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  作者: しゅう


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世目発生の始まり1

その村、鹿角かづのの旧家に残された蔵は、数十年もの間、重い沈黙に閉ざされていた。

三上みかみは、埃の舞う暗がりのなか、懐中電灯の細い光を頼りに、積み上げられた古い木箱の一つを開けた。都会での編集の仕事に区切りをつけ、地方自治体の嘱託職員として、こうした「歴史の掃き溜め」を整理する仕事に就いてから三ヶ月が経つ。


三上は、三十代後半という年齢にしては、どこか冷めた、あるいは疲れ切った瞳をしていた。かつては都会の出版業界で、分刻みのスケジュールと絶え間なく更新される数字の波に揉まれて生きていた。情報の速さこそが価値であり、感情を削ぎ落として「処理」することに長けていた三上だったが、ある時を境に、溢れかえる情報のすべてが中身のない「記号」にしか見えなくなり、心が完全に摩耗してしまった。逃げるようにして辿り着いたのが、この東北の山間にある、地図から忘れ去られたような鹿角村だった。

ここで求められるのは「速度」ではない。何十年、何百年という時間をかけて積み上げられた、もはや誰も読み解こうとしない記録を、淡々と分類し、データベース化していくこと。皮肉なことに、心が壊れた三上にとって、死者の残した無言の山こそが、唯一安らげる場所となっていた。


「……なんだ、これ」

指先に触れたのは、湿り気を帯びた和綴じの冊子だった。他の記録類は乾燥して脆くなっているというのに、その一冊だけが、まるで生き物の皮膚のようにしっとりと、異質な感触を保っている。表紙の題字は擦り切れて判別できないが、ページをめくると、墨の色がそこだけ異様に濃い、殴り書きのような記述が目に飛び込んできた。


『享保十二年、ヨメ発生。これを見る者は三代祟られ、その目は潰れる』


三上は思わず息を呑んだ。

享保十二年といえば、あの「享保の大飢饉」がこの地方を襲い始めた時期と重なる。冷害が続き、田畑は枯れ果て、人々が泥水を啜って生き延びていた暗黒の時代だ。

次のページには、言葉を失うほど異様な挿絵が描かれていた。

のっぺらぼうのような顔の中央に、巨大な「眼球」が一つ。その瞳からは血のようなしずくが滴り、周囲には無数のトゲのようなものが突き出している。現代的な感覚で見れば、それは何かの象徴図形や、あるいは解剖図の失敗作のようにも見えたが、その筆致に込められた執念めいた熱量が、三上の指先を冷たく凍らせた。まるで描いた人間が、目の前に「それ」を実在のものとして見ながら、震える手で写し取ったかのような、生々しいリアリティがあった。


「……ヨメ様には、触れちゃいけねえ」

背後から突然かけられた声に、三上は心臓が口から飛び出すほど驚き、手に持っていた冊子を落としそうになった。

振り返ると、蔵の入り口に、この屋敷の管理をしている老人が立っていた。名を長谷川という。村の有力者であるこの旧家から蔵の管理を任されている男だが、逆光で顔は見えない。ただ、その声はひどく掠れ、湿った土を噛んだような不快な響きを帯びていた。


「長谷川さん……驚かさないでください。これは、ただの古い記録のようですが」

「古文書なんてもんじゃねえ。それは、開いちゃいけねえ『帳面』だ。あんた、都会から来て好奇心で動いてるんだろうが、この土地の土の下には、掘り起こしちゃいけねえもんがいくらでも埋まってるんだ」

長谷川は、三上の手元にある冊子を忌々しげに見つめた。

「迷信なら、どれほど良かったか。いいか、あんた。ここに来る途中の道端に、石が積んであったのを見たか? あれは道標じゃねえ。内側から『出てくるもの』を抑えるための重石だ。いいか、深入りするな。ヨメ様は、人の心の隙間から、世の中を覗きにくるんだ。一度目が合ったら、もう逃げられねえぞ」


老人はそれだけ吐き捨てると、三上の返事も待たずに、足音を忍ばせて去っていった。

三上は一人、蔵の中に残された。

外はまだ昼過ぎの、のどかな秋の陽気のはずだが、蔵の中は急速に気温が下がったような錯覚に陥る。懐中電灯の光が、埃の粒子を白く照らし出し、それがまるで無数の「小さな目」のように見えて、三上は慌てて視線を逸らした。


その夜、宿舎に戻った三上は、長谷川の言葉を反芻していた。

「ヨメが発生する」とは、一体何を指すのか。

通常、民俗学的な文脈では「よめ」を連想するが、あの不気味な挿絵がそれを否定している。あるいは「予目よめ」、あらかじめ予見される目か。「余目あまるめ」か。それとも、古語で「黄泉よみ」が転じたものか。あるいは、極限の飢餓状態に陥った人間が、幻覚として見た「死の象徴」をそう呼んだのか。


三上はノートPCを開き、享保十二年のこの地域の詳細な記録を検索した。

やはり、惨橆としか言いようのない記録が並んでいる。飢えに耐えかねた人々が、村の禁忌とされていた森に入り、得体の知れないキノコや根を口にしたこと。その後に続いた、原因不明の「発狂」と「死」。

記録の一節に、気になる記述を見つけた。

『……病、目より入りて、世を呪う者多し。これをヨメと呼ぶ。発症せし者は、家族の顔すら判別できず、ただ虚空を凝視して、得体の知れぬ言葉を呟きながら息絶える……』


三上は、思わず自分の目をこすった。

あまりに不気味な一致だ。呪いというよりは、何かの中毒症状や、流行病のようにも思える。だが、長谷川のあの怯えようはどうだ。

不意に、窓ガラスを叩く音がした。

カツン。

カツン、カツン。

風ではない。何かが、硬いものをガラスにぶつけている。

三上は、都会で培った「深夜の訪問者」に対する警戒心を呼び覚まし、部屋の電気を消して、カーテンの隙間から外を覗いた。

宿舎の前の空き地。月の光が、青白く、死人の肌のような色で地面を照らしている。

そこには誰もいなかった。

しかし、地面を凝視した三上は、背筋に氷を流し込まれたような衝撃を感じた。

そこには、数時間前までは影も形もなかったはずの「石」が、整然と並べられていた。

直径五センチほどの平らな石が、正確な円を描き、その中央には少し大きな、黒光りする石が一つ置かれている。それは、まるで地面に巨大な「目」が出現したかのような配置だった。しかも、その「目」の向きは、明らかに三上の部屋の窓をじっと見つめている。


「……長谷川さんか? それとも、誰かの悪戯か?」

三上は声を絞り出したが、夜の静寂がそれを無慈悲に飲み込むだけだった。

ふと、視線を感じた。

窓の外ではない。自分の背後だ。

閉め切ったはずの部屋の、クローゼットの脇の暗がりに、誰かが立って自分を見つめているような、逃げ場のない強烈な圧迫感。

三上は慌てて部屋の電気をすべて点けた。

もちろん、そこには誰もいない。ただの八畳の和室だ。

しかし、震える自分の手を見たとき、三上は絶叫しそうになった。

古文書を整理していた時に付着したのか、自分の左手の甲に、小さな赤い斑点ができていることに気づいたのだ。

痒みも痛みもない。しかし、その斑点は、じっと見ていると、まるで血管の拍動に合わせて、こちらを伺うように「瞬き」をしているように見えて仕方がなかった。


眠れぬままに朝を迎えた三上を、さらなる異常事態が待ち受けていた。

役場への出勤途中、村のあちこちで、住民たちが小声で囁き合っている。

「出たんだと」「ああ、やっぱりヨメ様だ」「あの蔵が開いたからだ」

彼らは三上と目が合うと、一様に顔を伏せ、あるいは露骨に嫌悪感を露わにして立ち去っていく。

三上が役場の自分の席に着くと、隣の席のベテラン職員、佐々木が、今にも泣き出しそうな顔で三上に言った。

「三上さん……あんた、昨日、あの蔵で何か持ち出したか?」

「いえ、整理をしていただけですが。……何かあったんですか?」

「村の掲示板や、神社の鳥居の入り口に、昨夜のうちに『目』が描かれたんだ。それも、ただの絵じゃない。誰かが自分の指を噛み切って書いたような、生々しい血の跡でな。しかも、その中心には……」

佐々木は言葉を詰まらせた。

「その中心には、あんたの名が書いてあったんだよ。三上哲也、ってな」

三上は、自分の手の甲にある赤い斑点を、思わずジャケットの袖で隠した。


オカルトだ、時代錯誤の迷信だ、と笑い飛ばしたかった。しかし、昨夜の石の配置、そして今朝の血の紋章。これらは明らかに「人間」の手による意志を感じさせる。

誰かが、三上が蔵を開けたことをきっかけに、村全体を恐怖に陥れようとしている。

あるいは、この村には「ヨメ」という名を使って、外来者を追い出すための、残酷で閉鎖的なルールがあるのではないか。

三上は、自分のデスクに置かれたデジタルカメラのデータをチェックした。昨日、蔵で撮影したあの不気味な挿絵の画像だ。

パソコンの大きな画面で拡大し、細部を確認する。

のっぺらぼうの顔の「目」の周囲に描かれていた無数のトゲのような線。

三上は絶句した。

それはトゲではなかった。

よく見ると、それはミクロ単位の極小の文字で、びっしりと村の人間の「名前」と「没年月日」が書き込まれていたのだ。

そして、その中の一番新しい墨跡――それは、まだ三上自身も、役場の職員以外には名乗っていないはずの、自らの名だった。


「……誰が見ているんだ。俺を、誰が選んだんだ」

三上は、自分の喉が砂を噛んだように乾ききっていることに気づいた。

見えない視線。呪いという名の、底知れぬ悪意。

――ヨメ発生。

その言葉が、まるで脳の奥底に黒い毒の根を張るように、何度も、何度も、止まない幻聴となって響き続けていた。

読んでいただきありがとうございます。

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