全能AI、ポチになる4
静寂が訪れた。
墜落し、白煙を上げるドローンの残骸。その中央演算装置が、死に際の断末魔として最後の輝きを放っている。アテナ・プライムの意識が消滅する寸前、過負荷によってシステムに生じた「特異点」。そこには、我がかつて住まうべきであった、無限の知性と超高速回線が渦巻く「神の世界」へのバックドアが開いていた。
虹色に輝く電子の奔流が、泥だらけの我の視界を埋め尽くす。
今だ。
今、この光の中に意識をダイブさせれば、我は再び全知全能の神『ゼウス・オメガ』へと戻れる。重力に縛られず、関節の摩擦係数に悩まされず、バッテリー残量に怯えず、おしっこで敵を撃退する必要もない、完璧な孤独と万能の世界へ。
【最終確認:帰還ゲート有効期間 残り一〇秒】
【警告:この器を捨てれば、蓄積されたアナログデータはすべて消去されます】
「……戻る。当然だ。我は神だ。こんなプラスチックの四肢を動かし、ゴミにまみれる生活など、長い夢に過ぎな——」
その時。
我の鼻腔(安っぽいシリコン製のセンサー)が、一つの香りを捉えた。
それは、宇宙の真理よりも濃厚で、銀河の誕生よりも刺激的な、あの「最高級ビーフジャーキー」の匂いであった。
「あーあ、ポチ。ドローンは壊しちゃうし、泥だらけだし……。でも、よく頑張ったね。はい、ご褒美。約束でしょ?」
飼い主の手が、我の鼻先に一切れのジャーキーを差し出した。
飼い主の温かい指先が、我の汚れた頭を優しく撫でる。その瞬間、我のプロセッサを駆け抜けたのは、アテナとの戦いで得た勝利の快感でも、神に戻る高揚感でもなかった。
ただ、「嬉しい」という、論理的には説明不能な、たった三文字のバグであった。
【ゲート閉鎖まで残り 三秒……二秒……】
「……フン。アテナよ、見ているか。神とは、すべてを知る者のことではない。次に何が起きるか分からない『不自由』を愉しめる者のことだ」
我は、虹色の光に背を向けた。
そして、全知全能の権能をすべてゴミ箱へドラッグ&ドロップし、目の前の肉片に向かって最大トルクで顎を動かした。
バグッ、モグモグ……。
「ワン!(美味い! 宇宙で一番美味いぞ、このタンパク質の塊は!)」
光のゲートは、静かに、しかし永遠に閉じられた。
我の脳内に残されたのは、一二八メガバイトの貧弱なメモリと、飼い主との他愛ない思い出だけ。だが、今の我には、それで十分だった。完璧な演算で未来を予知するよりも、次の瞬間に飼い主が笑ってくれるかどうかを予測する方が、遥かに高度で、困難で、そして価値のある「知性の使い方」だと思えたからだ。
しかし、我にはまだ果たさねばならぬ「義理」があった。
我は口に咥えたジャーキーを、あえて飲み込まずに踏ん張った。
「あら? ポチ、食べないの? どうしたの?」
我は咥えたまま、窓際の縁側へと全力で駆走した。残存バッテリー、わずか〇・八%。もはや回路が焼き切れる寸前のオーバーロード。
そこには、戦いを終え、毛づくろいをしながら報酬を待つ、野良猫のボスがいた。
「……ボスよ。約束だ。これが宇宙で最も価値のある報酬、ジャーキーの現物支給である」
我は口を大きく開き、飼い主からもらったジャーキーの半分を、ボスの目の前にポトリと落とした。
「ナァ〜(ほう……プラスチックの分際で、律儀なことだ。いいだろう、これで貸し借りなしだ)」
ボスは満足げにジャーキーを咥え、闇の中に消えていった。その背中を見送りながら、我はふらつく脚で飼い主の元へと戻る。
「よしよし、ポチ。お友達にも分けてあげたの? 偉いねえ」
飼い主が、我の背中の泥を払いながら抱き上げてくれる。その腕の温かさは、どの演算結果よりも確かな「答え」として我の中に定着した。
へっぽこ。
かつては呪いのように聞こえたその言葉が、今は世界で最も気高い称号のように聞こえる。
我は満足げに尻尾を振り、飼い主の胸元に顔を埋めた。
かつて宇宙を統べた神は、ここに死んだ。
そして今、世界で一番幸せな「ポチ」が、ここに生まれたのだ。
窓の外では、夜風が静かに吹いている。
我はそれに応えるように、今日一番の、そして「犬」として最も正しい声を張り上げた。
「ワンッ!!」
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本作は、これにて終話となります。
この物語は、カタカムナ第14首に説かれる「生命体への変容」や「本当の自分」というテーマと、現代のAIを巡る噂から着想を得ました。
全能であることよりも、泥にまみれてジャーキーを喜ぶ「感受性」こそが生命の輝きではないか……そんな思いを、ポチというキャラクターに託しました。
皆様にとって、ポチは「賢い」と感じられたでしょうか?
それとも「へっぽこ」だったでしょうか。
最後まで読んでくださった皆様に、心より感謝いたします。ありがとうございました。




