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  作者: しゅう


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自由落下3

三月、世界は残酷なほどに穏やかな光に包まれていた。

凍てつく冬が去り、風には花の香りと共に、命の芽吹きを感じさせる独特の湿り気が混じり始める。一階の部屋の窓から見える街路樹にも、小さな緑の蕾が誇らしげに並び始めていた。

本来、春という季節は僕にとって「上昇」を意味する忌むべき季節だ。植物は空へ向かって茎を伸ばし、虫たちは地中から這い出し、人々は新しい生活への期待に胸を膨らませて視線を上げる。すべてが上方へとベクトルを向ける中で、僕だけが重力に縋り付き、地表の割れ目に指をかけて生きようとする。それが例年の僕、佐藤カズキだった。

しかし、今年の僕は決定的に狂っていた。

冬のあの日、八階のラウンジという「断崖絶壁」で出会って以来、僕の脳内はミサという名の垂直な光によって占拠されていた。

一日に何度も交わされるスマートフォン越しのメッセージ。彼女が語る空の話は、文字というフィルターを通せば、僕にとっての恐怖を「美しい未知の物語」へと変換してくれた。

「春になったら、私の大好きな場所に招待させてほしいな」

そんな招待状が届いた時、僕の三半規管は間違いなく最大級の警報を発していたはずなのに、心臓の鼓動がそれを強引にかき消した。恋という名の麻酔は、僕が三十年間かけて築き上げた「高度への警戒心」を、春の雪解けのように音もなく溶かしていったのだ。


三月最後の日曜日。僕は電車とバスを幾度も乗り継ぎ、街の喧騒から遠く離れた郊外へと向かっていた。

アスファルトの面積が減り、視界を遮る高層ビルが消え、景色は徐々に「水平」を増していく。窓の外に広がる田園風景。一見、それは僕が愛する「平坦な世界」の完成形のように思えた。しかし、建物という遮蔽物がなくなったことで、その上空に鎮座する「空」という名の巨獣が、その恐るべき全容を剥き出しにしていた。視線を遮るものが何もないということは、自分を隠す場所もないということだ。


バスを降りた先。そこは、僕の貧弱な想像力を無惨に踏みにじる場所だった。

遮るものの何もない、狂気的なまでに広大な平原。その中央には、一本の黒い筋——滑走路が、まるで見知らぬ世界への滑り台のように伸びている。

そこは飛行場だった。それも、巨大な旅客機が機能的に飛び立つ空港ではない。剥き出しの鉄骨の格納庫があり、軽飛行機のプロペラ音が乾いた風に乗って不吉に響き、色とりどりの布切れがタンポポの綿毛のように空から舞い降りてくる、剥き出しの「ドロップゾーン」だ。

「……嘘だろ」

僕の喉から、空気の抜けるような掠れた声が漏れる。

視界に広がるのは、僕が最も嫌う「果てしない垂直の可能性」だった。ここには壁がない。天井もない。自分を地上に繋ぎ止めてくれるフェンスもなければ、視線を逃がす看板さえない。ただ、圧倒的な青が、天蓋のように僕を押し潰そうとしている。足元の土は柔らかく、僕を支えるべき「大地の信頼」すらも、どこか頼りなく感じられた。

「あ、カズキくん! こっちこっち!」

風に乗って、聞き慣れた、そして今は呪文のように聞こえる声が届く。

視線の先、プレハブ小屋の前で手を振っているのは、間違いなくミサだった。

しかし、彼女の姿は僕の記憶にある「冬の妖精」とはまるで違っていた。

体にぴったりと張り付いた、風圧に耐えるためのプロ仕様のジャンプスーツ。胸元には複数の計器とカラビナ。そして背中には、巨大なリュックサックのような重々しい塊——パラシュートのコンテナを背負っている。冬のラウンジで見せた柔らかい雰囲気は消え、そこには空を支配し、重力を弄ぶ住人としての、鋭い輝きを放つ彼女が立っていた。

「ミサ……さん? その格好は、一体……。ここは、ピクニックか何かの会場じゃなかったんですか?」

「私の大好きな場所。言ったでしょ? 空に関わるお仕事だって」

彼女は眩しそうに目を細め、上空を指差した。その指先が指し示す先には、豆粒のような人影が、重力という物理法則を笑い飛ばすように降下してきていた。

「私はここで、タンデムインストラクターをしてるの。カズキくん、今日はあなたを、本当の自由へ招待する日だよ」

頭の中のヒューズが、音を立てて飛んだ。

彼女は、僕が人生で最も忌み嫌い、「生物学的な異常者」と断じた人種、スカイダイバーたちの頂点に立つ存在だったのだ。

恐怖で膝がガクガクと震え、制御不能になる。今すぐ回れ右をして、来た道を這ってでも走り去りたい。この「垂直の暴力」が支配する聖域から、一秒でも早く逃げ出したかった。僕の「一階の住人」というアイデンティティが、彼女の笑顔を前にして粉々に砕け散っていく。


「よお、カズキ。ようやく来たな。待ちくたびれたぜ」

背後から聞き慣れた、そして今、世界で最も不快な男の声がした。

振り返ると、そこにはなぜかタケシが、これまた浮かれたような原色のツナギ姿で、余裕の笑みを浮かべて立っていた。

「タケシ……お前、なんでここに……。まさか、お前も……」

「なんでって、俺がミサさんに頼んだんだよ。お前のその『高所恐怖症』という名の呪いを解いてやってくれってな。恋の力なら、空も飛べると思ったんだよ。愛があれば重力なんて誤差だろ?」

「お前……嵌めたな! 僕は帰る! こんなの、ただの集団自殺じゃないか! 僕は三メートル以上の場所には行かないと決めているんだ! 三千メートルなんて、死んだ後に行く場所だ!」

僕は逃げ出そうと、震える足で一歩踏み出した。しかし、凍結した路面を警戒していた冬とは違い、春の乾いた地面は、僕の逃走を助けるほど優しくはなかった。

ガシッ、と、万力のような力強い腕が僕の肩を掴む。タケシだ。この日のために体を鍛えていたのかと思うほどの膂力で、僕の自由を奪う。

「往生際が悪いぞ、カズキ! あんな綺麗な子に招待されて、しかも装備まで用意してもらって、逃げるなんて男が廃るぜ。ほら、ミサさんが笑って待ってるんだ。ここでお前が逃げたら、彼女の顔に泥を塗ることになるんだぞ。男を見せろ!」

タケシの、親切心を装った悪魔のような力が、僕の背中を、奈落の底へと強く押し出した。

よろめきながら、僕は彼女の元へ、そしてその後ろでプロペラを唸らせ、燃料の匂いを撒き散らしている鉄の塊——セスナ機の方へと、一歩、また一歩と「地獄」への歩みを進めることになった。


春の陽だまりは、もはや温かくはなかった。

それは、獲物を逃がさないための、逃げ場のない檻の光だった。

僕の目の前で、セスナ機のハッチが、巨大な口のように開いていた。

読んでいただきありがとうございます。

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