心の誕生:前編3
日高見を去る朝、多治はチョ・ミョンの前に立ち、その鋭い眼光で少年の全身を射抜くように見つめた。
「ミョンよ。お前が西へ向かうというのなら、その身なり、その所作、そしてその名をここに置いていけ」
多治の言葉は冷徹だった。大和の朝廷は今、大陸の才を求めつつも、出処の知れぬ異国人には疑いの目を向けている。特に百済の貴族然とした気品や、知性ゆえの隙のない立ち振る舞いは、かえって仇となる。
「化けるのだ。この地の泥にまみれ、風に焼かれた、ただの馬飼いの若者に。さもなくば、関所を越える前に命を落とすだろう」
チョ・ミョンは静かに頷き、百済から唯一肌身離さず持ってきた「白玉の帯留め」を取り出した。それは亡き母から授かった、泗沘の栄華を象徴する精緻な細工物であった。彼はそれを、日高見の清流のほとりに掘った深い穴の中へ落とした。
湿った土を被せるたび、指先に伝わる冷たさが、自らの過去を埋葬する感触のように思えた。
(さらば、チョ・ミョン。泗沘の光よ、母上の微笑みよ……)
彼は心の中で、自分自身の名を葬った。高価な絹の衣を脱ぎ捨て、多治から譲り受けた粗末な麻の衣に袖を通す。肌を刺す麻の荒い感触は、新しい生へと踏み出すための、痛みを伴う洗礼であった。
日高見を離れ、足柄の険しい山を越える頃、彼は最初の試練に直面した。集落の入り口に立つ防人たちが、鋭い矛を向けて彼を呼び止めたのだ。
「何者だ、その黒き馬を連れた異様な若者は。名を名乗れ」
一瞬、喉の奥まで「チョ……」という音がせり上がった。しかし彼は、それを飲み込み、日高見で習得した柔らかな和の音を、絞り出すように発した。
「……調の、一族の者です」
大陸の姓である「調」を、この国の言葉で「貢ぎ物」を意味する「つき」へと変換した。咄嗟に出たその言葉に、防人たちは顔を見合わせた。
「調の……しまろ(麻呂)か。この辺りには聞かぬ名だが、その黒駒を扱う手つき、ただの者ではあるまい。よかろう、通れ。調のしまろよ」
「調子麻呂」。
背後で投げかけられたその響きが、彼の耳に、そして胸の深淵に、波紋のように広がっていった。「チョ・ミョン(調 明)」という名は、鋭く、一筋の光のように闇を切り裂く音であった。対して「つきのしまろ」という響きは、万物を静かに照らす月光のように、丸く、包み込むような余韻を持っていた。
旅を続けるうち、彼は各地の宿や馬市で、幾度もその名を名乗ることになった。
「しまろさん、こちらの馬の様子を見てくれぬか」
「調子麻呂殿、あんたの吹く笛は、風の音と見分けがつかない」
人々が彼をそう呼ぶたびに、かつての「チョ・ミョン」としての鋭角な自我が、少しずつ削られ、滑らかになっていくのを感じた。それは単なる偽名ではなかった。日高見の自然と対話し、日本の土に根ざして生きる中で、彼の魂自体が「和の音」へと変質していったのだ。
だが、その変化は安易なものではなかった。ある夜、旅の途中で足を挫いた際、咄嗟に百済の言葉で呻き声を上げそうになった。彼はすぐさま自らの唇を噛み切り、その痛みを契機に大和の言葉で叫び直した。
(お前は死んだのだ、ミョン。一度でもその名を思い出せば、張り詰めた糸が切れ、全てが崩れ落ちる。お前は今、大和の音を奏でるための、空っぽの器なのだ)
彼はある夜、黒駒の傍らで自らの新しい名を、祈るように反芻した。
「つき……の……しまろ」
「ツ」は集まり、「キ」は放たれる。「シ」は静まり、「マ」は満ちる。そして「ロ」は、それらを受け止める器だ。
大陸の文字が「意味」で世界を定義するのに対し、この名は「震え」で世界と共鳴する。
百済人であることを隠し通すという恐怖は、いつしか、この新しい名によって世界がどう書き換えられるのかという期待へと変わっていった。
やがて、旅路は「甲斐の国」へと至った。
目の前に広がるのは、空を圧するようにそびえ立つ富士の山容と、その裾野に広がる広大な原野であった。
調子麻呂が辿り着いた頃、甲斐は峻烈な冬の最中にあった。富士の山頂から吹き下ろす「富士下ろし」は、水分を一切含まぬ冷徹な刃となって、調子麻呂の頬を切り裂いた。
日高見の森が「水の慈しみ」に満ちていたならば、冬の甲斐は「火の山の冷徹」に満ちていた。足元の土は火山がもたらした熱い砂を含みながらも、表面はガチガチに凍りついている。踏みしめるたびに、黒駒の脚には強烈な反発と刺激が与えられた。
夜、身を切るような寒さの中で、調子麻呂は黒駒の深い毛並みに顔を埋めた。
「お前だけだ……お前の鼓動だけが、私が生きている証だ」
馬の巨大な肺が吸い込み、吐き出す白息。その熱に触れながら、調子麻呂は黒駒と一つの塊になって震えた。この極限の寒さの中で、彼と馬を繋いでいるのは、もはや手綱でも命令でもなかった。互いの命の火を絶やさぬための、原始的な連帯であった。
「お前が私を生かし、私がこの脚を、誰にも負けぬ鋼に変えてやる」
調子麻呂は凍える指先で、黒駒の蹄の泥を丁寧に落とした。溶岩が固まった岩場を、雪を蹴立てて疾走する日々。その過酷さが、黒駒の蹄を鉄のように硬く、鋭く変貌させていった。
ある時、甲斐のベテラン馬飼いたちが、調子麻呂の訓練を遠巻きに眺めて嘲笑した。
「あんな若造が、馬を潰す気か。凍った岩場を走らせるなど正気ではない」
しかし、調子麻呂は無言で黒駒の蹄の形を整え、独特の「音」の技法を使って、馬の脚を大地と調和させた。数日後、同じ馬飼いたちは驚愕に目を見開くことになった。
「見ろ、あの黒駒を。凍土を、まるで春の野原のように翔けていくぞ」
「あの若者は一体何者だ。馬と話しているのではない、馬そのものになっている」
正体を隠しているつもりでも、馬を扱うその天才的な技量までは隠しきれなかった。甲斐の人々は、どこか神秘的な雰囲気を纏ったこの「調子麻呂」という若者に、畏敬と憧れの眼差しを向けるようになった。
甲斐の馬市には、大和の都から名馬を買い付けにくる役人たちの姿もあった。
焚き火の傍らで、調子麻呂は彼らの会話に耳を澄ませた。
「大和では、厩戸の王子がいよいよ政の表舞台に立たれるそうだ」
「あのお方は、一度に十人の訴えを聞き分け、その全てに的確な答えを授けるという。まさに神のごとき耳をお持ちだ」
「厩戸」……「馬宿」。
その言葉が耳に触れるたび、調子麻呂の脳裏には、かつて泗沘の密室で老僧から聞いた、あの「西方の伝承」が鮮烈に重なった。
(厩にて生まれし、聖なる子。万人の声を聴き、苦しめる者を救う光……)
遠い大陸の果て、砂漠を越えた西の国で語られる「救世主イエス」の物語。その誕生の逸話と、今まさにこの国で立ち上がろうとしている王子の名が、奇妙なほどに一致している。
だが、調子麻呂の中に芽生えたのは、単なる驚きだけではなかった。
(十人の声を聴き分けるというその耳は……その声の奥にある、出口のない『沈黙』までも聴き取っているのだろうか。王子の耳に届く音の中に、私と同じ『孤独の調べ』は混じっていないだろうか)
自分と同じように、あまりに多くを聴きすぎてしまうがゆえに、誰とも共有できぬ孤独を抱えているのではないか。調子麻呂は、まだ見ぬ王子に対して、痛烈なまでの共鳴と、一つの「問い」を抱いた。
(あの方なら、私がこの黒駒の脚に込めた『祈りの音』を、聴き取ってくださるかもしれない)
調子麻呂は、自らの胸元を握りしめた。
自分に与えられたこの「音を聞き分ける耳」と、甲斐の冬が完成させた「黒駒の脚」。それは、あの「救世主」に仕えるためにこそあるのではないか。
「私は、調子麻呂として、あの方の元へ行く」
百済のミョンとしてではなく、日本の調子麻呂として。
彼は、自らの内に確固たる軸が定まったのを感じた。西の空には、夕闇の中に金星が強く輝き始めていた。それは、かつて三人の賢者を導いたという、あの明星のようでもあった。
調子麻呂は黒駒の首筋を叩いた。
「ゆこう。私たちの主が、大和で待っている」
黒駒は、その主の決意に応えるように、大地を震わせる力強い嘶きを上げた。その音は、もはや野獣の叫びではなく、真の王の到来を予感させる、荘厳な響きを湛えていた。
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