自由落下4
タケシの、親切心を装った悪魔のような力が、僕の背中を、奈落の底へと強く押し出した。よろめきながら、僕は彼女の元へ、そしてその後ろでプロペラを唸らせている鉄の塊——セスナ機の方へと、一歩、また一歩と「地獄」への歩みを進めることになった。
その機体から漂ってくるのは、焦げたオイルと排気ガスの混じった、鼻を突くような燃料の匂いだ。僕はこの匂いを知っている。これは、日常という安定した地面から僕を引き剥がし、重力の法則を無視して鉄の塊を空へ押し上げるための、「不自然なエネルギー」の匂いだ。その死を予感させる匂いを吸い込むたびに、僕の肺は「ここにいてはいけない」と激しく拒絶反応を示した。プロペラが空気を切り裂く金属音は、僕の鼓膜を容赦なく震わせる。それは心地よい旅の始まりなどではなく、巨大なミキサーの中に放り込まれる直前の警告音にしか聞こえなかった。
「カズキくん、じっとしてて。今から私とあなたを繋ぐから」
ミサが、僕の震える体に、太く頑丈なナイロン製のハーネスを回していく。股の間を通るストラップが、容赦なく僕の体を締め付けた。それは「守られている」という安心感よりも、獲物を縛り上げる「拘束」に近い感覚だった。
彼女の指先が、僕の胸元でカラビナをカチリと鳴らす。その冷たい金属音は、僕の人生の安全装置が解除され、死のカウントダウンが始まった合図のように聞こえた。
「これで、私とあなたは一蓮托生。空の上では、私があなたの重力になるからね」
ミサが僕の背後に回り、僕の背中と彼女の胸を密着させる。彼女の体温と、背負ったパラシュートの重みがダイレクトに伝わってくる。冬のラウンジで触れたあの「熱い手」が、今は僕の全身を逃げ場のない垂直の世界へと固定していた。
春の陽だまりは、もはや温かくはなかった。
それは、獲物を逃がさないための、逃げ場のない檻の光だった。
僕の目の前で、セスナ機のハッチが、巨大な口のように開いていた。
機体の中は、驚くほど狭く、簡素だった。
普段僕たちが乗る旅客機のような、ふかふかのシートも、客室乗務員の微笑みもない。剥き出しの鉄板、むき出しのワイヤー。そこに、僕とミサは一つの塊となって座り込んだ。
エンジン音が一段と高まり、機体がガタガタと悲鳴を上げ始める。滑走路を走る振動が、僕の尻を通じて脳髄を直接叩く。
「……ミサさん、やっぱり、一階がいい。僕は一階の住人なんです……!」
叫んだつもりだったが、爆音にかき消され、自分の声すら届かない。
その瞬間、振動が消えた。
足の裏から伝わっていた「大地の拒絶」が消え、浮遊感が胃をせり上げさせる。離陸だ。
窓の外。あんなに愛していた「水平な地面」が、みるみるうちに遠ざかっていく。僕を支えてくれていたアスファルトも、錆びたフェンスも、ペンギン歩きで踏みしめた歩道も、すべてがちっぽけなジオラマへと成り下がっていく。
「見て、カズキくん。世界が広がっていくよ」
背後から、ミサの穏やかな声が耳元に届く。彼女の体温は、高度が上がるにつれて低くなる機内の空気の中で、唯一の熱源だった。
高度計の針が、狂ったように回転する。五百メートル、千メートル、二千メートル……。
僕の人生の「安全圏」だった三メートルを、すでに千倍近く超えている。酸素が薄くなり、意識が遠のく中、僕はただ「ミサという名の重力」に縋り付くことしかできなかった。
機体が高度を上げるにつれ、世界は色彩を失い、冷酷な幾何学模様へと変貌していった。
高度二千メートルを超えたあたりで、僕は窓の外を見るのをやめた。いや、やめざるを得なかったのだ。そこにあるのはもはや僕の知る「街」ではなかった。人間たちが営む喜怒哀楽は、すべてがちっぽけな色の斑点へと回収され、僕が命をかけて愛した「地表のディテール」は、無慈悲な重力に引き剥がされて消滅した。
空気が薄くなる。気圧の変化で鼓膜が内側から悲鳴を上げ、僕の生存本能が「ここは生物が立ち入るべき場所ではない」と絶え間なく脳に信号を送り続ける。
三千メートル。機内の気温は氷点下近くまで下がり、吐き出す息が白く濁る。
その白さは、僕の魂が口から漏れ出しているかのようだった。ミサに背中を預けていなければ、僕は恐怖の重圧だけで自身の形を保てなくなっていただろう。
僕が恐れていたのは、単なる「落下」ではなかった。
足元から地面の感触が消え、自分が何によって支えられているのかすら不明瞭になる「存在の不安定さ」そのものだった。
この鉄の箱の床一枚が抜けた瞬間、僕は虚空に放り出され、地球という巨大な質量に叩きつけられる。そのイメージが、冷たい汗となって背中を伝う。一階に住んでいた頃は、地球は僕を優しく抱きとめてくれる母体だった。しかし今は違う。この高さから見下ろす地球は、僕という異物を粉砕しようと待ち構える、巨大な「壁」にしか見えなかった。
四千メートル。高度計の針が、僕の人生の最終宣告を告げるように、その数字を指し示した。
「ミサさん、お願いだ……。降ろしてくれ。一階に、あの一ミリの段差もない部屋に帰してくれ……!」
泣き叫ぶ僕の耳元で、彼女はただ、僕を逃がさないように強くハーネスを引き締めた。その瞬間のカチリという音は、僕をこの世から切り離す、最後の手錠の音だった。
ミサが、僕の胸元のカラビナをもう一度強く締め直し、立ち上がった。僕の体も、彼女の動きに強制的に追従させられる。
「さあ、カズキくん。本当の自由を、一緒に見に行こう」
彼女の手が、スライド式のハッチにかけられた。
開いた瞬間、機内に流れ込んできたのは、地上には存在しない「暴風」だった。
その冷徹な空気の奔流は、僕の思考を完全に停止させた。目の前に広がるのは、もはや景色ではない。それは「深淵」そのものだった。吸い込まれるような青。丸みを帯びた地平線。そこには、僕が信じていた「平坦な美しさ」など微塵もなく、ただ圧倒的な「垂直の絶対」が横たわっていた。
ミサが、僕を抱えたまま、一歩、空の端へと踏み出した。
「嫌だ、嫌だ嫌だ!」
僕の絶叫は、風速二百キロの壁に跳ね返され、僕自身の口の中に押し戻された。
そして、最後の一線が越えられた。
墜ちた。
いや、それは「墜落」ではなかった。
最初の数秒、僕の心臓は間違いなく停止していた。上下も、左右も、自分自身の境界線すらも消失した混沌。
しかし、落下速度が一定に達したその時、僕の全身を、巨大な「手のひら」が支え始めた。
風だ。
地上では不吉な音でしかなかった風が、今は目に見えない強固な床となって、僕の全身を押し上げている。
「…………っ!」
目を開けた。
そこには、遮るもの一つない、四千メートルのパノラマが広がっていた。
怖い。死ぬほど怖い。けれど、それ以上に、今まで僕が「安全」と呼んで閉じこもっていた一階の部屋がいかに狭く、もどかしい檻だったかを思い知らされた。
ミサの腕の中で、僕は初めて、自分を縛っていた「重力」から解放されたのだ。
高度二千メートルでパラシュートが開いた。
激しい衝撃と共に、世界から音が消えた。
あとは、春の陽射しの空を、ゆっくりと、鳥のように滑空するだけだった。
吊るされた状態で、ミサが僕の顔を覗き込み、いたずらっぽく笑う。
「どう? カズキくん。空は、変態だけのものじゃなかったでしょ?」
僕は、涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔で、それでも初めて、空に向かって笑った。
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本作は、これにて終話となります。
本作は「カタカムナ第15首」からの発想で生まれました。
この首には「原子から生命体へ」や「個々、現象、自由」といった解釈がありますが、私は「自由」という言葉に触れた瞬間、頭の中で「自由落下」という囁きを聞いたような気がしたのです。
そこから、このスカイダイビングの物語が一気に膨らんでいきました。
私の風変わりな空想から始まった物語ですが、最後までお付き合いいただいた皆様に、心から感謝いたします。




