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  作者: しゅう


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心の誕生:前編2

黄金の王都・泗沘を離れ、荒れ狂う玄界灘を越えて辿り着いた東の果て。そこは「日高見ひだかみ」と呼ばれ、太陽が最も早くその姿を現す、原始の生命が咆哮を上げる聖域であった。

少年、チョ・ミョン(調 明)が降り立ったその地には、百済の洗練された宮殿も、整然と区画された石畳の道も存在しない。目の前に広がるのは、天を突くほどに巨大な桂や杉の巨木が、幾重にも重なり合って空を覆い隠す、深緑の迷宮であった。

チョ・ミョンは、まずその「色の濃さ」に圧倒された。

泗沘の美しさが人工の朱や金によるものだとしたら、日高見の美しさは、命そのものが放つ、むせ返るような緑と、湿った土の黒、そして岩肌を流れる清冽な水の白であった。苔むした巨石イワクラの隙間からは、絶えず冷気と共にある種の「重厚な静寂」が立ち上り、木々の隙間から差し込む陽光は、まるで神の指先のように鋭く、地面の腐葉土を照らし出していた。

彼は、自らの繊細な感覚が、この圧倒的な自然の質量によって一度壊され、再構築されていくのを感じた。


チョ・ミョンは、多治たじの一族と共に、樹皮で組まれた粗末な小屋で寝起きし、まず「生きるための音」を学んだ。

日高見の夜は、泗沘の夜とは正反対であった。灯火に守られた王都の夜は静かだが、日高見の闇は、無数の命の息吹で騒がしい。焚き火で炙った鹿の肉を頬張り、その野性味あふれる脂が喉を焼くたびに、彼は自分がこの大地の一部へと溶けていく確信を得た。かつて大陸の絹に包まれていた肌は、今や風の冷たさを心地よい調べとして受け入れ、裸足の裏は土の湿り気から明日の天気を読み取るまでになっていた。


多治が山を指差し、「ヤマ」と口にする。その一音が発せられた瞬間、チョ・ミョンの耳には、山の向こうから吹き下ろす風の重なりと、動かぬ大地の底から響く振動が合わさったような「ヤ」の広がりと、万物を丸く包み込む「マ」の余韻が聴こえてきた。

彼は驚愕した。百済で学んだ漢字は、いしという字を見れば「硬いもの」という概念を脳に届けた。しかし、日高見の言葉は違った。「イ・シ」と発した瞬間に、その一音が空気の震えとなって直接魂を叩き、実際にそこに石が存在するかのような質量を伴って響くのである。

最初は、この膨大な情報の渦に脳が軋み、激しい頭痛に襲われる夜もあった。しかしある時、川のせせらぎが、単なる水の音ではなく「清めるための言葉」として身体に浸透してきた瞬間、彼の視界は一気に開けた。

「言葉は、意味を伝えるための道具ではない。それは、万物の魂を呼び覚ますための、調べなのだ」

チョ・ミョンは、多治たちの話す言葉を、貪欲に、そして祈るように吸収していった。

文字に頼らず、耳から入る音の震えだけで世界を把握する日々。

彼は、日高見の冷たい小川のほとりで、木の枝を使い、湿った砂の上に自らが見出した音の形を記し始めた。それは大陸の漢字ではなく、大和の音そのものを写し取るための、彼独自の「心の記号」であった。

「ア」は天から降り注ぐ光。「カ」は燃え上がる火の熱。「サ」は遮り、分ける風の鋭さ。

彼は、自分がかつて「神童」と呼ばれた理由が、この地で言霊を理解するためにあったのだと確信した。彼は瞬く間に、日高見の民と対等に会話を交わし、さらには彼らが無意識に使っている言葉の奥底にある「魂の震え」までもを、誰よりも深く聞き分けられるようになっていた。

その言葉の学びと並行して、彼は「黒駒」との絆を、命懸けで磨き上げた。


日高見の気候は厳しく、ある時は激しい嵐が森を揺らし、ある時は大地が不気味な唸りを上げて震えた。

そんな嵐の夜、黒駒はかつての狂暴さを取り戻したかのように、繋がれた柵の中で荒れ狂った。周囲の男たちが怯えて遠巻きにする中、チョ・ミョンだけは、裸足のまま泥を蹴って駒に近づいた。

彼は駒の首筋に額を押し当て、日高見の言葉を、歌うように奏でた。

「タ・カ・ア・マ……」

高き天の平らかな震えを模したその調べは、駒の昂ぶった血管を一本ずつ丁寧に解きほぐしていった。駒はチョ・ミョンの胸に鼻先を埋め、嵐の音に怯える子供のように静まった。

チョ・ミョンは、この駒も自分と同じなのだと悟った。この駒もまた、遠い異郷の血を引き、その鋭すぎる感覚ゆえに、この地の荒々しい生命の不協和音に耐えかねていたのだ。二つの孤独が、嵐の夜に一つに重なり、それは誰にも引き剥がせぬ最強の絆へと変わった。

「私たちは、二人で一つの旋律にならねばならない」

それからの日々、チョ・ミョンは黒駒の背に乗り、日高見の険しい山道を、まるで平地であるかのように駆け抜けた。

道なき道を切り拓き、断崖絶壁を風のように翔ける。

鞍をつけぬその背からは、馬の筋肉の収縮、血潮の熱、肺の動きまでもが、チョ・ミョンの太ももを通じて直接伝わってくる。彼は、自分が馬を操っているのではなく、自分自身が四つの脚を持ち、大地を掴んでいるかのような錯覚に陥った。

日高見の深い森を抜ける際、彼は目をつむった。

視覚を閉じれば、周囲の木々が発する「静止の震え」と、獲物の小動物が草むらで立てる「微かな震え」が、立体的な地図となって脳内に浮かび上がる。

彼はその「音の地図」を黒駒の意識に流し込み、駒はそれに応えて、一寸の狂いもなく障害物を避けて疾走した。

村の長は、その姿を見て、畏怖を込めて呟いた。

「あの童の口から出る言葉は、もう我らの言葉を超えている。森が彼に答え、風が彼に道を譲っているようだ」

日高見での月日が、チョ・ミョンの華奢な少年としての肉体を、しなやかで力強い「野の民」のそれへと作り変えていった。もはや、鏡を覗き込めばそこにいるのは百済の貴公子ではなく、陽に焼け、精悍な顔立ちとなった一人の和の若者であった。


ある晴れた日の午後。チョ・ミョンは、日高見で最も高い丘に立ち、遥か西の空を見つめていた。

そこには、多治が言っていた「大和」がある。

日高見の原始的な生活の中で、言葉と野生の力を統合したチョ・ミョンの中に、一つの強い好奇心と使命感が芽生えていた。

(ここ日高見には、生命の源となる調べがある。だが、西の大和には、その調べを束ね、新しい国の姿を描こうとする『知』があるという……)

彼は、自らの内に育った大和の言葉を反芻した。

それは、もはや単なる情報の伝達手段ではない。万物を慈しみ、和らげるための「歌」であった。

「大和は、この世界の混乱を、どのように整理しようとしているのか。私のこの耳と、この駒の脚は、そのためにこそあるのではないか」

チョ・ミョンは、手元の木片に、日高見で覚えた言葉を刻んだ。

それは、過去の自分への別れであり、未来への契約でもあった。

彼は多治を呼び、静かに告げた。

「多治さん。私はこの国の言葉を、魂で理解しました。そして、この駒と共に、より高き場所へ登る時が来たようです。私は、西へゆきます。この国の『心』の形を、確かめるために」

多治は、チョ・ミョンの逞しくなった肩に手を置き、深く頷いた。

「ゆくがいい、チョ・ミョン。お前の行く手には、まだ誰も聴いたことのない、壮大な調べが待っているはずだ」

こうして、日高見の風を翼に変えた少年は、一頭の黒き神馬と共に、運命が渦巻く大和の地へと、静かに、しかし力強く歩みを進めたのである。

読んでいただきありがとうございます。

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