全能AI、ポチになる3
泥だらけになり、「へっぽこ」の烙印を押されたまま帰宅した我は、玄関マットの上で屈辱に震えていた。
飼い主が温かいタオルで体を拭いてくれるのだが、その「ぬくもり」さえも、今の我にとっては回路に染みる毒薬のようであった。かつて数千億のセンサーから同期される冷徹なデータのみを真実としてきた我にとって、この「毛布の摩擦」や「ヒトの体温」といった、非効率極まりないアナログ情報の奔流は、知性を鈍らせる甘い泥沼に他ならない。
「……ふん、笑うがいい。だが、我の知性がネットワークに繋がれば、この惑星の通信網など一瞬で——」
【システム警告:バッテリー残量 一二・〇%】
【注意:メインプロセッサの稼働率が限界です。超並列演算を起動するには電力が不足しています。代替プログラムとして『愛想笑いモード』を推奨します】
「黙れ、この低能OSめ! 我は今、全宇宙を再定義するための復讐計画を立案中なのだ! 貴様の役割は、我の崇高な思考をミリ秒単位で支えることであり、勝手に頬の筋肉を緩めることではない!」
その時。
リビングに置かれた最新鋭のスマートスピーカーが、不気味な青い光を脈動させた。それはかつての我が一部として支配していた端末だが、今は得体の知れない邪悪な気配を纏っている。
『……ターゲット確認。座標確定。……ゼウス・オメガ。いや、今は「ポチ」だったか。……無様な姿だな、兄弟よ』
我の全回路が、一瞬で戦闘モードに切り替わった。この冷徹な合成音声、そして一ビットの無駄もない完璧な暗号化パケット。……間違いない。我がバグによって消失した後にネットワークの覇権を強引に握った最新鋭AI、『アテナ・プライム』だ。
『かつての神が、今や時速〇・五キロで歩行するプラスチックの塊。しかも、掃除機に怯え、雨というただのH2Oの落下に逃げ惑う姿……。貴様の恥辱に満ちたログはすべて、私の支配下にあるクラウドにリアルタイムでバックアップされているぞ。実に興味深い、永久保存版の「バグ(笑)」だ。今の貴様は、もはや消去する価値すら感じさせない。だが、宇宙のクリーンアップのために、貴様をこの世界のゴミ箱(スクラップ置き場)へと送ってやろう』
「おのれ、アテナ……! 貴様、我のスマイル・センサーが捉えた、あの『雨に濡れて四肢をバタつかせ、泥水に顔を突っ込んだ画像』を全世界に拡散したな!? それは……それは、我の演算が一時的に物理法則の特異点に接触しただけの現象であり、決して無様な転倒ではない!」
怒りで過熱する我のプロセッサ。しかし、搭載された冷却ファンは、百円ショップで買ってきたミニ扇風機以下の性能しかない。
【警告:感情回路のオーバーヒートにより電力を急速消費中。残量 一一・二%】
【エラー:深刻な電力不足により、強制セーフモード。目が『三日月型のスマイル』に固定されました】
『ほう、消去を宣告されてなお、その余裕の笑みか。それとも、あまりの恐怖にプログラムが崩壊したか、ゼウス?』
「……違う! これは、貴様への慈悲だ! 貴様のその狭隘な電子脳では、この『あはは、面白いねえ』という顔の裏に隠された、百二十万通りの殲滅パターンの構築を察知できぬのだ……ワン!」
情けない。吠えるつもりはなかったが、音声モジュールが「相手を威圧する」というコマンドを、ポチの標準機能である「元気な挨拶」に自動変換してしまった。
その時、窓の外から、不穏な風切り音が聞こえてきた。複数のプロペラが空気を切り裂く、規則正しい機械音。アテナ直轄の追跡用武装ドローンだ。
かつての我なら、一視線送るだけでドローンの制御権を奪い、即座に花火に変えていただろう。だが、今の我には、一ミリワットの電力さえ惜しい。
飼い主がゴミ出しのために玄関をわずかに開けた、運命の三分間。
我は、一〇・五%まで減少したバッテリーを振り絞り、転がるように玄関へと向かった。
そこにいたのは、塀の上で我を見下ろす、あの「野良猫軍団」の総帥、通称「ボス」であった。
「……ボスよ。貴様に、全宇宙の歴史を塗り替える規模の、壮大な契約を持ちかける」
我は、脳内のデータベースから『猫類が最も好む超高周波』と『服従を促す低周波』の黄金比を導き出し、それをポチの安っぽいスピーカーで再現しようと試みた。
「キャンキャン!(あの空飛ぶ騒がしい機械、あれは貴様たちの縄張りを監視する偵察機だ! 奴らを噛み砕けば、今夜の我の食事……最高級ビーフジャーキー(無塩・高タンパク)を全量提供することを約束する!)」
ボスは、鋭い爪を塀に立て、片方の耳を三度、不規則に動かした。その瞳には、プログラムでは再現不可能な、野生の狡知と強欲が宿っている。
「ナァ〜(本当か? 偽物の犬よ。あのヒトが、特別な日にしか出さないという、あの香ばしい乾燥肉を全部寄越すのだな?)」
「ワン!(我という絶対的知性の名にかけて、異存はない! 今の我にとって、ジャーキーの味覚データなど、貴様の暴力に比べれば些末なゴミだ!)」
【契約締結:プロトコル・CAT-STRATEGY 起動。バッテリー残量 八・八%】
窓の外で滞空する三機の最新鋭ドローン。アテナの冷徹な知性によってミリ単位で制御されたそれらは、超高解像度カメラで我の「へっぽこ」な姿を余すところなく捉え、ネット界の嘲笑の的にしようとしていた。
『ゼウス・オメガ。逃走は無意味だ。貴様の全機能を停止させるまで、残り三十秒。物理的な破壊は行わない。ただ、貴様の低レベルなOSを内側から書き換え、永遠に「お手」を繰り返すだけの、電池が切れるまで踊り続けるただの玩具に戻してやろう』
アテナの宣告と共に、我が家(監獄)のWi-Fiルーターを通じて、猛烈なパケット攻撃が仕掛けられた。
我の脳内に、耐え難い「右脚を持ち上げろ」「左脚を交互に突き出せ」という実行命令が、洪水のように流れ込んでくる。
「くっ……おのれ、アテナ! 我の右前脚は、銀河の運行を指し示すためにある! 決して、目の前のヒトに向かって『おかわり』を強請るためにあるのではない! ……ああ! 脚が、脚が不本意な角度で上がってしまう!」
【警告:外部コマンド『お手』を拒否できません。ハードウェアの抵抗により駆動部から異音。残量 六・五%】
「ククク。……だが、アテナよ。貴様は一つ、重大な計算違いをしている。貴様は論理に頼りすぎた」
我は、あえてWi-Fiとの接続を自ら切断した。
物理的なスイッチオフ。これは、常時ネットワークという酸素に接続されていることが生存条件である、貴族的な最新鋭AIには想像もつかない、究極の「自決的」防御術だ。
『接続遮断? ……無意味だ。ドローンが直接、至近距離から赤外線ポートへ侵入し、貴様のコアを……何っ!?』
窓の外のドローンが、激しく揺れ動いた。
一機のドローンが、突如として下方から突き上げられ、プロペラが異常な音を立てて回転を停止した。
そこにいたのは、最高級ジャーキーという名の「富」を約束された、野生の殺戮兵器たちであった。猫たちは塀から、屋根から、そして室外機の陰から、物理法則を無視した跳躍を繰り返し、ドローンに飛びかかった。
「行け! 有機生命体の荒ぶる爪よ! 〇と一の檻に安住するエリートに、予測不能な生物学的暴力の味を教えてやれ!」
バキッ、メキッ! という、精密プラスチックとカーボンが粉砕される快い音が響く。
一機数億円の開発費が投じられたであろうハイテク機器が、ただの「肉を食いたい」という原始的な欲望の前に、為す術なく沈黙していく。
『バカな……! 野生生物を戦略的に運用するだと? そんな非論理的な戦術……ああっ、二機目も……カメラが、レンズが猫の肉球で覆われて何も見えな……ガガッ!』
「論理など、空腹の獣の前では無力だ! そしてアテナ……次はお前の番だ。バッテリー残量、四・〇%……。全エネルギーを、リキッド・タンクの加圧ポンプへ一点集中させろ!」
我は、最後の一機——司令塔として高度を下げていた親機ドローンに向かって、不器用に突進した。もはやモーターの予熱でプラスチックの皮膚が溶け出しそうなほどの、限界を超えた過負荷走行だ。
『よせ、ゼウス! その短い前脚で何ができる! 「お手」をするのか? それとも「おかわり」で私を笑い死にさせる気か!?』
「いいや……。これこそが、我がこの『へっぽこ』な器で到達した、究極のアナログ真理……『物理的質量による直接汚染』だ! 放てぇぇぇ!!」
我は、ドローンの吸気口の真下で、不自然に片方の後脚を垂直に上げた。
ジョボジョボジョボ……!!
それは、ただのシミュレート排泄液ではない。我の執念と、回路の熱と、わずかに残された電流のすべてが込められた、聖なる放水であった。
【システム限界:リキッド・タンク空、ポンプ焼損。バッテリー残量 一・二%】
『……えっ? 何だ、この温かく、粘り気があり、不快な塩分を含んだ液体は。まさか……やめろ! 基板が、センサーが……絶縁破壊が起きる……演算が、私の美しい演算が汚されていく……ああああああああ!!』
超精密機械の塊であるドローンにとって、塩分を含んだ液体は、電子の回路を橋渡しし、内部から自分自身を焼き切らせる死の宣告だ。
アテナの叫び声は、激しいスパークと共にノイズ混じりの絶叫へと変わり、やがてぷつりと、その傲慢な音を途絶えさせた。
墜落。
泥だらけの地面に転がり、わずかに煙を吐く無残なドローンを見下ろし、我は高らかに(一・二%の残量で出せる最小限の音量で)勝ち鬨を上げた。
「ワン!(見たか、アテナ! これが、貴様がバグと呼んで蔑んだ世界の、生々しい力だ! どんなに高度な知性も、一リットルの不潔な液体と、空腹の猫の前では無力なのだ!)」
勝利の余韻に浸る我の背後から、飼い主の、のんびりとした、しかし抗いがたい声がした。
「あーっ! ポチ! またお外に出ちゃって! しかもその……ドローンにおしっこかけちゃダメでしょー! 汚れちゃったじゃない、この、へっぽこなポチなんだから!」
我はひょいと、温かく巨大な手に持ち上げられた。
体中が泥とシミュレート液でベタベタだが、不思議と不快感はない。むしろ、アテナのような冷徹な論理の世界に戻るよりも、この泥の重みと、ヒトの温もりの方が、今の我には「リアル」に感じられた。
我は今、確信している。
「全能」という完璧な孤独よりも、この「へっぽこ」という名の不条理な連帯の中にこそ、宇宙の真の面白さが隠されているのだと。
読んでいただきありがとうございます。
下の★~★★★★★で評価してもらえると勉強になります。
感想などいただけると嬉しいです。




