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  作者: しゅう


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心の誕生:後編3

十七条の憲法が発布されて以来、飛鳥の里には奇妙な「秩序」がもたらされていた。豪族たちの怒号は息を潜め、民は「和」という言葉の傘の下で、辛うじてその日を繋いでいる。だが、その秩序の源泉である厩戸王子の周囲では、かつてないほど空気の密度が下がり、触れれば指が凍りつくような「薄く、冷たい静寂」が支配していた。そこでは、微かな咳払いですら政治的な意味を持ち、誰もが自らの「音」を殺して生きている。

調子麻呂は、王子の背後に侍りながら、自らの鼓膜を伝ってくる異様な音に戦慄していた。

ドクン……ドクン……。

かつての王子の心拍には、民を想う焦燥や、馬子への憤りといった、人間らしい「揺らぎ」があった。しかし今のそれは、まるで大陸から渡来した水時計の刻みのように、冷徹なまでに一定だった。感情という不確定な要素がすべて削ぎ落とされ、ただ「国を維持する」という巨大な目的のためだけに動いている機械の音。それを聴くたび、調子麻呂の腕には、本能的な恐怖に近い粟立ちが走った。

王子の元には、連日、十人もの訴訟人が同時に押し寄せていた。世にいう「豊聡耳とよとみみ」の伝説の始まりである。王子の前に跪く十人の訴訟人。彼らの放つ声は、調子麻呂の耳にはもはや言葉としてすら届かない。それは「欲」という名の粘りつく泥であり、互いの足を引っ張り合う「呪いの不協和音」だ。

王子はその泥の中に自らの精神を浸し、一人ひとりの嘘を剥ぎ取っていく。調子麻呂は、その裁きのたびに王子の側頭部の血管が、微かな、しかし悲鳴のような高音を発して震えるのを聴いていた。それは、人間の許容量を超えた情報が、王子の脳を内側から焼き焦がしている音だった。その情報の奔流は、一滴ずつ王子の魂を侵していく「毒」として降り積もる。高貴な若者としての柔らかな感性は死に絶え、そこにはただ、神格化された「救世主」という名の虚像だけが屹立していた。


夜、宮の奥深く。独りで瞑想に耽る王子の姿は、もはや彫像のように微動だにしない。だが、調子麻呂の鋭敏な耳は、その静寂の裏側に潜む凄絶な「軋み」を捉えていた。それは、王子の体内から漏れ出す、魂の骨組みが摩擦を起こしているような悲鳴だった。王子の内側では、日中に浴びた万の民の嘆きが、まだ浄化されずに渦巻いている。彼はそれを一人で背負い、無理やり「和」という旋律に変換しようと、全霊を懸けて精神の濾過を行っていた。

ふいに、誰もいないはずの室内で、無数の衣擦れの音が響いたような錯覚に調子麻呂は陥った。

(……聴こえる。この部屋に満ちているのは、死者たちの声だ)

暗殺された崇峻天皇、滅ぼされた物部の兵たち、そして飢えで死んでいった名もなき民。王子は、その救えなかったすべての魂と対峙し、彼らの絶望を自らの血肉で贖おうとしていた。その重圧は、生身の人間が耐えられる限界をとうに超えている。

王子の周囲の無音は、もはや静かな休みではなく、光さえも届かない「深淵の底」であった。調子麻呂は、王子の背中に向かって何度も声をかけようとした。だが、そのたびに「影であれ」という冷徹な理性が、彼の喉を締め上げる。今の王子は、もはや「助け」を必要とする段階を超えていた。彼は自らをこの国の『音の浄化装置』として捧げてしまったのだ。

調子麻呂が聴いているのは、王子の心拍ではなく、大和という巨大な生命体が発する、膨大で制御不能なノイズを必死に抑え込んでいる、防波堤が軋む音そのものだった。救世主であろうとすればするほど、王子は誰の手も届かない孤独の深みへと沈んでいく。調子麻呂は、その深淵の淵で立ち尽くし、主君の魂が粉々に砕け散る寸前の、危うい均衡を聴き続けるしかなかった。


調子麻呂の心もまた、激しく摩耗していた。王子の能力の一部となり、その耳として生きることは、至上の喜びであったはずだ。だが、言葉を交わさずとも王子の絶望が流れ込んできてしまう今、その「共鳴」は耐えがたい苦痛へと変わっていた。

(私は、何のためにここにいる?)

調子麻呂は自問する。王子を救いたい。あの冷たい深淵から、一人の若者として引きずり戻したい。そう願うのは、彼の内にある「個」としての心だ。しかし、王子が求めているのは、感情を持って寄り添う友人ではなく、正確に音を整理し、影として消える「便利な道具」としての耳ではないのか。

調子麻呂は、自らの内に目覚めた「心」に戸惑っていた。細作としての職務を全うするならば、王子の変貌を冷徹に観察し、ただ支えればよい。だが、今の王子から流れてくる「死の予兆」のような静寂を、ただの影として受け流すことはできなかった。かつて黒駒を撫で、里の土を踏みしめた時に感じた、あの温かな命の響きを王子にもう一度思い出してほしい。そう願う心は、影の領域を逸脱した「越権」なのか。

(私は……この人を愛してしまったのか。主君としてではなく、一人の欠落した命として)

その自覚は、絶望的なまでに深い孤独を伴っていた。どれほど望んでも、今の王子は誰の介入も許さない完璧な調和(静寂)の中にいる。調子麻呂が「自分の心」を強く持てば持つほど、王子の目指す「和」とは別の不協和音が生まれ、二人の間の溝は修復不可能なほどに広がっていく。影であるべき自分と、愛してしまった個としての心。その二つが調子麻呂の内で衝突し、彼自身の精神をも内側から削り取っていった。


夜明け前の蒼い刻、王子がふと瞑想を解き、背後に控える調子麻呂に視線を向けた。その瞳は、鏡のように平らで、冷たかった。かつて真神原の夕陽の下で、あるいは里の畦道で見せた、あの揺らぎ、迷い、熱を帯びた「若者の瞳」はどこにもない。そこにあるのは、人々の願いを映し出すだけのために存在する、冷徹な「救世主の光」であった。

「……調子麻呂、お前には今、何が聴こえる」

王子の問いが、氷の刃のように室内の静寂を切り裂いた。それは、調子麻呂の忠誠を試すような、あるいは彼に最後の人間の絆を求めているような、判別のつかない響きだった。調子麻呂は震える唇を噛み、王子の心拍を、その深淵を、必死に聴き取ろうとした。だが、今の王子の内側から聴こえてくるのは、あまりにも巨大で完璧な「無」だけだった。そこには、調子麻呂が触れるべき隙間も、共鳴すべき余地も、ひとかけらも残されていなかった。

「……何も、聴こえませぬ」

調子麻呂の声は、自分でも驚くほどかすれていた。「何も……何も聴こえませぬ。ただ、この世の終わりを告げるような、静寂だけが聴こえます」

その答えに、王子はわずかに目を細めた。それが悲しみなのか、あるいは自らの期待した通りだったことへの安堵なのかは、もはや調子麻呂の耳を持ってしても判別できなかった。その響きの中に、調子麻呂はかつて二人が畦道で共有した「人間としての温もり」が、完全に結晶化して消えていく音を聴いた。

それは、何かが決定的に壊れた音ではなく、あまりにも完璧に整いすぎて、他者が入り込む隙間がなくなった「死に等しい完成」の音だった。

二人の間に、目に見えない、しかし絶対的な壁が築かれた。言葉を超えた理解は、今や「言葉の届かない断絶」へと変わり、二人は最も近い場所にいながら、果てしない宇宙の彼方へと引き離されていった。

「そうか。それでよい」

王子の短く冷たい言葉とともに、部屋は再び、窒息するような「救世主の静寂」へと沈み込んでいった。調子麻呂は、自らの心が急速に冷えていくのを感じながら、ただ深く頭を下げるしかなかった。

読んでいただきありがとうございます。

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