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  作者: しゅう


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核1

八月の終わり、北国の夜はすでに秋の気配を孕んでいる。

窓を開け放てば、入ってくるのは湿り気を失った冷涼な風だ。それは、日中の農作業で火照った大地をなだめるように、村全体を静かに、しかし冷徹に包み込んでいく。

二階の自室で机に向かう彼の首筋を、その風が優しく撫でて通り過ぎる。

本来なら、それは心地よいはずの平穏だった。だが、彼にとってこの清涼な空気は、変化を拒み、ただ同じ季節を繰り返すだけの「停滞した世界の吐息」にしか感じられなかった。

階下からは、薄い床を突き抜けてくるような、ひどく場違いな音が響いている。

茶の間で、父親がプロ野球中継に興じているのだ。ブラウン管の中で、王や長嶋が白球を追い、それを見た数万の大衆が叫ぶ。その歓声が、小さなスピーカーを震わせ、さらに父親の鼻歌と混ざり合って、家全体の空気を澱ませている。

父親は、冷えたビールのグラスを卓に置き、満足げな溜息をつく。

「やっぱり巨人は強いな。中核の王が打てば、試合は決まりだ」

その一言が、彼には耐え難かった。父親が享受しているその「幸福」は、この小さな村という檻の中で、外の世界から切り離されて飼い慣らされていることに無自覚な、死者の安らぎに見えた。父の言う「中核」とは、その程度の、娯楽としての熱狂に過ぎない。

その時、遠くのバイパスから、鋭利な刃物で空気を引き裂くような音が聞こえてきた。

排気管の消音器を抜いた、粗末な金属音。

一台、また一台。空冷エンジンの不快な咆哮が、澄み切った夜気を汚しながら近づいてくる。地元の土木作業員や、農家の次男坊たちが、行き場のない鬱屈をバイクの加速に乗せて撒き散らしているのだ。

爆音は次第に大きくなり、家の前を通り過ぎる瞬間、部屋の窓ガラスが微かに震えた。

闇の中を切り裂くヘッドライトの光が、網戸越しに天井を一瞬だけ白く照らし、その後には以前よりも深い闇が残る。

彼らの叫びは、父親の野球中継と同じだった。中身のない、ただのノイズ。

自分たちが何に苛立ち、何を求めているのかも分からず、ただエンジンの唸りに身を任せる獣の遠吠え。

彼は、その音を遮断するように、机の上のナショナルのトランジスタラジオに手を伸ばした。

イヤホンを耳の奥深く、痛みを感じるほどに押し込む。

指先で慎重にダイヤルを回す。砂嵐のようなノイズ。そのカサカサとした乾いた音こそが、彼にとっては唯一、この死んだ村と外部をつなぐ「へその緒」だった。

険しい山々に遮られ、幾度も断片化されながら届くその電波。

ノイズの向こう側に、彼は聴いた。

東京。

そこで繰り広げられているのは、父の野球や暴走族の喧騒とは異質な、純粋な「意志」の衝突だった。ヘルメットの下から発せられる学生たちの鋭い理論、世界を根本から解体し、再構築しようとする情熱的な言葉の断片。

(俺は、あんなバイクを走らせるだけの獣たちとは違う。俺には知性がある。俺には、この腐った現象世界を再定義する正しさがある)

窓の外、暴走族の排気音は遠ざかり、村には再び、耳に痛いほどの静寂が戻ってきた。

鈴虫の声が、何もなかったかのように夜気を満たし始める。

その予定調和な自然の音すら、彼には自分をこの泥沼に引き留めようとする呪詛のように聞こえた。

机の上の、全国模試の結果表に目を落とす。

最上段に刻まれた、一桁の順位。

その無機質な数字が、彼には神から授かった「この凡庸な地獄を支配するための通行証」に見えた。


夜が明け、またあの退屈な「日常」が始まる。

彼が通う一高は、古い木造の校舎で、廊下を歩くたびに湿った木の軋む音が響く。そこは、この界隈で「優秀」とされる少年たちが集まる場所だったが、彼にとってそこは、志を同じくする同志の集いではなく、単なる「収容所」に過ぎなかった。

授業中、黒板を叩くチョークの音。

数学の教師が、いかに効率よく大学入試の難問を解くかを熱弁している。その背中を見つめながら、彼はノートの端に数式ではなく、昨夜ラジオから拾い上げた概念を、自らの傲慢な知性で濾過した言葉として書き殴っていた。

「主体性」「再定義」「論理的必然」。

それらの言葉は、教科書に載っているどんな公式よりも重く、鋭く、彼の脳内で脈動していた。

「――おい、そこ。聞いてるのか」

教師の呼びかけに、彼はゆっくりと顔を上げる。

「はい。その問題なら、もう解けています。答えは……」

淀みなく正解を告げると、教室に微かなざわめきが広がった。同級生たちの眼差しには、羨望と、それ以上に「得体の知れないものを見る」ような拒絶の色が混じっている。

彼はそれを、心地よく感じていた。

(お前たちは、いい会社に入り、いい給料をもらい、親と同じようにテレビの野球中継を見て死んでいく。そのための勉強だ。だが、俺は違う。俺が手にする知識は、この社会の構造そのものを根底から把握し、支配するための武器だ)

休み時間になっても、彼は誰とも言葉を交わさない。騒がしい教室を離れ、彼が向かうのは校舎の隅にある薄暗い図書室だった。

そこには、かつてこの学校を卒業していった先達たちが残した、古びた社会科学の文献が眠っている。背表紙をなぞるたびに立ち上る古い紙の匂いは、彼にとって唯一の「知的な呼吸」だった。

マルクス、レーニン、サルトル。

翻訳の硬い文体を、彼は飢えた獣のように貪り食った。

言葉の一つひとつが、彼の中で「核」となって凝固していく。それらの本は彼に教えてくれた。今、彼が感じているこの息苦しさ、この停滞、および父親への嫌悪感さえも、すべては「凡庸な構造」の欠陥であり、それを正し、再構築する権利が自分のような「選ばれし知性」にはあるのだと。

「……お前、またそんな難しい本を読んでるのか」

図書室の窓際で本を読んでいた彼の背中に、一人の少年が声をかけた。中学からの同級生で、家も近い佐藤だ。佐藤は実家の農家を継ぐことが決まっており、この学校には「箔をつけるため」だけに来ていた。

「俺らには分からない世界だな。でもよ、お前は村の自慢なんだから、あんまり根詰めるなよ。みんな、お前が東京で偉くなって、この村を良くしてくれるのを期待してるんだから」

佐藤の、悪意のない、泥臭いまでの善意。それが、彼には何よりも毒々しく感じられた。

「村を良くする」だと?

彼は心の中で嘲笑った。俺がやろうとしているのは、そんな卑小な「改良」ではない。この村も、お前たちが信じている幸福も、すべてを一度知性の炎で焼き尽くし、再定義することだ。

だが、彼は口には出さない。ただ、薄く冷笑を浮かべて、本を閉じるだけだ。

「ああ、分かっているよ」

その一言に込められた欺瞞に、佐藤は気づかない。自分のような「選ばれし者」が、佐藤のような「停滞した者」へ向ける冷酷なまでの優越感。それが、夏の終わりの空気の中で、奇妙な熱を持って混ざり合っていく。

放課後、校門を出ると、再びあの排気音が遠くで聞こえた。

夏の陽炎が消えかかった道を、暴走族が連なって走っていく。彼らの咆哮は、夕暮れの空に空虚に吸い込まれていく。

(吠えていろ、犬ども。俺が東京へ行く時、お前たちのその無意味な叫びも、この古臭い村の沈黙も、すべては過去の遺物になる)


十月が過ぎ、北国の空は急速に色を失っていく。

あんなに明瞭に響いていた暴走族の排気音も、夜ごとに深まる冷気と、時折混じる霙に押し殺されるようにして消えていった。季節は、彼らを路上から追い出し、再び村を「静止した死」へと引き戻していく。


十一月。初雪が降った。

それは、地上のあらゆる色彩と音を剥ぎ取り、世界を白と黒の二色に塗り替える無慈悲な儀式だった。

居間では、父親が石油ストーブの上に薬缶を置き、シュンシュンと上がる湯気を眺めながら、相変わらず大衆紙のスポーツ欄を読み耽っている。テレビの中では、すでにシーズンを終えた野球の話題に代わり、連日のように「過激派の動向」が報じられるようになっていた。

「東京も物騒なことだ。こんな連中、機動隊が叩き潰せばいいんだ」

父親が独り言のように吐き捨てた。二階でその声を聴いていた彼は、暗闇の中で静かに唇の端を吊り上げた。

(叩き潰されるのは、お前たちのその安寧な生活の方だ。既存の価値観に従属しているだけの、その精神だ)

冬の澄んだ空気は、ラジオの電波を夏よりも鋭く伝えてくる。

ノイズの向こう側から聞こえる「革命」の響きは、もはや他人事ではなかった。それは、自分という「核」が、現象世界に秩序を与えるための唯一の回路として結ばれていく。バラバラだった知識、嫌悪、選民意識。それらが、自分こそが世界の中心であるという絶対的な「確信」に向かって凝縮され、逃げ場のない熱を持った「核」へと変貌していく。


年が明け、村が最も深い雪に閉じ込められる二月の猛吹雪の中で、彼はただ沈黙して自らの知性を研ぎ澄ませていた。

そして三月。重く湿った雪が解け始め、道が泥濘に変わる頃、一通の封筒が届いた。

東京の、あの最高学府からの合格通知だ。

その日、家は祭りのような騒ぎになった。農協の人間や親戚たちが、雪を蹴散らして次々と家に上がり込んできた。

「こいつは、この村の、いや、日本の宝だ。将来は官僚か、政治家か」

赤ら顔の大人たちが、代わる代わる彼の肩を叩く。彼を「成功者」か何かのように崇めるその眼差しには、自分たちの停滞した生活を、彼という「上位の存在」に託して正当化しようとする卑しい期待が透けて見えた。

彼は、その喧騒の中心で、精巧な仮面を被り続けた。

「ありがとうございます。皆さんの期待に応えられるよう、精進します」

謙虚な優等生を演じるその裏側で、彼は猛烈な吐き気に襲われていた。

(お前たちが、俺を東京へ行かせるのだ。お前たちのその、泥のようにまとわりつく期待が、俺という核を戦場へ射出するための最後の一押しになる)

旅立ちの朝。

村は、底冷えのする静寂に包まれていた。駅のホームには、両親と、数人の村人が見送りに来ていた。

「身体に気をつけるんだぞ。東京に染まるなよ」

母親が、涙を浮かべながら弁当を手渡す。彼はそれを無造作に受け取り、上野行きの急行列車に乗り込んだ。

列車がゆっくりと、しかし拒絶するようにホームを離れていく。

遠ざかる父の作業着の灰色。教師の期待に満ちた顔。それらすべてが、窓の外を流れる泥濘の風景の中に溶け、消えていく。

彼は一度も振り返らなかった。座席に深く身を沈め、冷たい窓ガラスに額を預ける。列車の振動が、そのまま自分の鼓動と同期していく。

鞄の中にある数冊の書物と、一桁の順位を刻んだ成績表。それが、既存の世界を解体し、真理によって再構築するための唯一の武器だ。

彼は目を閉じ、これから出会うであろう「真の知性」たちを夢想した。この凡庸な世界を焼き尽くし、新たな秩序を打ち立てる、自分と同質の「核」たち。

(私こそが、世界の核だ)

その確信は、もはや疑いようのない重力となって彼の中に居座っていた。

列車は加速し、雪解けの原野を南へと切り裂いていく。

読んでいただきありがとうございます。

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