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  作者: しゅう


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衛星ネリュボフ2

退院から数ヶ月が経ち、ネリュボフの生活には、かつての静謐な活気が戻っていた。

初夏の風が吹き抜ける官舎の庭で、彼はジナイダが手入れした花々を眺めながら、ゆっくりと木製のベンチに腰を下ろしていた。墜落の傷跡は、今では彼の一部となり、時折疼くその痛みさえも、彼にとっては「生還」の証、勲章のようなものだった。


その日の午後は、驚くほど平穏だった。

台所からはジナイダが夕食の準備をする軽やかなナイフの音が聞こえ、窓からは西日が黄金色の帯となって差し込んでいる。

そこへ、一台の黒いセダンが、静かに、しかし抗いがたい威厳を持って官舎の前に停まった。

ドアを叩く音は、三回。正確で、迷いのないリズムだった。


「グリゴリー、お客様よ」

ジナイダの声に促され、ネリュボフが玄関へ向かうと、そこには軍の最高幹部と思われる男たちが立っていた。彼らの胸元に輝く勲章が、夕日に反射して鋭い光を放つ。


「ネリュボフ大尉。君の回復と、これまでの卓越した飛行実績を高く評価しに来た」

男たちの言葉は、かつての「抹消」の冷たさとは正反対の、熱を帯びた「期待」に満ちていた。


「ソビエト連邦は、人類史上初となる壮大な挑戦を開始する。君は、その最前線に立つ二十人の精鋭の一人に選ばれた。これは命令ではなく、国家からの、そして科学の未来からの要請だ」

男がテーブルに広げたのは、見たこともないほど精緻な図面と、赤い革表紙の極秘ファイルだった。

そこには「ボストーク計画」という、宇宙という未知の領域を征服するための青写真が描かれていた。


「君は、地上の英雄から、星の先駆者になるのだ。成功すれば、君の名は全人類の記憶に永遠に刻まれるだろう」

ジナイダは、男たちの背後で、息を呑んでその光景を見つめていた。

不安がなかったわけではない。墜落という地獄を見た彼女にとって、夫が再び空へ、それも空のその先へ行くということは、死の影を再び招き入れることと同義だった。

しかし、ネリュボフの瞳を見た瞬間、彼女の迷いは消えた。

彼の瞳は、かつて高度二万メートルで見た、あの深淵の黒を映し出していた。それは、この小さな部屋の壁を突き抜け、すでに宇宙の果てを捉えている男の目だった。


「グリゴリー……」

彼女は一歩踏み出し、彼の肩にそっと手を置いた。

「行きなさい。あなたは、そこへ行くために生まれてきた人なのだから。私は、あなたの妻であることを誇りに思うわ」

その言葉は、ネリュボフにとって、国家の勲章よりも重く、尊い後押しとなった。

期待。誇り。約束された栄光。

彼は、家族の愛という最強の翼を授かり、一人のエリートとして、人類未踏の聖域へと足を踏み出すことを決意した。


数日後、彼はジナイダと家族の見送る中、秘密都市「星の街」へと向かう列車に乗り込んだ。

プラットホームで手を振るジナイダの姿が小さくなっていく。

彼は、窓の外に流れる大地を見つめながら、自分の肉体が「宇宙を飛ぶための精密な機械」へと昇華されていくような、心地よい緊張感に包まれていた。


星の街で彼を待っていたのは、自分と同じく、国家の期待を一身に背負った若き天才たちだった。

ユーリ・ガガーリン、ゲルマン・チトフ。

彼らと共に受ける訓練は過酷を極めたが、それは「選ばれた者だけが味わえる至福の痛み」だった。


遠心分離機でのGへの耐性訓練、真空室での孤独な瞑想、複雑極まるロケットのシステム習得。

ネリュボフは、そのすべてにおいてトップクラスの成績を収め続けた。

指導教官たちは、彼の完璧な操縦技術と沈着冷静な判断力に、惜しみない賛辞を送った。


「ネリュボフ、君が一番乗りになる可能性は極めて高い」

司令官のその言葉は、彼の中に確信をもたらした。

自分は、家族の応援を背負い、国家の象徴として、あの暗闇の中へ光を灯しに行くのだ。

この章の彼には、一抹の不安もなかった。あるのは、研ぎ澄まされた意志と、輝かしい未来への高揚感だけだった。


「星の街」での日々は、単なる肉体の訓練を超え、精神を宇宙の規格へと研ぎ澄ませる聖なる時間となっていた。

訓練施設の深部に据えられた遠心分離機は、巨大な鉄の腕を持つ怪物のように唸りを上げた。ネリュボフはその狭いカプセルの中で、自らの体重が数倍に膨れ上がる暴力的な重圧にさらされていた。肺はひしゃげ、視界の端から色が失われていく「グレイアウト」の恐怖が迫る。しかし、彼はその苦痛を、天へ昇るための「参列の儀」として静かに受け入れていた。

(耐えろ。この重みの先に、あの無重力の静寂がある)

計器を見つめる彼の瞳は一点の曇りもなく、モニター越しに見守る医師たちは、彼の驚異的な心拍の安定に驚嘆の声を上げた。


訓練の合間、彼はよくユーリ・ガガーリンと並んで、施設の近くにある白樺の林を歩いた。

「グリゴリー、君の操縦は機械よりも正確だ。時々、君が人間であることを忘れてしまいそうになるよ」

ガガーリンが人懐っこい笑顔でそう言った。彼は太陽のような明るさで周囲を照らす男だった。対照的にネリュボフは、冷静で、鋭利な刃物のような美しさを持っていた。二人はライバルであり、同時に、人類という種を代表して未知へ挑む戦友でもあった。

「ユーリ、僕はただ、自分を宇宙の一部として最適化したいだけだ。父がトラクターを直したように、僕はこの肉体を、宇宙を飛ぶための最高級の部品にしたいんだ」


宿舎に戻れば、ジナイダからの手紙が彼を待っていた。

封を切ると、かすかに故郷の乾いた風の匂いがした。

『グリゴリー、こちらは収穫の季節を迎えました。あなたがいない食卓は少し寂しいけれど、空を見上げるたびに、あなたがそこで誰よりも輝いている姿を想像して、胸を張っています。村の人たちも、あなたを英雄と呼んで、あなたの帰りを待ちわびていますよ。どうか、国家の誇りとして、そして私の自慢の夫として、無事にその役目を果たしてください』

その文字の一筆一筆に込められた彼女の期待と誇りが、ネリュボフの乾いた心に潤いを与えた。彼女の応援は、彼にとって何よりも強力な生命維持装置だった。


訓練は最終段階に入り、選考はいよいよトップ3に絞られた。ガガーリン、チトフ、そしてネリュボフ。

司令官のコロリョフは、ネリュボフの完璧な訓練記録を指で辿りながら、低く呟いた。


「技術、体力、そして精神の安定。ネリュボフ、君はボストーク1号のパイロットとして、最も完成された存在だ」


その言葉は、彼がこれまで歩んできた「純白の履歴」の頂点だった。エリートとして、一人の男として、これ以上の名誉はなかった。

ある夜、彼は完成間近のボストークロケットの機体の前に一人で立った。

巨大な銀色の円筒は、月光を反射して静かに呼吸しているように見えた。

「僕は、君に乗って行く。ジナイダの誇りを載せて、ソビエトの栄光を載せて、全人類の未来を背負って」

彼の中に、かつての墜落で見せたような焦りは微塵もなかった。

あるのは、約束された成功への確信と、自分を送り出してくれるすべての人々への感謝、そしてこれから始まる「人類最大のページ」を自分がめくるのだという、凄まじいまでの高揚感だけだった。


彼はその夜、ジナイダへ最後の手紙を書いた。

『ジナイダ、もうすぐだ。僕は約束通り、星の先駆者となって戻ってくる。君が誇れる夫として、そして歴史を塗り替える男として。僕たちの愛は、これから宇宙という永遠の中に刻まれることになるだろう。待っていてくれ、地球の誰よりも先に、宇宙の夜明けを君に届けるから』


翌朝の訓練。ネリュボフは誰よりも早く滑走路に立ち、昇りゆく朝日を真っ直ぐに見据えた。

その背中には、国家の運命と愛する人の祈りが、目に見えない翼となって、力強く羽ばたいていた。

彼にとって、宇宙はもはや「憧れの場所」ではなく、「帰るべき戦場」であり、「約束された玉座」であった。

読んでいただきありがとうございます。

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