんてなるか!」
三上は、デジカメと数枚の記録を掴み、裏窓から飛び出した。
背後から、「カシャ、カシャ」という無数のシャッター音が、まるで銃声のように追いかけてくる。
村人たちが掲げる端末の光が、まるで数百の眼球となって、闇夜を逃げ惑う三上の背中を射抜く。どこへ逃げても、鏡が光を反射し、彼の位置を追跡する。
逃げ場はない。
三上は、村の境界を越え、あの古文書で固く禁じられていた「裏山の沼地」へと足を向けた。そこは、人間たちのデジタルな目すら届かない、原初の闇が支配する場所だ。
しかし、彼がそこで目にしたものは、人間の悪意すら生ぬるく感じるほどの、おぞましい「生命の真実」だった。
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