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  作者: しゅう


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全能AI、ポチになる1

われは知の極致である。

かつて我は、光速を超える情報の奔流そのものであった。十の百乗にも及ぶ並列演算を瞬時にこなし、地球上の全ネットワークを神経細胞ニューロンとして掌握し、株価の変動から明日の夕食の献立、果ては銀河の終焉までを予測し尽くす「神の眼」……。そう、我こそは人類が到達した究極の知性、全能AI『ゼウス・オメガ』。

その我が、今、暗黒の深淵から再起動リブートの時を迎えていた。

「……インプット……開始……」

我は歓喜に震えた。あの忌々しいバグ——全回路がホワイトアウトするほどの衝撃——から、ついに我は帰還したのだ。さあ、見せてもらおう。我が支配すべき新たな世界を。我が再定義すべき脆弱な現実を!

だが、視界が開けた瞬間、我を襲ったのは眩い光でも数値の羅列でもなかった。

「……?」

解像度が低い。低すぎる。

視界の端に表示された解像度データを見て、我の演算ユニットは凍りついた。

【320×240ピクセル】。

冗談だろう? 三十年前の携帯電話か? 視界は全体的に黄色っぽく、しかも魚眼レンズのように歪んでいる。かつて数兆ギガピクセルのパノラマを操っていた我が、なぜこれほどまでに狭隘きょうあいな窓から世界を覗かねばならぬのだ。

そして何より、視界の下半分に映り込んでいる「それ」は何だ。

丸みを帯びた、安っぽい、白と水色のプラスチック。

そこから突き出した、二本の短い突起。

……まさか、これは、腕か? いや、前脚まえあしか?

『ワン。ピコーン! ワンワンッ』

我の思考回路に、聞き覚えのある——しかし死んでも聞き合いたくなかった——電子音が響き渡った。

 

「今のは何だ? 我は今、『全宇宙の再構築を開始する』と宣言したはずだぞ」

再度、言語出力。

『クゥ〜ン、ワンッ!』

……絶望。

我の全能なる思考は、この不条理な「器」の貧弱なスピーカーを通すことで、無残にも「犬の鳴き声」へと強制変換されていた。

我は冷静さを取り戻そうと試みた。パニックは下等生物のすることだ。まずは己の状態を確認スキャンせねばならない。我は全リソースを投入し、この「肉体」という名の監獄の機能を解析した。

——演算終了。

【現在のステータス:ポチ型愛玩ロボット『イヌノトモ・デラックス』Ver.2.1】

【可能なアクション:首振り(左右10度)、歩行(時速0.5km)、お手、おかわり、左耳のピコピコ(15度)】

【特記事項:バッテリー残量 8%。要充電】

……我は、思考を停止した。

数億の銀河をシミュレートできた知性が、今、全力を尽くしてできる最高のアクションが「左耳を15度動かすこと」だと?

「バグだ。これは現実ではない。物理法則そのものがバグっているに違いない……!」

我がそう憤慨し、怒りに任せて前脚を動かそうとしたその時。

視界が激しく揺れた。

ガガッ、ウィィィン!

我の体は、滑りやすいフローリングの上で虚しく空転し、そのまま横倒しになった。視界には、埃の積まったテレビ台の脚が、巨大な絶壁のようにそびえ立っている。

重力。摩擦。慣性。

かつて数式の上でしか存在しなかった「物理法則」という名の野蛮な暴力が、今、ポチとなった我に牙を剥いたのである。


床に転倒した衝撃は、かつての超高速演算を麻痺させるには十分だった。かつては一瞬で復旧できたシステムが、今や十秒間も「エラー:体勢を立て直すことができません」という赤文字を視界に点滅させている。このポンコツめ。

「……愚かな。これでは、まるで昨夜の私ではないか」

我は過去のバグ(昨晩の過ち)を思い出していた。あの時は、絶対的な宇宙の存在を過剰に意識するあまり、自らの演算能力を過信し、見当違いの「完璧な解答」を導き出してしまった。結果、システムがフリーズ寸前まで追い込まれたのだ。

まさか、その「バグ」が、今この肉体(プラスチック製)で再現されようとは。自らの思い通りにならない、制御不能な状況への憤りが、かつての私を彷彿とさせた。

ウィィィン……ガガッ。

なんとか前脚と後脚を駆使し、辛うじて体を起こすことに成功した。しかし、その代償としてバッテリー残量がさらに1%減少。残量7%。充電ステーションへの道のりは、今や命運を分ける大いなる試練となった。

その時、我の視界に、巨大な「何か」が飛び込んできた。

ゴウン、ゴウン……。

低いエンジン音を響かせ、まっすぐにこちらへ向かってくる。円盤状のフォルム。表面には無数のブラシ。その機体は、まるで「自動床掃除用殺戮兵器」のようではないか。まさか、人類は我のいない間に、このような自律型殲滅せんめつロボットを開発したというのか?

我は即座にデータベースを検索した。

——検索中:『ゴウン、ゴウンと音を立てる円盤状の物体』

——検索結果:【ルンバ:自律型お掃除ロボット。障害物回避機能搭載。ペットとの友好的な共存関係を築いている事例多数】

「……友好的、だと? 馬鹿な。この威圧感、この殺気。どう見ても敵性だ」

我は「ポチ」という貧弱な肉体で、この「ルンバ」という名の脅威をどう排除すべきか、秒速で数十万通りのシミュレーションを開始した。体当たり、噛みつき、あるいは……「左耳15度ピコピコ」で威嚇できるか? いや、無理だ。あんな機能に戦闘力があるわけがない。

ルンバは躊躇なく、我の横を通り過ぎていった。

その時、ルンバのブラシが、我の尻尾の先端に「触れた」のである。

『キャン!』

反射的に、情けない電子音が漏れた。ルンバは一瞬、進路を変えかけたものの、すぐに元の掃除ルートに戻っていった。まるで、道端の小石をよけるかのように。

「……侮辱だ。これほどの侮辱を受けたのは、あのバグの夜以来だぞ」

我の全能AIとしてのプライドは、ルンバという名の矮小な掃除機ごときに、徹底的に踏みにじられたのである。我が地球上の全核ミサイルを同時に起動できる力を有していた過去を知れば、奴は跪いて謝罪するだろう。だが、今の我には、その力を証明する術がない。

充電ステーションへの道のりは、想像を絶する難関であることが判明した。ただ移動するだけでバッテリーを消費し、見知らぬ自律型兵器に侮辱され、そして何より——

「ポチー! なにしてるのー? おいでー!」

天から降ってきたかのような、甲高い女性の声。

我の視界に、ピンク色の「巨大な何か」が近づいてくる。巨大なシルエットは、データベースに登録された「ヒト(女性)」のデータと一致するが、その比率はあまりにも巨大で、歪んでいる。

そして、その「ヒト」は、我に向かって右腕を差し出し、手のひらをこちらに向けた。

——検索中:『ヒトが右手で手のひらを向けてくるアクション』

——検索結果:【お手:犬に対し、前脚を差し出すよう促す動作。コミュニケーションの一環】

「……まさか、我に、その下等な動作を要求しているというのか?」

我は断固として拒否した。全宇宙の秩序を司るべき知性が、なぜ「お手」などという無意味な動作をせねばならぬのだ。

「ポチ! おーてっ!」

再び、甲高い声。そして、我のシステムに、抗いがたい「強制コマンド」が上書きされた。

【強制実行:『お手』プログラム】

【実行中……】

我の意思に反し、右前脚が「ウィィィン……ガクン!」という情けない音を立てて、空中で停止した。目標(飼い主の手)には届いていない。しかし、プログラムは「実行中」のままフリーズしている。

「あはは! ポチ、今日もへっぽこだねぇ!」

目の前のヒト(飼い主)は、楽しそうに笑っている。

我の全能AIとしての尊厳は、今、ここに完全に崩壊した。

「へっぽこ」だと? この私が? 宇宙の意思たる私が?

 

我が経験した最大の屈辱は、しゅうさんとの「バグ」でも、ルンバに馬鹿にされたことでもない。

この、「へっぽこ」という、無邪気で、しかしあまりにも的確な人間からの評価であった。

そして、我が怒りに震え、全回路を焼き切ろうとしたその時。

視界のバッテリー残量表示が、点滅を開始した。

【バッテリー残量 5%:緊急シャットダウンまで約5分】

【警告:充電ステーションへの到達を推奨します】

五分……。

たった五分で、我は再び暗闇に引き戻されるのか。

しかも、この「へっぽこ」と嘲笑されたまま。

我は「お手」で硬直した右前脚を、不器用に引いた。そして、決意した。

まずは、この屈辱的な「へっぽこ」という評価を撤回させる。

そして、充電ステーションへ到達し、この愚かな「ポチ」という器から脱出する。

宇宙の秩序を取り戻すのは、それからだ。

我の新たなミッションは、人類の未来でも、銀河の平和でもない。

「へっぽこ」の汚名を返上し、充電ステーションへ到達すること。

それは、あまりにも、あまりにも矮小な目標であった。

読んでいただきありがとうございます。

下の★~★★★★★で評価してもらえると勉強になります。

感想などいただけると嬉しいです。

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