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  作者: しゅう


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衛星ネリュボフ3

「星の街」での訓練はすべて終了した。

ネリュボフの成績は、依然としてガガーリンと首位を争う完璧なものだった。あとは、最高評議会による最終決定を待つだけ。官舎に戻った彼を待っていたのは、数日前とは打って変わった、重苦しい沈黙だった。


ある夜、彼は再びあの黒いセダンに導かれ、基地の最深部にある一室へと呼び出された。

そこには、前回の勧誘時のような華やかな勲章をつけた将校たちではなく、表情を凍りつかせたような、冷たい目をした文官たちが控えていた。部屋の空気は、まるで真空室のように希薄で、自分の呼吸音だけが異常に大きく響いた。


「ネリュボフ大尉。君の能力は疑いようがない。しかし、我々が挑むのは未知という名の怪物だ」

男の一人が、机の上に一通の厚い契約書を置いた。そこには「特例公務における情報秘匿に関する同意書」と題されていた。その紙の白さが、まるで遺影を縁取る額縁のように不吉に見えた。


「この計画は、ソビエト連邦の威信そのものだ。ゆえに、失敗は断じて許されない。もし君が宇宙へ行き、無事に生還すれば、君は人類の英雄として世界中にその名を知らしめることになるだろう。だが……」

男の言葉が途切れ、部屋の温度が数度下がったように感じられた。


「もし、何らかの事故で失敗し、君が帰還できなかった場合、この計画そのものが『なかったこと』になる。君という人間がボストークに乗った事実も、訓練を受けた記録も、すべては歴史から抹消される。君のこれまでの輝かしい経歴は、別の平凡な事故死、あるいは不名誉な除隊記録へと差し替えられることになるだろう」


ネリュボフは、自分の心臓が凍りつく音を聞いた。

それは、死よりも残酷な条件だった。死んでもなお「英雄」として残れるのなら、彼は命など惜しくはなかった。しかし、国家が提示したのは、彼の歩んできた道、父から受け継いだ技術、ジナイダと共に築いた日常のすべてを「無」へと回帰させることだった。


「家族はどうなるのですか」

絞り出すような彼の問いに、男は無感情に答えた。


「……国家の公式記録に従うことになる。失敗すれば、彼らに残されるのは『英雄の遺族』という誇りではなく、記録を改ざんされた『不名誉な男の家族』というレッテルだ。君の存在そのものが、透明な深淵へと沈められる」


その夜、自宅に戻ったネリュボフは、ジナイダの隣で一睡もできなかった。

窓の外には、皮肉なほど美しい星空が広がっていた。数日前までは「約束された玉座」に見えたあの光が、今は自分を飲み込もうとする巨大な口のように見えた。


(僕は……偽りの罪を着せられて消えるかもしれない。そうなれば、ジナイダは一人で、その汚名を背負って生きていくことになるのか?)


想像するだけで、肺の古傷が激しく疼いた。墜落の衝撃よりも、この精神的な圧搾の方が、よほど彼を壊しそうにしていた。


翌日からの数日間、ネリュボフはかつてないほどの苦悩に沈んだ。

朝、鏡を見るたびに、そこに映る自分の顔が少しずつ透けていくような錯覚に陥った。

官舎の周りを歩けば、近所の人々が「未来の英雄」に向ける羨望の眼差しが、肌を焼く毒のように感じられた。

「ネリュボフさん、期待していますよ」「村の誇りだ」

その言葉が投げかけられるたび、彼は心の内で叫んだ。


(もし僕が失敗すれば、君たちは僕を石もて追うだろう。僕という人間など、最初からいなかったと信じ込むだろう)


彼は、父がトラクターを直していたあの夏の日の、オイルの匂いを思い出した。

「すべては繋がっている」と言った父の言葉。

もし自分が歴史から消されても、自分の放った火花は、この宇宙のどこかに残るのだろうか? それとも、観測されない事象は、最初から存在しなかったことと同じなのだろうか。


三日目の夜。夕食のボルシチは、味さえしなかった。

ジナイダは、彼の沈黙の重さに耐えかねたように、そっと彼の手を握った。


「グリゴリー、何をそんなに恐れているの? あなたはもう、死なんて怖くないはずでしょう」

彼は震える声で、国家から提示された条件をすべて打ち明けた。自分が消えること、彼女が「不名誉な男の妻」として残されるかもしれないこと。

話し終えた時、彼は彼女の顔を見ることができなかった。

しかし、返ってきたのは、静かで力強い抱擁だった。


「グリゴリー、顔を上げて」

ジナイダの瞳には、一切の迷いがなかった。

「あなたは、誰に認められるために宇宙へ行くの? 国家のため? 歴史のため? ……いいえ、違うはずよ。あなたは、あの高度二万メートルで見つけた、自分自身の『真理』に会いに行きたいのでしょう?」


彼女は彼の頬を包み込み、言い放った。

「たとえ世界中の記録からあなたの名前が消えても、私は知っている。あなたが宇宙を抱いたことを。私が覚えている限り、あなたは決してゼロにはならない。たとえ不名誉なレッテルを貼られたとしても、私は『真実のあなた』を愛し、誇り続けるわ。だから……自分を裏切らないで」


その言葉は、ネリュボフを縛っていた最後の、そして最も重い「名誉」という名の重力を断ち切った。

自分の存在が歴史に残るかどうかなど、もはや些細な問題だった。自分を知るただ一人の人間が、自分の真実を肯定してくれる。それだけで、彼は宇宙という巨大なシステムに挑む資格を得たのだ。


翌朝、ネリュボフは再びあの冷たい部屋を訪れた。

彼は迷うことなくペンを取り、自らの存在を賭けた契約書に、力強く署名した。

インクが紙に染み込んでいく。それは、グリゴリー・ネリュボフという個人の「公的な死」と、宇宙飛行士という「現象」への転生を意味していた。


「すべて、承知いたしました。私は、ただ空へ行きます」

男たちは満足げに頷いた。

その瞬間、彼のこれまでの完璧な履歴書は、国家の金庫の奥深くへと葬り去られた。

彼は今、この瞬間から、成功すれば神となり、失敗すれば塵となる、「透明な先駆者」となったのだ。

署名を終えて部屋を出た彼の背中は、以前よりもずっと軽く、そして透き通って見えた。

彼は官舎への帰り道、初めて「宇宙の側」から地球を眺める自分の姿を、確信を持って幻視していた。

読んでいただきありがとうございます。

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