表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
  作者: しゅう


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

35/52

選択3

朝、瞼を開けると、そこにはいつも変わらない木の天井があった。

メトセラの家の、古い樹木が放つ静かな匂い。それが私の新しい一日を告げる合図だ。私は寝床から起き上がり、自分の足の裏が冷たい床に触れる感覚を確かめる。

「ノア」

胸の中で、授かったその名を一度だけ呟いてみる。それは魔法の呪文ではないけれど、私の輪郭をこの世界に繋ぎ止めてくれる、唯一のいかりのようだった。

外へ出ると、隠れ里はまだ朝霧の中にあった。

「白」に焼かれたあの日、私を抱えて走ったあの男の、泥だらけの腕の感触をふっと思い出すことがある。彼は今、どこで、どの空を見上げているのだろうか。あの日、雨の中に消えていった彼の背中は、私に「生き延びろ」と無言で告げていた。

だから私は、今日も歩き出す。


ふと、頭上で鋭い風を切る音がした。

霧を切り裂き、翼を持つ子供たちが空へと舞い上がっていく。彼らは重力など初めから存在しないかのように、自由自在に、滑らかに、朝の光の中へと溶け込んでいった。

私は足を止め、首が痛くなるほど空を見上げる。

彼らの羽ばたきは、言葉にできないほど美しい。金色の光を弾く羽、風を捉えて旋回するしなやかな体。かつて私の中にあった恐怖や悲しみは、その飛翔を見ている間だけは、どこか遠くへ消えていく。

私は彼らのようには飛べない。

どれほど腕を伸ばしても、指先が触れるのは冷たい大気だけで、体は常に重たい土の上に引き戻される。けれど、その事実に絶望することはなかった。むしろ、見上げる空があれほどまでに高く、あんなにも美しい者たちがそこを舞っているということが、私の心を静かな喜びで満たしていた。

自分は、あの光景の一部なのだ。

飛べないこの足が、飛べる彼らと同じ大地を踏み締めている。そのことが、たまらなく誇らしかった。


私は修行を始めた。驚くほど地味で、淡々としたものだ。

ただ、歩くこと。ただ、走ること。そして、ただ跳ぶこと。

里の周りにある起伏の激しい道を、私は毎日、同じ時間に駆け抜ける。

石の尖った感触、湿った土の柔らかさ、足の指の間をすり抜けていく草の露。

「飛べないのなら、誰よりもこの大地を知ろう」

そんな大それた決意があったわけではない。ただ、体を動かしていると、自分の命が確かにここに在るという手応えがあった。

崖の端に立ち、風の流れを肌で感じる。一歩、強く地を蹴って、宙に身を投じる。ほんの数秒にも満たない滞空時間。指先が空の端を掠めるような錯覚。そして、再び重力が私を捉え、足の裏に衝撃が伝わる。

「……また、明日だ」

砂を払い、立ち上がる。昨日と同じ動作。昨日と同じ感覚。

手応えなど、どこにもない。高く跳べるようになったわけでも、風を操れるようになったわけでもない。けれど、私の脚には、日々の反復が刻んだ目に見えない硬い筋肉と、確かなリズムが宿り始めていた。

里には、私と共に届けられた五十人の仲間たちがいる。

私たちは言葉を多く交わすことはないが、共に薪を拾い、水を運び、木の実を分かち合う。彼らの中には、私と同じように地に縛られた子もいれば、少しずつ自分の異能に目覚めていく子もいた。

夕暮れ時、疲れ果てて座り込む私の隣に、誰かがそっと座る。

「……いい風だね」

誰かが呟く。私は頷く。

ただそれだけのことが、胸が痛くなるほどに幸せだった。

かつて家族を失い、家を焼かれ、名前さえ持たなかった私たちが、こうして静かに風を感じている。メトセラの深い眼差しに見守られながら、私たちはただの「命」として、そこに在ることを許されていた。

メトセラは、決して私に「こうしろ」とは言わなかった。

傷だらけで戻ってくる私の足を、彼はただ静かに見つめ、時に温かな薬湯を差し出してくれるだけだ。彼の沈黙は、深く、優しい。

彼が体現している「理」が何なのか、私にはまだ分からない。けれど、彼がそこに座っているだけで、この隠れ里の時間は永遠の一部であるかのような錯覚を覚える。


私は、何者にもなれていない。

「ノア」という大きな名にふさわしい器になれた確信もない。

けれど、今日も泥にまみれたこの足が、愛おしい。

空を舞う光の粒のような子供たちを見上げ、大地を走る自分の呼気を感じる。

この、どこまでも淡々とした、繰り返される日々の積み重ね。

それこそが、私に与えられた最も美しい「選択」の結果であるような気がしていた。

陽が沈み、里が夜の静寂に包まれる頃、私はまた、明日という一日を想う。

明日もまた、目覚めれば足の裏で床の冷たさを確かめるだろう。

明日もまた、空を見上げ、届かぬ指先を伸ばすだろう。

それでいい。それがいい。

私の内側で燃える小さな火は、音も立てずに、けれど力強く、私の行く末を照らし続けていた。

読んでいただきありがとうございます。

下の★~★★★★★で評価してもらえると勉強になります。

感想などいただけると嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ