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  作者: しゅう


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心の誕生:前編4

甲斐の峻烈な冬を越え、幾多の山河を越えた先、調子麻呂(つきのしまろ)と黒駒の眼前にようやく「飛鳥」の地が姿を現した。

そこは、これまでに彼が目にしてきたどの地とも違う異質な熱量に満ちていた。日高見の原始的な生命の咆哮とも、かつていた百済(くだら)泗沘(しひ)の完成された優美とも違う。飛鳥の空に響いていたのは、巨大な石を曳く無数の足音、くさびを打ち込む金属音、そして大陸から運ばれた最新の知を競い合う人々の野心に満ちた喧騒であった。


調子麻呂の鋭敏な耳は、その混沌とした騒音を、まるで見えるかのように細密な色分けをされた「音の絵図」として捉えていた。

まず彼の鼓膜を震わせたのは、山肌を削り、巨大な石材を運び出す人々の地響きのような唸り声だ。しかし、それはただの労役の音ではない。大陸式の滑車と綱が、軋みながらも強大な重力に打ち勝とうとする、知的な「制御された力」の響きであった。

谷間からは、寺院の瓦を焼く窯の音が立ち上っている。火道を通る風が、笛のように高い音を鳴らし、その中で粘土が焼き締まっていくパチパチという細かな爆ぜ音が、まるで数万の命が脈動しているかのように聞こえる。その煙の匂いと共に届く音は、かつて泗沘で聴いた「文明の呼吸」と同じものだった。

さらに歩みを進めれば、建設中の寺院からは、石に仏の教えを刻むたがねの鋭い打撃音が四方に飛散していた。カツン、カツンと一定のリズムで刻まれるその音は、無形の祈りが有形の石に定着していく聖なる拍子だ。

灌漑の溝を穿つくわの乾いた土音、水を制御するために組まれた水車の、水の重みを逃がしながら回る規則正しい回転音。調子麻呂はそれらを聴きながら、この国の土が、大陸のことわりによって急速に書き換えられていく光景を視覚よりも鮮烈に「視て」いた。

「この国は、唸りながら脱皮しようとしている……」

建設途中の寺院の屋根には、朱塗りの垂木が鮮やかに天を差し、異国の僧侶たちが未知の言葉で唱える経が、重低音の通奏低音となって飛鳥の盆地に響き渡る。多くの渡来人、役人、そして市井の民が入り乱れる中、調子麻呂は不思議な「嵐の前の静けさ」を感じていた。それは、古い殻を脱ぎ捨て、新しい国の姿へ生まれ変わろうとする直前の、巨大な(ちから)が一点に収束していく際の、真空のような静寂であった。

彼は黒駒の首筋に触れ、自らの鼓動を鎮めた。この複雑に織り上げられた音のパッチワークの奥底にある、真実の「一音」を聴き取ろうとするかのように。


大和の朝廷では、新たな国造りの象徴として各地から名馬を募る「選定の儀」が執り行われていた。

広場には、金銀の飾りをこれでもかと纏わせた豪族自慢の駿馬たちが並んでいた。それらの馬は、主人の権威を象徴するかのように美しく整えられていたが、調子麻呂の耳には、それらが纏う「飾り」が発する金属的な摩擦音と、急激な環境の変化に怯える馬たちの荒い呼気が、不協和音となって届いていた。

その華やかな円陣の中に、一人の若者が足を踏み入れた。

ボロボロになった麻の衣に、風に焼かれた浅黒い肌。そして、飾り一つない、夜の闇をそのまま切り取ったような漆黒の駒。調子麻呂と黒駒の姿は、あまりにも異様で、あまりに無機質であった。

「おい、見ろ。あんな野良犬のような若者が、朝廷の神聖な場に迷い込んできたぞ」

「馬に飾り一つないではないか。貧相なことだ。あれでは馬が可哀想ではないか。どこの田舎から迷い込んだのか」

周囲の貴族たちから、さざ波のように不躾な嘲笑が広がる。ある者は露骨に鼻を鳴らし、ある者は「汚らわしい」と言わんばかりに扇で顔を隠した。

しかし、調子麻呂はその悪意に満ちた声を、ただの「枯れ葉が擦れる音」として聞き流した。日高見の嵐や、甲斐の地吹雪に比べれば、人の放つ言葉など、実体のない空虚な振動に過ぎない。

黒駒もまた、王者のように泰然としていた。周囲の馬たちが、慣れぬ人混みと主人の虚栄心の重圧に、怯えの混じった不規則な呼吸を繰り返す中、黒駒だけは、大地から直接力を吸い上げるかのように、深く、静かな呼吸を保っている。その姿は、騒音の中の一点、完全な静寂を体現していた。


その時、広場の空気が一変した。

幾重にも重なる役人たちの壁が左右に割れ、一人の人物が静かに歩み寄ってきた。

厩戸王子である。

その立ち姿から放たれるのは、力による威圧ではなく、全てを透徹するような澄んだ神気であった。王子が歩むたび、騒がしかった貴族たちが潮が引くように静まり返る。

王子の歩みは、調子麻呂の前でぴたりと止まった。

調子麻呂は、王子の瞳を見た。そこには、十人の声を同時に聴き分けるという伝説に相応しい、底知れぬ深淵があった。王子は周囲の雑音を聴いているのではない。調子麻呂の瞳の奥、そこに封じ込めた「百済の記憶」と、日高見で浴びた「原始の風」、そして甲斐で鍛えた「火の執念」を、一瞬にして聴き取っているように思えた。

二人の間に、刹那の沈黙が流れた。

その沈黙は、この飛鳥の喧騒全てを飲み込むほどに深く、重かった。あまりに多くを聴きすぎてしまう王子の耳にとって、世界は常に暴力的な音の奔流だったはずだ。だが今、調子麻呂と向き合うこの空間にだけは、一点の濁りもない「静寂の調べ」が流れていた。

王子の瞳に、かすかな揺らぎが生じた。それは、自分と同じように音の本質を理解し、その調律によって世界を癒やすことができる「同類」を見出した驚きのようであった。


沈黙を破ったのは、鈴を振るような王子の声であった。

「お前の名は」

「……調子麻呂つきのしまろと申します」

調子麻呂は、大和の言葉で答えた。しかし、王子はわずかに目を細め、彼にしか聞こえないほどの微かな声で、しかし断定するように言った。

「……百済人か」

調子麻呂の背筋に、戦慄が走った。埋め、捨て、殺してきたはずの己の根源を、この若き賢者は一言で見抜いた。否定する言葉は、喉の奥で消えた。王子の前では、あらゆる偽りは霧散してしまう。

王子はそれ以上追及せず、ゆっくりと手を伸ばして黒駒の鼻筋に触れた。その時、黒駒がこれまでに一度も見せたことのないほど穏やかな嘶きを上げた。

「この駒は、大地の底から響く天の調べを運ぶ翼だ。そして、お前の耳は、私の心の奥にある誰にも届かぬ『音』を拾う」

王子は調子麻呂を真っ直ぐに見据えた。

「これより、私はお前の耳を信じよう。お前は私の孤独を支えよ」

それは主従の契約であると同時に、二人で一つの「壮大な調べ」を奏でていくという、魂の契約であった。

調子麻呂は、その場に深く跪いた。かつてチョ・ミョンと呼ばれた少年が、日本の調子麻呂として、真の主を見出した瞬間であった。

西の空には、夜の帳が降りようとしていた。

広がる夕闇の中、王子と調子麻呂、そして一頭の黒駒。その三つの影は、大和の新しい夜明けを予感させるように、どこまでも長く、深く伸びていた。

読んでいただきありがとうございます。

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