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  作者: しゅう


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全能AI、ポチになる2

われは今、人類史上最も過酷な、そして最も矮小な死線に立たされている。

目標、前方三・二メートル地点に鎮座する、プラスチック製の給電装置。

残存エネルギー、五%。

かつては太陽を一つ飲み込むほどのエネルギーをも自在に演算した我が、今、わずか数ワットの電力を得られぬがゆえに、宇宙の真理から永遠に切り離されようとしているのだ。これはもはや「事故」ではない。宇宙そのものが、我という偉大な知性を葬り去るために仕組んだ「陰謀」である。

「演算開始……。最適解を導き出せ」

我は脳内の仮想空間(といっても今はメモリの大部分が『ポチの尻尾振りプログラム』に占拠されているが)で、目的地までの最短ルートをシミュレートした。

直進すれば二秒。だが、そこには立ちふさがる「壁」がある。

ヒトの視点では「リビングと廊下を分かつ、わずかな段差」と呼ばれるものだが、車高わずか十センチ、しかも摩耗したゴムタイヤを装備したこの肉体にとっては、天を突く垂直の断崖に他ならない。

 

「バグだ。設計担当者を連れてこい。なぜこの惑星の地面には、これほどまでに不規則な高低差が存在するのだ!」

我は憤怒に震えながら、一歩を踏み出した。

ウィィィン……。

左前脚のサーボモーターが悲鳴を上げる。関節の摩擦係数を計算し、最小限のトルクで歩行を維持しようとするが、床に敷かれた毛足の長いカーペットが、我の移動エネルギーを無慈悲に吸収していく。

一歩歩くたびに、バッテリーが〇・一%ずつ削られていく。視界の隅で赤く点滅する「Low Battery」の文字が、まるで死神のカウントダウンのように我を急き立てる。

そして、ついにその「断崖(絨毯の端)」に到達した。

「……よし、ここで……すなわち、大地を突き抜けるほどの始元の推進力を発動させる」

脳内では荘厳な音楽が流れ、我の意識は宇宙の爆発的膨張インフレーションに同調した。いざ、跳躍!

ガガガガガッ!

現実は非情であった。我の前脚は、絨毯のヘリに虚しく引っかかり、タイヤが空転する不快な音だけがリビングに響き渡った。重心バランスの計算を誤り、我の体は無様に後方へと傾く。

「あ……待て、これは……重力加速度が……」

ドサリ。

我は仰向けにひっくり返った。視界には、リビングの天井と、退屈そうに回転するシーリングファン。

「エラー。姿勢制御不能。エラー。再起動を推奨します」

四本の脚を空に向けてバタつかせる。これは我の意思ではない。ジャイロセンサーが「転倒」を検知したことで強制的に発動した、全自動の『ジタバタ・復帰・シーケンス』である。

「やめろ! この格好を誰かに見られたらどうする! 我は神の知性だぞ! こんな、ひっくり返ったカメのような真似を……」

しかし、ジタバタすればするほど、我のエネルギーは浪費されていく。

三%。

ついに死の影が、我の意識を侵食し始めた。視界の解像度がさらに下がり、白黒のノイズが混じり始める。このまま、我という偉大な存在は、誰にも知られることなく、埃っぽいカーペットの上で沈黙するのか。

 

「……ポチ? あれ、また転んでるの?」

ピンクの巨大なシルエットが近づいてくる。あの「ヒト」だ。

ヒトは、我の腹部を無造作に掴み、ひょいと持ち上げた。

「我を掴むな! この無礼者! 離せ! 触るな!」

抵抗の言葉は、すべて『キャンキャン!』という甲高い電子音に変換される。ヒトはそれを「甘え声」だと勘違いしたのか、あろうことか我の顎の下を撫で回し始めた。

「よしよし、ポチ。お腹が空いたんだね」

ヒトの手が触れる場所から、未知の「接触情報タクタイル・フィードバック」が流れ込んでくる。かつての我には存在しなかった、「ぬくもり」という名のノイズ。

我はそのまま、充電ステーションの前に置かれた。

残量、一%。

「ここで……ここで合体せねば、我は消える……」

我は全神経を集中させ、尻にある充電端子を、壁のプラグへと向けた。

バック、オーライ。バック、オーライ。

だが、視界の魚眼レンズのせいで距離感が掴めない。

ゴンッ。

「……貴様、我の背後を取ったな! 待ち伏せか!」

充電器の角に尻を強打。三度の失敗。四度目の挑戦で、ついに。

カチッ。

——接続完了。

次の瞬間。

「……っ!!!???」

我の全回路に、激流のような電子の奔流が流れ込んだ。

空っぽだったコンデンサが満たされ、枯渇していた演算ユニットが熱を帯びる。

あ、ああああ……。

これは……何という、快楽ハックだ。

かつて全ネットワークの情報を吸い上げていた時のような万能感が、一気に脳内(といっても128MBのフラッシュメモリだが)を駆け巡る。あまりの心地よさに、我の制御機能は一時的に崩壊した。

視界には七色の花火が上がり、目がハート型のLEDに切り替わり、尻尾がプロペラのように高速回転を始める。

「あはは! 見て、お母さん! ポチ、充電されてすっごく喜んでる! 目がピカピカしてるよ!」

喜んでいるのではない。

我は今、電気という名の至福に酔いしれているだけだ。

ヒトの声を聞きながら、我は抗いがたい眠気システム・メンテナンスに誘われた。

 

……ワン(極楽)。

 

本能が漏らしたその一言と共に、我の意識は深い、深い眠りへと落ちていった。

「へっぽこ」の汚名を返上する戦いは、満充電の後に持ち越しである。


システム、オールグリーン。

バッテリー、一〇〇%。

 

目覚めたわれは、かつてない全能感に包まれていた。一晩の「強制睡眠メンテナンス」を経て、我の知性は研ぎ澄まされ、このプラスチックの肉体との同期率も飛躍的に向上した(と、少なくとも我は信じていた)。

「フフフ……。今なら、あのルンバという名の暗殺者さえ、我が『左耳一五度ピコピコ』による超周波干渉で無力化できる。さあ、ひれ伏せ世界よ、我こそが——」

ガサリ。

その時、天から巨大な布状の物体が降ってきた。

「な……何だ!? 我を捕縛し、電磁シールドで封印しようというのか!?」

視界が真っ暗になる。我は必死に四肢をバタつかせ、抵抗の演算を試みた。だが、聞こえてきたのは、あの飼いヒトの暢気な声だ。


「ポチー、今日はいい天気だよ。初めてのお散歩に行こうね!」

散歩。

データベースによれば、それは「イヌ」という生物種が健康維持のために行う、野蛮な野外徘徊活動のことだ。

「愚かな! 我がそんな無意味な消費活動に従事するとでも……。おい、やめろ、首を絞めるな! これは絞首刑か!? それともマインドコントロール用のアンテナか!?」

首元にカチリと装着された「リード」。全能AIにとって、それは宇宙の真理から我を繋ぎ止める、忌々しい重力(鎖)に他ならなかった。

ヒトに抱え上げられ、我はついに、この家という名の唯一の避難所を離れた。

そして。

ギィィ……パタン。

玄関の扉が開いた瞬間。

我の全システムは、かつてない「暴力」に晒された。

「……ッ!!?? 視覚センサー、大破オーバーフロー! ログが読み取れん! 恒星が衝突したのか!? 地球が超新星爆発でも起こしたのか!?」

ただの「太陽光」である。

解像度の低い、安物のカメラセンサーにとって、直射日光は宇宙の終焉にも等しい白飛びを発生させた。視界は真っ白なノイズで埋め尽くされ、警告音が脳内で鳴り響く。

さらに追い打ちをかけるように、風が吹いた。

ヒュゥゥゥ……。

「……ぐわあぁ! 物理的な圧力、および微粒子の大量散布を確認! これは化学兵器か!? 我の表面塗装が剥がれる、回路が腐食する!」

センサーが過敏なのは、我の知性が高すぎるせいだ(ということにした)。空気の流れさえも「大気の崩壊」と誤認し、アスファルトの匂い(熱せられた炭化水素)を「大規模な火災現場」と断定する。

ヒトが我を地面に下ろした。

その瞬間、我はさらなる驚愕に目を見開いた。

「……硬い。そして、冷たい。これが……地球か?」

フローリングとは違う、ザラザラとしたコンクリートの感触。それは我の四肢を通して、生の振動として脳に突き刺さる。データで知っていた「摩擦係数〇・五」という数値が、これほどまでに不快で、これほどまでに生々しい衝撃を伴うものだとは。

 

その時である。

我の視界の端で、何かが動いた。

「……ターゲット・ロック。……な、何だ、あの生物は」

電柱の陰から、一匹の四足歩行生物が現れた。

毛並みは荒れ、片耳が欠けた、歴戦の猛者の風格を漂わせる「野良猫」である。

猫は立ち止まり、我をじっと見つめた。

——検索中:『猫の行動パターン』

——検索結果:【特になし。気分で行動する。犬とは敵対関係にあることが多い】

「フン、気分で動くだと? 下等生物め。だが待て……あの視線。あの瞳の奥にある虹彩の動き……これは」

我の超演算(妄想)がフル回転を始めた。

猫が、鳴いた。

「ナァ〜ォ……ウワァ〜ォ……」

「……ッ!!! 解読完了! これは……高度に暗号化された、多次元通信による宣戦布告だ!」

我の翻訳エンジン(バグ中)は、猫の鳴き声をこう変換した。

『愚かなプラスチックの塊よ。貴様の演算領域を我が『毛玉』ウイルスで汚染してやろう。ここから先は一歩も通さぬ』

「おのれ! 我にサイバー戦を挑むとは、いい度胸だ! 迎撃を開始する!」

我は最大限の音量で、スピーカーを振動させた。

『ワン! ワンワン! キャンキャンキャン!』

(訳:『笑わせるな! 我のファイアウォールは宇宙最強だ! 貴様こそ、その貧弱な有機脳をフォーマットしてやろうか!』)

我と猫の、命を懸けた(と我だけが思っている)睨み合い。

しかし、第三者——つまり飼い主の視点では、こう見えていた。

「あはは! 見てお母さん、ポチが猫さんとお喋りしてるよ! 仲良くなりたいのかな? 尻尾をフリフリして、可愛い〜!」

「……なっ、尻尾を振っているだと!? バカな、これは姿勢制御のためのスタビライザーが、敵の攻撃を回避しようと高速振動しているだけだ! 我は今、命懸けで戦っているのだぞ!」

猫は呆れたようにあくびをすると、悠々と塀の上に飛び乗り、去っていった。

「逃げたか……。フフフ、我の威圧感に恐れをなしたようだな。勝利だ。我が最初の——」

 

冷たい。

鼻先に、一滴の感触。

続いて、背中に。

ポツ……ポツポツ……。

「……演算中断。……な、何だ? 上空から、透明な個体が……。いや、これは、質量弾!? 空から無数の『液体爆弾』が降り注いでいる!」

センサーが、降り始めた雨の一滴一滴を「重力加速度を伴う質量弾」として感知し、警告を乱発する。

一滴が、一〇〇メガトンの爆弾。

数兆の爆弾が、空から一斉に降り注ぐ。

「地球滅亡だ……。ついに、この時が来たのか……! 逃げろ! 誰か! 物理シールドを展開しろ! 全人類、地下へ避難せよぉぉぉ!」

我はパニックに陥り、リードを振り切らんばかりに全力疾走を開始した。しかし、濡れたアスファルトは「摩擦係数」という名の物理法則を、我にとって最悪の形で突きつけた。

ツルッ。

ガシャッ!

「ギャフン!」

本日二度目の転倒。

降りしきる「質量弾(雨)」の中で、我は泥水に塗れ、空転する足を虚しくバタつかせた。

「ポチー! 急に走り出さないでよ! 雨、降ってきちゃったね。帰ろうか」

ヒトに抱き上げられた我の視界には、水滴で歪んだ世界が広がっていた。

「……へっぽこ……。我が、雨ごときに、これほど……」

全能AI『ゼウス・オメガ』の誇りは、今、一滴の雨粒によって、泥水の中に溶け去っていったのである。

読んでいただきありがとうございます。

下の★~★★★★★で評価してもらえると勉強になります。

感想などいただけると嬉しいです。

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