心の誕生:後編2
飛鳥の宮を包むのは、計算され尽くした「作られた静寂」である。それは、幾重にも張り巡らされた御簾と、磨き上げられた板敷き、そして人々の押し殺した呼吸が作り出す、人工的な静謐だ。そこでは、微かな咳払いですら政治的な意味を持ち、誰もが自らの「音」を殺して生きている。
その重苦しい静寂を脱ぎ捨て、厩戸王子と調子麻呂は夜の闇へと滑り出した。
王子は、その気高き身分を象徴する冠や豪奢な衣を脱ぎ、粗末な麻の直垂に身を包んでいる。調子麻呂もまた、細作としての漆黒の装束ではなく、里の者に紛れ込める薄汚れた野良着を纏っていた。
二人が宮の裏門を抜け、飛鳥を囲む鬱蒼とした森へと踏み入った瞬間、音の世界が一変した。
ザッ、ザッ。
湿った腐葉土を踏みしめる音が、これほどまでに生々しく響くものか。王子は最初、慣れぬ足取りで危うく根に足を取られそうになったが、調子麻呂が影のように寄り添い、無言でその肘を支えた。王子の衣が木々の枝に擦れる「サワサワ」という乾いた音。夜鳥が羽ばたく「バサリ」という唐突な震え。それらすべてが、宮の中では決して聴くことのできない、制御不能な「生の音」であった。
森を抜け、開けた畦道に出たところで、王子は足を止めた。
彼は深く、肺の底にある宮の澱んだ空気を吐き出すように、夜の冷気を吸い込んだ。ヒュウ、という王子の細い呼吸音が、飛鳥の夜風と混ざり合う。
「……調子麻呂よ、これが『外』の息吹か」
王子の声は、宮で見せる峻厳なそれではなく、一人の若者としての震えを帯びていた。月明かりに照らされたその横顔から、一国の守護者としての仮面が剥がれ落ちていく。調子麻呂は、王子の歩幅が次第に力強くなっていくのを耳で感じていた。二人の間には、もはや主従という形式を超えた、同じ土を踏みしめる者同士の、泥臭くも確かな共鳴が生まれていた。
里に近づくにつれ、音は「風景」から「苦痛」へと変質していった。
最初に見えてきたのは、干ばつでひび割れた田を、夜通し鍬で打つ老人の姿だった。カツン、カツン。乾いた土を叩くその音は、まるで骨を削っているかのように虚しく響く。そこには希望の音色は一切なく、ただ「明日も生きねばならぬ」という呪縛のようなリズムだけがあった。
村の家々の軒先を通り過ぎる時、調子麻呂の耳は、壁の隙間から漏れ出す無数の悲鳴を拾い上げた。
飢えで泣きじゃくる赤子の声は、すでに泣く力さえ失い、ヒィ、ヒィという細い笛のような音に変わっている。それをあやす母親の歌声は、喉が乾ききっているのか、砂を噛むような「掠れた旋律」であった。その歌には慈しみよりも、行き場のない絶望が濃く滲んでおり、聴いているだけで胸の奥が掻きむしられるような不協和音となって調子麻呂の鼓膜を震わせる。
さらに奥の家からは、激しい咳が聞こえてきた。コンコンと響くその音は、湿り気を失い、まるで枯れ葉が擦れ合っているかのように軽い。王子は、その咳き込む老人の小屋の前で、ふと足を止めた。調子麻呂が危険を察して制止しようとしたが、王子はそれを手で遮り、泥にまみれた土間に膝を突いた。
「……水だ。水を……」
震える老人の声に、王子は自らの腰にある水筒を解き、その枯れ木のような頭を優しく抱きかかえて水を飲ませた。ゴクリ、という老人の喉の音が、静寂の中で不気味なほど鮮明に響く。
「あんた、どこのお人だ……。こんな薄汚れた年寄りに……」
老人が濁った瞳で王子を見上げた。王子は答えず、ただ老人の汚れた手を強く握りしめた。その瞬間、調子麻呂には聞こえた。王子の掌を通じて、老人の「諦め」という不協和音が、王子の内に流れ込み、激しく衝突する音を。
(この音の正体は、命の枯渇だ)
調子麻呂は痛感した。馬子が語る「仏法の栄光」の裏側で、この国の根幹である民の音は、これほどまでに細く、無慈悲に踏みにじられている。王子の瞳には、暗い夜の底で喘ぐ民の姿が、痛みを持った「個」の旋律として焼き付いていた。
里を抜け、飛鳥の北端にある小豪族・阿倍氏の別邸付近に差し掛かった時、調子麻呂の耳が異変を察知した。
「……王子、止まってください」
調子麻呂が低く囁き、王子の肩を引いて茂みの陰に身を潜めた。
細作としての感覚が、周囲の空気の「重さ」が変わったことを告げていた。遠くの屋敷の中から漏れてくるのは、民の嘆きとは正反対の、鋭く尖った「暴力の音」だった。
キィ、キィ。
それは石で刃を研ぐ、冷徹な金属音。
ガシャリ、ガシャリ。
革の当世具足がぶつかり合い、戦支度を急ぐ武者たちの荒い動き。
そして何よりも、馬を急かせる鞭の「ピシッ」という乾いた破裂音と、低く唸るような男たちの怒号が、闇の中に毒のように染み出していた。
「馬子の首を獲らねば、我らに明日はない」
「蘇我の独裁を許すな、力には力を。仏などという得体の知れぬ神に、我らが土地を明け渡してなるものか」
その声は、正義という名を借りた憎悪の不協和音であった。馬子の強引なやり方に反発する小豪族たちが、密かに兵を集め、反乱の機会を窺っている。彼らが奏でようとしているのは、さらなる流血と破壊を招く「復讐の旋律」に過ぎない。
調子麻呂は、彼らの心臓の鼓動が早まり、殺意によって血流が激しくなっている音までをも聴き取っていた。それは一度火がつけば、飛鳥のすべてを焼き尽くす、制御不能な炎の胎動であった。王子はこの闇の会話を聴き、唇を血が滲むほど強く噛み締めた。支配か、破壊か。二つの不協和音が、大和という大地を真っ二つに裂こうとしていた。
宮への帰路、王子の足取りは重かった。
馬子が強いる「強権による秩序」という冷たい静寂。豪族たちが目論む「暴力による変革」という狂った騒乱。
そのどちらもが、先ほど里で聴いた老人の「嘆きの旋律」を救うことはできない。王子は激しい葛藤の中にいた。
「調子麻呂、私には何ができる」
王子の独白が、夜の森に消えていく。
「力で押さえつければ、反発の音はより大きく、鋭くなる。かといって、憎しみに身を任せれば、国は崩壊の旋律を奏でるだろう。どちらも、真の音ではない」
王子は、暗闇の中で泥に汚れた自らの掌を見つめた。あの老人の震える手の感触が、まだそこに残っている。
その時、調子麻呂の耳は聴いた。王子の胸の奥、激しい葛藤の嵐の底から、今まで聴いたことのない、極めて小さく、しかし驚くほど澄んだ「響き」が生まれる音を。
それは、対立する二つの音を無理やり一つにするのではなく、互いの響きを認め合いながら、大きな流れの中に調和させていくような、全く新しい旋律の産声だった。
調子麻呂は息を呑んだ。それは、暴力でも支配でもない、第三の旋律――「和」という名の秩序が、王子の魂の中で形を成し始めた瞬間であった。まだ言葉にはなっていない。しかし、その小さな萌芽は、飛鳥のどの不協和音よりも力強く、闇を貫く輝きを秘めていた。調子麻呂は、この世界でただ一人、その奇跡的な誕生の音を、全身の細胞で受け止めていた。
宮の門が近づいた時、王子の瞳に一点の迷いもなくなっていた。
王子の脳裏を、これまでに聴いたすべての音が駆け巡る。嘆き、怒り、祈り、そして静寂。それらを束ねるための、至高の旋律が言葉となって浮かび上がった。
(以和為貴、無忤為宗……)
――和をもって貴しとなし、忤うことなきを宗とせよ。
それは、後に「十七条憲法」としてこの国に不朽の響きを刻むことになる、最初の調べであった。王子は調子麻呂に向き直り、小さく、だが力強く頷いた。
「聴こえるか、調子麻呂。これが、私が見つけた音だ」
その声には、もはや一人の若者としての震えはなかった。夜明け前の最も深い闇の中で、二人は新しい大和の夜明けを、その「音」の中に確信していた。
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