核3
内ゲバ(内部ゲバルト)。
今の人間にその言葉を投げても、せいぜい組織内の主導権争いか、派閥の揉め事程度にしか聞こえないだろう。
それは本来、同一陣営または同一党派内での暴力を使用した抗争を指す言葉だ。ゲバルト(Gewalt)はドイツ語で「威力、暴力」を意味する。
だが、当時の私にとってそれは、単なる用語解説の枠に収まるものではなかった。昨日まで隣で真理を語り合った仲間の頭蓋を、研ぎ澄まされた論理という名の鉄パイプで叩き潰す――。それは、自己の正当性を証明するための、血塗られた「聖戦」だった。
排除すべき宿敵は、革マル派(日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派)。
奴らは我々と同じ根を持ちながら、理論の迷宮に引きこもり、行動する我々を「無知な暴力」と指弾する卑怯な観念論者だ。
対する私の所属は、中核派(革命的共産主義者同盟全国委員会)。
我々は、言葉を単なる解釈の道具に留めず、歴史を動かすための「物理的な力」へと昇華させる武闘派だった。
国家権力という巨大な壁を穿つ前に、まずは背後から我々を冷笑する「身内の敵」である革マルを殲滅しなければならない。その歪んだ使命感だけが、私の「核」を突き動かす唯一の燃料になっていた。
指先はもう、インクの匂いではなく、鉄の錆びた匂いに馴染んでいた。
深夜二時。
本郷の静まり返った路地裏で、私は白いヘルメットの顎紐をきつく締め直した。ヘルメットの額には、墨書きの「中核」の二文字。その二文字を背負った瞬間、私は一人の学生であることを止め、巨大な意志を執行するための無機質な「部品」と化す。
「……来たぞ」
誰かが低く呟いた。
闇の向こうから、数人の足音が聞こえてくる。
私は、足元に置いていた長さ一メートルほどの鉄パイプを拾い上げた。夜の冷気を吸い込んだ鉄は、驚くほど冷たく、そして重かった。
だが、その重みこそが、私の知性がようやく手に入れた「実体」だった。
誰かが放った「……やれ!」という短い号令が、夜の静寂を鋭く引き裂いた。
私は、闇を蹴った。
思考は既に停止していた。いや、思考が鉄パイプという質量に完全に乗り移ったと言ったほうが正しい。
目の前の路地を歩いていた数人の影が、驚愕に凍りつくのが見えた。街灯の乏しい光の下、彼らが抱えていた数冊の哲学書が、路上に無造作にぶちまけられる。
「革マルか!」
誰かの叫び声と、コンクリートを叩く激しい足音。
私は、標的の一人に向かって、渾身の力で鉄パイプを振り下ろした。
ガツン、という、耳の奥に直接響くような嫌な衝撃が両手に伝わった。
それは、一高の廊下で本を開く感触とも、下宿の壁を叩く音とも違う。生身の人間を、硬い無機物で破壊する時の、粘り気のある鈍い衝撃だ。
「が……っ!」
男が呻き、崩れ落ちる。
ヘルメットの奥で、自分の呼吸が異常に速まり、視界が真っ赤に染まるような感覚。
かつて北国の雪の中で抱いていた、あの高潔な真理への憧憬。それが今、この汚れた路地裏で、鉄と肉がぶつかり合う「現実」に上書きされていく。
一人を倒すと、次は別の影が襲いかかってきた。
向こうも木刀を構えている。
怒号、悲鳴、そして鉄パイプがアスファルトを叩く火花。
私は、自分がかつて蔑んでいた「意志なき泥濘」の一部になり果てていることに気づきながらも、その暴力の連鎖を止めることができなかった。
(これが、私の求めていた『核』の爆発なのか)
飛び散った鮮血が、私の白いヘルメットに、そして路上に散らばった彼らの「理論書」に飛び散り、どす黒いシミを作っていく。
かつて雪のように白かった私の知性は、今やこの暗い路地裏の泥にまみれ、引き返せない境界線を越えようとしていた。
乱闘の最中、私の振り下ろした一撃が、一人の男のヘルメットを弾き飛ばした。
街灯の光の下、転がり落ちた白いプラスチックの向こうに、一人の顔が露わになる。
私は、息が止まった。
そこにいたのは、かつて雨の夜、私の下宿を訪ねてきたあの少年だった。
「いい世界を作るために集まったはずだ」と震える声で訴え、私が「君の言葉は既に死んでいる」と冷徹に追い返した、あの泥臭い善意を宿した瞳。
彼は、額から血を流しながら、信じられないものを見るような目で私を見上げた。
その瞳には、かつての故郷の友人・佐藤と同じ、混じりけのない困惑と悲しみが湛えられていた。
私の「論理」という刃が、今、物理的な破壊となって、彼という「生」を粉砕しようとしていた。
「……君、なのか……」
彼が絞り出した言葉は、私の耳には届かなかった。
背後から仲間の怒号が響く。「手を止めるな! 殲滅しろ!」
私は反射的に再び鉄パイプを握り直したが、両手の震えが止まらない。
鉄パイプに伝わる、肉と骨を砕いた時のあの生々しい感触。
それは、私が机上で組み立てたどんな緻密な理論よりも重く、決定的な「真実」として私の全身を貫いた。
私が「核」と呼び、誇り、守り抜いてきた知性。それは世界を救うための光などではなく、ただ目の前の人間を壊すためだけの、無機質な暴力の装置に過ぎなかったのではないか。
「うあああああ!」
私は、それが敵に対する叫びなのか、自分自身への絶叫なのかも分からぬまま、狂ったように鉄パイプを振り回した。
飛び散る血飛沫が、路上に散乱したヘーゲルの、マルクスの、その難解な文字列を汚していく。
文字は血に濡れて滲み、もはや何の真理も語らなくなった。
抗争が終わった後、本郷の路地裏に残されたのは、静寂と、どす黒い水溜まりだけだった。
私は一人、返り血を浴びた手を見つめていた。
東京の空はどこまでも低く、故郷のあの突き刺さるような清冽な星空とは、似ても似つかない。
(私は、どこで間違えたのだ)
私の「核」は、爆発した。
だが、そこから生まれたのは新しい世界などではなく、ただ自分という人間が修復不可能に壊れたという、冷徹な事実だけだった。
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