選択3
朝、瞼を開けると、そこにはいつも変わらない木の天井があった。
メトセラの家の、古い樹木が放つ静かな匂い。それが私の新しい一日を告げる合図だ。私は寝床から起き上がり、自分の足の裏が冷たい床に触れる感覚を確かめる。
「ノア」
胸の中で、授かったその名を一度だけ呟いてみる。それは魔法の呪文ではないけれど、私の輪郭をこの世界に繋ぎ止めてくれる、唯一の錨のようだった。
外へ出ると、隠れ里はまだ朝霧の中にあった。
「白」に焼かれたあの日、私を抱えて走ったあの男の、泥だらけの腕の感触をふっと思い出すことがある。彼は今、どこで、どの空を見上げているのだろうか。あの日、雨の中に消えていった彼の背中は、私に「生き延びろ」と無言で告げていた。
だから私は、今日も歩き出す。
ふと、頭上で鋭い風を切る音がした。
霧を切り裂き、翼を持つ子供たちが空へと舞い上がっていく。彼らは重力など初めから存在しないかのように、自由自在に、滑らかに、朝の光の中へと溶け込んでいった。
私は足を止め、首が痛くなるほど空を見上げる。
彼らの羽ばたきは、言葉にできないほど美しい。金色の光を弾く羽、風を捉えて旋回するしなやかな体。かつて私の中にあった恐怖や悲しみは、その飛翔を見ている間だけは、どこか遠くへ消えていく。
私は彼らのようには飛べない。
どれほど腕を伸ばしても、指先が触れるのは冷たい大気だけで、体は常に重たい土の上に引き戻される。けれど、その事実に絶望することはなかった。むしろ、見上げる空があれほどまでに高く、あんなにも美しい者たちがそこを舞っているということが、私の心を静かな喜びで満たしていた。
自分は、あの光景の一部なのだ。
飛べないこの足が、飛べる彼らと同じ大地を踏み締めている。そのことが、たまらなく誇らしかった。
私は修行を始めた。驚くほど地味で、淡々としたものだ。
ただ、歩くこと。ただ、走ること。そして、ただ跳ぶこと。
里の周りにある起伏の激しい道を、私は毎日、同じ時間に駆け抜ける。
石の尖った感触、湿った土の柔らかさ、足の指の間をすり抜けていく草の露。
「飛べないのなら、誰よりもこの大地を知ろう」
そんな大それた決意があったわけではない。ただ、体を動かしていると、自分の命が確かにここに在るという手応えがあった。
崖の端に立ち、風の流れを肌で感じる。一歩、強く地を蹴って、宙に身を投じる。ほんの数秒にも満たない滞空時間。指先が空の端を掠めるような錯覚。そして、再び重力が私を捉え、足の裏に衝撃が伝わる。
「……また、明日だ」
砂を払い、立ち上がる。昨日と同じ動作。昨日と同じ感覚。
手応えなど、どこにもない。高く跳べるようになったわけでも、風を操れるようになったわけでもない。けれど、私の脚には、日々の反復が刻んだ目に見えない硬い筋肉と、確かなリズムが宿り始めていた。
里には、私と共に届けられた五十人の仲間たちがいる。
私たちは言葉を多く交わすことはないが、共に薪を拾い、水を運び、木の実を分かち合う。彼らの中には、私と同じように地に縛られた子もいれば、少しずつ自分の異能に目覚めていく子もいた。
夕暮れ時、疲れ果てて座り込む私の隣に、誰かがそっと座る。
「……いい風だね」
誰かが呟く。私は頷く。
ただそれだけのことが、胸が痛くなるほどに幸せだった。
かつて家族を失い、家を焼かれ、名前さえ持たなかった私たちが、こうして静かに風を感じている。メトセラの深い眼差しに見守られながら、私たちはただの「命」として、そこに在ることを許されていた。
メトセラは、決して私に「こうしろ」とは言わなかった。
傷だらけで戻ってくる私の足を、彼はただ静かに見つめ、時に温かな薬湯を差し出してくれるだけだ。彼の沈黙は、深く、優しい。
彼が体現している「理」が何なのか、私にはまだ分からない。けれど、彼がそこに座っているだけで、この隠れ里の時間は永遠の一部であるかのような錯覚を覚える。
私は、何者にもなれていない。
「ノア」という大きな名にふさわしい器になれた確信もない。
けれど、今日も泥にまみれたこの足が、愛おしい。
空を舞う光の粒のような子供たちを見上げ、大地を走る自分の呼気を感じる。
この、どこまでも淡々とした、繰り返される日々の積み重ね。
それこそが、私に与えられた最も美しい「選択」の結果であるような気がしていた。
陽が沈み、里が夜の静寂に包まれる頃、私はまた、明日という一日を想う。
明日もまた、目覚めれば足の裏で床の冷たさを確かめるだろう。
明日もまた、空を見上げ、届かぬ指先を伸ばすだろう。
それでいい。それがいい。
私の内側で燃える小さな火は、音も立てずに、けれど力強く、私の行く末を照らし続けていた。
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