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  作者: しゅう


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46/56

核2

上野駅から本郷へ向かう道すがら、私を包囲したのは、逃げ場のない湿った熱気と、正体の知れない騒音のおりだった。

地元の、あの突き刺さるような乾燥した冷気はどこにもない。代わりに、排気ガスと人々の体臭が混じり合った重苦しい空気が、肺の奥深くまで侵入してくる。

私は、自宅から持ってきた重いボストンバッグを握り直した。中には着替えの他に、あの全国模試の結果表と、手垢のついた数冊の哲学書が詰まっている。それは私の「核」を証明する唯一の重りだったが、行き交う群衆の中で、その重みを知る者は一人としていない。

 

都電の軋む音、工事現場の打撃音、そして何より、目的もなく歩いているように見える膨大な数の「死体」たちの足音。

彼らが発する無関心の壁は、一高の廊下で感じていた拒絶よりも、はるかに残酷だった。ここでは、私の「選ばれた知性」さえも、ただの通行人の一人という、無機質な記号へと還元されてしまう。

(この街もまた、巨大な、意志なき泥濘だ)

私は内心で毒づき、地図を頼りに細い路地へと足を踏み入れた。

本郷。明治の文豪たちが歩いたというその街並みは、期待していたような高潔さはなく、ただ古びた瓦屋根と、湿った路地裏が複雑に絡み合っているだけだった。

辿り着いた下宿は、築数十年は経っているであろう木造二階建ての、ひどく時代から取り残された建物だった。

「あら、お疲れさん。遠くから大変だったねえ」

大家の老婆が、使い古された雑巾のような笑顔で私を迎えた。通されたのは、二階の端にある四畳半の一間。

 

畳は擦り切れ、壁には前の住人が残したであろう、煙草の焦げ跡が一つ。

窓を開けると、隣の家の洗濯物と、夕餉の煮物の匂いが流れ込んできた。

自宅の自分の部屋で夢想していた「真理への祭壇」としての東京。その第一歩が、この狭苦しく、凡庸な生活臭に満ちた箱であるという事実に、私は激しい眩暈を覚えた。

 

私はボストンバッグを畳に放り出し、窓辺に立った。

遠くで、再び救急車のサイレンか、あるいはデモ隊の拡声器か、判別のつかない悲鳴のような音が響いている。

東京という巨大な「現象」は、私という「核」を迎え入れるどころか、ただ静かに、冷徹に無視し続けている。

 

この四畳半の静寂の中で、私の傲慢な自負は、初めて「飢え」に似た焦燥へと変質し始めていた。

自分を認めない世界への怒りではなく、自分という「核」が爆発すべき場所を見つけられないことへの、深い乾き。

その時だった。

薄い壁の向こう側、隣の部屋から、微かに、しかし確かな「熱」を持った話し声が聞こえてきた。

それは、父の野球中継や暴走族の咆哮とは違う。

鋭く、乾いた、言葉そのものが武器として磨かれているような、聞き覚えのある「知的な響き」。

壁は薄く、隣室の主が吸う煙草の匂いまでもが、染み出すように彼の部屋へと侵入してきた。

聞こえてくるのは、低い、しかし研ぎ澄まされた複数の男たちの声だ。

「……結局、既成の左翼は『現象』を追っているに過ぎない。我々が求めるのは、構造そのものの解体であり、意志による真理の奪還だ」

「大衆の無関心を嘆く必要はない。我々という『核』が、その停滞した中心を撃ち抜けば、世界は必然的に連鎖つぬぐされる」

私は、畳の上に座り込んだまま、呼吸を止めてその言葉を追いかけた。

それは、私が深夜ラジオで、ノイズの向こうに追い求めていたそのものだった。父の野球中継や、佐藤の泥臭い善意、そして東京の雑踏に渦巻く無意味な騒音。それらすべてを「死」として切り捨てる、冷徹で鋭利な論理。

(……ここに、いる)

私は、自らの内に秘めていた傲慢な自負が、外側の世界と初めて「接続」されたような感覚に陥った。自分の知性が、たった一人で磨いてきた孤独な刃が、ようやく切りつけるべき対象を見つけたのだ。

やがて、隣の部屋の扉が開く音がし、廊下を歩く複数の足音が聞こえた。

私は衝動的に立ち上がり、自らの部屋の戸を開けた。

薄暗い廊下に立っていたのは、眼鏡をかけた、私より数歳年上に見える痩身の男だった。男は、大学生にはない、どこか血の通わない、しかし燃えるような眼光を宿していた。

男は足を止め、新入生である私の姿を、値踏みするように見つめた。

「……隣に入った君か。さっきの議論、聞いていたな?」

男の言葉には、威圧ではなく、すべてを見透かしたような確信があった。

「……論理が、あまりに純粋だったので」

そう答えると、男の口元に、初めて微かな、しかし歪んだ笑みが浮かんだ。

「純粋か。いい言葉だ。だが、知性には責任が伴う。真理を知る者は、それを執行する義務がある。君のその鋭い目は、この凡庸な下宿に埋もれるためにあるのか、それとも世界を再定義するためにあるのか」

その問いは、私が自分自身に、何度も繰り返してきたものだった。

男は私に一瞥をくれると、短いメモを差し出した。

「明日、講堂の裏へ来い。君と同じ『核』を持つ者たちが、言葉ではなく行動で真理を語っている」

男たちが去った後、私は再び四畳半の静寂に戻った。

だが、その静寂は、もはや停滞したものではなかった。

窓の外から聞こえる東京の騒音は、今や解体されるべき「対象」として明確な輪郭を持ち始め、私の内なる「核」は、未知の熱を持って脈動し始めていた。

(……連帯)

私が最も蔑んでいたはずの「群れ」が、中核派という名の、自分と同じ「選ばれし者」による組織という形をとった時、それは抗いがたい「正義」へと昇華されていく。


翌朝、私がくぐった赤門の向こう側は、知性の府などという静謐な場所ではなかった。

そこは、剥き出しの言葉が、物理的な重さを持って飛び交う戦場だった。

キャンパスの至る所に、墨汁で書き殴られた巨大な「立て看板」が並んでいる。

『構造的暴力を粉砕せよ』

『全学封鎖貫徹』

『日和見主義を排し、真の連帯へ』

一高の図書室で静かに頁を捲っていた理論が、そこでは荒々しい筆致と原色で、見る者を威嚇していた。周囲を歩く学生たちの多くは、それを無関心に通り過ぎるか、あるいは怯えたように目を逸らしている。

だが、私は違った。

その暴力的なまでに強固な「言葉」の羅列に、私は自らの内側にある「核」が激しく共振するのを感じた。

(……美しい)

それは、父や佐藤のような、無自覚に生を享受する者たちには決して理解できない、絶対的な「否定」の美学だった。


講堂の裏へ向かうと、昨夜の男が、数人のヘルメットを被った学生たちと激しい議論を戦わせていた。男は彼に気づくと、昨夜と同じ冷徹な眼差しで手招きをした。

「来たか。君が昨日、隣で聞いていた『核』の正体だ」

男が指差した先では、数人の学生が、ガリ版印刷のビラを必死に刷っていた。インクの独特な油臭さが鼻をつく。

「我々の敵は、体制だけではない。この『真理』を知りながら、何のアクションも起こさず、ただ静止している大衆の無関心そのものだ。君のような優秀な頭脳が、その無関心の一部であっていいはずがないだろう?」

男の言葉は、私の「選民意識」を巧妙に、そして優しく撫でていく。

一人で磨いてきた知性は、これまで自分を守るための盾でしかなかった。しかし、この組織の論理に預ければ、それは世界を焼き尽くす矛に変わるのだ。

「……私は、この腐った構造を、ただ眺めているためにここへ来たのではありません」

私が初めて口にした明確な意思表示。それは、私の「核」が、中核派という巨大な意志の回路に、カチリと接続された瞬間だった。

「いい答えだ。今日から君は、我々の『通信』の一部だ。まずは、このビラを配れ。言葉を、物理的な弾丸に変える作業だ」

手渡されたビラは、刷りたてでまだ温かかった。

私はそれを一枚、自分の指先で確かめる。

列車の中で、窓ガラスに映る自分を見つめていたあの孤独な少年は、もういない。

私はヘルメットを被った群れの中に、自ら足を踏み入れた。

それは、個人の傲慢さが、歴史という名の「大義」に飲み込まれ、怪物へと育ち始める第一歩だった。


数ヶ月が経つ頃には、私は四畳半の下宿を、単なる「眠るための箱」としてしか使わなくなっていた。

大家の老婆が差し出す夕食の膳は、今や私の高潔な「革命的日常」を邪魔する、凡庸でしかなかった。私はその膳に手をつけぬまま、インクの匂いが染み付いた手で、次々とアジテーション(煽動)の原稿を書き上げていった。

組織内での私の台頭は、驚くほど速かった。

一人、飢えた獣のように貪り食った哲学の知識が、今や「敵を論理的に抹殺する言葉」として、最高級の武器となったからだ。

「君の書く文章には、迷いがない。それは、真理が一点に収束している証拠だ」

隣室の男――今や組織の上部組織に属する指導者の一人となった男は、私の原稿を読み、満足げに目を細めた。

私が担当したのは、身内の「甘さ」を糾弾する内部文書の作成だった。

昨日まで肩を並べてビラを配っていた仲間が、わずかな日和見や、個人的な恋愛、あるいは故郷への郷愁を見せた瞬間、私はそれを「革命への裏切り」として、冷徹な筆致で断罪した。

(知性とは、排除することだ)

私は確信していた。

「連帯」とは、単なる馴れ合いではない。純度の低い者を削ぎ落とし、研ぎ澄まされた「核」だけを残す、孤独で残酷な抽出作業なのだと。


ある雨の夜。

下宿の私の部屋に、かつて共に議論を交わした一人の少年が訪ねてきた。

「……もう、ついていけない。あんなに厳しく仲間を攻撃しなくてもいいじゃないか。俺たちは、もっといい世界を作るために集まったはずだろ」

震える声で訴える少年の瞳には、あの北国の佐藤と同じ、泥臭い「善意」が宿っていた。

私は、机に向かったまま、一度も振り返らなかった。

「君が言う『いい世界』とは、既存のシステムの延長線上にある、ぬるま湯の平穏だろう? 我々が目指すのは、システムの根底からの解体だ。そこに、個人的な感情が入り込む余地はない」

「でも……!」

「帰りたまえ。君のその言葉は、既に『死んでいる』」

少年が去った後、私は一人、闇の中で自らの知性の鋭さを確かめた。

仲間を切り捨てるたびに、自分の「核」がより硬く、より輝きを増していくような錯覚。

かつて一高の廊下で感じていた孤独な優越感は、今や「組織の正義」という盾を得て、万能感へと昇華されていた。

だが、その正義の裏側で、私の精神は、かつての白い雪のような純粋さを失い始めていた。

他者を排除し、論理で叩き潰す快感。

それは「世界を救う知性」ではなく、ただ「自分が正義であること」を証明し続けるための、終わりなき暴力の螺旋だった。

キャンパスに、ヘルメットの群れが渦を巻く。

拡声器から流れる自分の書いた言葉が、数千の学生を熱狂させ、あるいは恐怖させる。

私はその中心に立ち、無表情に空を見上げた。

東京の空は、故郷よりも低く、濁っていた。

そして、ついにその「排除」の論理が、身内同士の血で血を洗う対立――「内ゲバ」という名の、本当の地獄へと私を誘っていく。

読んでいただきありがとうございます。

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