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  作者: しゅう


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命とは何か4

その夜、北国の空は不気味なほどに赤黒く染まっていた。

収穫をわずか数日後に控えた九月の末。季節外れの巨大な台風が、飢えた獣のような足取りで北上してきていた。窓を叩く雨の音は、もはや雨粒のそれではなく、重いつぶてを投げつけられているような衝撃となって執務室に響いていた。


翌朝、結がバスを降りて目にしたのは、昨日までの世界とは似ても似つかぬ、地獄のような光景だった。

車窓から見えていたあの圧倒的な黄金の海は、一夜にして消え失せていた。たわわに実り、収穫を待つばかりだった稲穂たちは、暴風に叩きつけられて無残になぎ倒され、溢れ出した泥水の下で窒息するように沈んでいる。

倒伏とうふく」――事務提要で学んだその冷たい二文字が、目の前の惨状と重なった。

泥を被った稲穂は、もう二度と起き上がることはない。それは、農家の人々が春から慈しみ、育ててきた「命の結晶」が、一瞬にしてただのゴミへと成り果てたことを意味していた。


「……嘘だべ、こんなの、あんまりだ……」

庁舎の入り口には、すでに数人の農家が立ち尽くしていた。カッパも着ずに、全身を泥と雨に濡らした彼らの瞳には、光の一片も宿っていない。

庁舎の中は、戦場のような殺気と、氷のような静寂が同居していた。

「佐藤さん、早く席に着きなさい。今日から特別態勢よ」

小野寺の声は、いつになく鋭く、そしてかすかに震えていた。

結がデスクに着くやいなや、重い扉が蹴り開けられるようにして、次々と農家の人々が窓口に詰めかけてきた。

「課長を出せ! これ、どうすんだ! あと三日で刈り取りだったんだぞ!」

「共済は下りねぇってどういうことだ! おらたち、何食って冬を越せばいいんだ!」

怒号と嗚咽が、執務室の空気を切り裂く。

しかし、奥のデスクに陣取った課長は、新聞を広げることさえせず、ただひたすらに算盤を叩き、電卓を叩き、淡々と「数字」を処理していた。

「……落ち着いてください。天災は自己責任が原則です。規定の被害率に達しない限り、救済措置は発動できません。佐藤、小野寺。余計なことは言うな。機械的に受付を済ませろ。書類に不備があるものは、全て『保留』だ」

課長の放つ言葉は、台風の風よりも冷たく、容赦がなかった。

結の前に差し出されたのは、泥水で汚れ、破れかけた罹災りさいの申請書だった。それを差し出す老農夫の指先は、絶望のあまり小刻みに震えている。

半年前に見た、あの老人の手と同じだった。

結は事務提要をめくろうとしたが、手が止まった。

ここで「不備があります」と言えば、この目の前の命は、再びあの時のように「放置」される。

隣では小野寺が、唇を噛み締めながら、マニュアル通りの言葉を繰り返していた。しかし、その手元はわずかに迷っている。

 

「先輩……」

結が小声を出すと、小野寺はふいに、自分の紺色の腕差しを外した。

そして、結にだけ見えるように、デスクの奥から一冊の古びたファイルを取り出した。それは、公の事務提要には載っていない、歴代の職員たちが極秘に引き継いできた「知恵」の記録だった。

「佐藤さん。組織には『型』があるけれど、その型を少しずらすだけで、救える命があるの。これは、昭和のあの大飢饉の時に、先輩たちが必死で編み出した『特例の解釈』よ」

小野寺の瞳に、初めて「事務職のプロ」ではない、一人の人間としての強い光が宿った。

「……受け取って。これが、私があなたに渡せる唯一のものよ」


「課長、いい加減にしてください!」

怒号と共に、窓口のカウンターが激しく叩かれた。飛び込んできたのは、農協の営農指導員である若者だった。彼の長靴は膝まで泥にまみれ、肩で荒い息をついている。

「組合員たちの田んぼは、今この瞬間も泥水に浸かってるんです! 共済の損害評価を待っていたら、カビが生えて飼料にさえならなくなる。今すぐ、役所として特例の早期刈り取りの許可を出してください!」

課長は、視線すら上げずに算盤の玉を弾いた。パチパチという乾いた音が、農協職員の情熱を嘲笑うかのように響く。

「農協さんは威勢がいいがね、うちは国の会計検査を受ける立場だ。共済金の支払基準は、国が定めた調査員が『目視』で確認するのが大原則だ。勝手に刈り取ったものをどうやって評価しろと言うんだ。基準に合わないものは、一律『対象外』だ。わかったら、彼らを連れて帰りなさい」

「基準、基準って……あんた、この泥だらけの稲を見て、まだそんなことが言えるのか!」

若者が叫ぶが、課長は冷淡に次の書類へ判を突いた。


結は、小野寺から託されたファイルを、震える指で開いた。

そこには、昭和三十年代の冷害や、かつての大水害の記録が、手書きの朱書きと共に遺されていた。

『……共済金の支払基準には、不可抗力による「品質低下」の条項あり。目視不能の場合、農協の集荷記録をもってこれに代えることが可能……』

それは、過去の先輩たちが、役所の厚い壁を内側から崩すために見つけ出した、法の「抜け道」という名の救済策だった。

「佐藤さん、何を迷っているの」

小野寺の静かな声が、結の耳元で響いた。

「あなたは今、何を『放置』しようとしているの?」

結は、ハッとして顔を上げた。

目の前には、罹災申請書を握りしめたまま、うなだれている老人がいた。その泥まみれの手は、結が半年間、必死に守り続けてきた「清潔な窓口」を汚している。けれど、今の結にはその汚れが、言葉にならない悲鳴のように見えた。


「……おじいさん、その書類、もう一度見せてください」

結の声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。

彼女は、課長に見えない角度で、小野寺から教わった「救いの書き換え」を始めた。

「ここに書くのは『倒伏』だけではありません。『冠水による発芽被害』と、特記事項に『農協の品質証明を添付予定』と書き足してください。そうすれば、国が定めた『例外規定』の対象になります」

「おい、佐藤! 何を教えている!」

課長の鋭い叱咤が飛ぶ。

しかし、結は止まらなかった。彼女は、手首を締め付けていた紺色の腕差しを、自らの手で引きちぎるようにして外した。皮膚に残るゴムの跡が、ひりひりと熱い。けれど、その痛みこそが、自分が今、血の通った人間としてここに立っている証拠だった。


「課長、事務提要の第百十二条、特例救済の項を確認しました。未曾有の災害時、現場の判断で申請の形式を補完できるとあります。私は、担当者として、この申請を受理します」

結は、目の前の老人の瞳を真っ直ぐに見つめた。

半年前、あのおじいさんに見せることができなかった、本当の「役人」の姿。

お茶を運び、算盤を弾き、誰かの背景として生きていた「結」は、もうどこにもいなかった。

「おじいさん、この町で生きてください。私たちが、それを支えます」

老農夫の目から、大粒の涙が溢れ出し、泥で汚れた結の手の上に落ちた。

温かかった。

命とは、数字や型ではなく、この手の上に落ちた涙の温度そのものではないか。

窓の外では、まだ台風の余韻が吹き荒れている。

しかし、結の心の中には、かつて見た黄金の海よりもずっと眩しい、希望の光が差し込んでいた。

彼女は、バッグの中に眠る手鏡を、ゆっくりと取り出した。

そこには、髪を乱しながらも、凛として前を向く、一人の「命」としての女性が映っていた。

読んでいただきありがとうございます。

下の★~★★★★★で評価してもらえると勉強になります。

感想などいただけると嬉しいです。



『トコノウタヒ』を書き終えたあと、次のお話を作ろうと試行錯誤してきましたが、なかなか形にできずにいました。

けれど、天野成美さんの著書『カタカムナ』の第2首に触れたとき、ふと、自分の中にある言葉たちが「声」となって動き出しました。

そうして生まれたのが、この短編集の最初の一作目です。

こんな感じですが、短編を重ねていきたいと考えております。

これからもよろしくお願いいたします。

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