選択2
「安全な場所」など、この地上にはもう存在しないのではないか。
「私」を抱えて走る彼の腕は、すでに限界を越えて震えていた。
背後で鳴り響いていたアトランティスの轟音は、深い森の木々に吸い込まれ、いつしか遠い波の音のように聞こえていた。一度目の休息地として辿り着いた洞窟の影。けれど、彼はそこで腰を下ろそうとはしなかった。
「……ここもまだ、あいつらの手の中に落ちる」
彼の瞳に宿る、本能的な危機感。彼は自らの肩を一度強く回すと、再び私を抱え直し、さらに深い、より険しい山奥へと足を踏み出した。
旅は、そこから始まった。
道なき道を進む私たちの後ろには、いつしか列ができていた。
森の茂みで震えていた、黄金の毛並みを持つ小さな子。岩場の陰で親を待ち続けていた、虹色の鱗を纏った幼子。彼が地を蹴り、一歩ずつ進むたびに、どこからともなく「捨てられた命」たちが現れ、彼の背中を追った。
彼は言葉をかけない。ただ、泥まみれの足で一歩ずつ、確実に地を踏み締めながら、黙々と歩き続ける。
言葉など必要なかったのかもしれない。私たちは皆、あの「白」に世界を焼かれた者同士だった。彼の汚れた足跡が、私たちにとっての唯一の導標であった。
「私」が見つめていたのは、彼の背中越しに流れる、物質と精神の境界が溶け合うような奇妙な景色だった。空の色は次第に透き通り、森の呼吸が重なり合って一つの巨大な鼓動のように響き始める。
やがて辿り着いた、世界の屋根のような建物が、降り始めた雨にうたれていた。
そこには、時そのものが形を成したような老人が、ただ静かに佇んでいた。
彼は、最後の一振りの力を振り絞って、私を地面に降ろし、後ろに続く子供たちの群れを老人へと差し出した。
「いたな。上のものが、今夜お前がいるからすぐに行け。って言われて来たんだ。雨の夜だから断ろうと思ったんだが、上の者には逆らえないからな。」
「ほらよ。孤児50名。確かに届けたからな。」
彼はそれだけ言うと、礼も名誉も求めず、雨の闇へとすぐに立ち去っていった。一度も振り返ることのないその背中を見送りながら、私はその紹介が、魂の奥底から滲み出た祈りのようであったと、後になって気づくことになる。
それから、奇妙で穏やかな生活が始まった。
老人の住まう隠れ里では、種族の壁も、昨日までの恐怖もなかった。
私たちは共に火を囲み、森が与えてくれる果実を分け合い、ただ「命」としてそこに在ることを許された。言葉を覚える前の雛鳥のように、私たちは互いの体温を頼りに、少しずつ凍りついた心を溶かしていった。
ある夕暮れのことだ。
黄金色の陽光が里を包む中、老人が私を呼び止めた。
「お前を何と呼べばいい? お前の名は何というのだ」
私は不思議そうに首を傾げた。その瞳は、汚れを知らない子供のように澄んでいる。
「……ナマエって、何?」
その問いに、老人は慈しみに満ちた微笑みを浮かべた。
「名前とは、この世界に響くお前だけの音だ。お前が何者であり、どこへ向かうのかを指し示す、魂の羅針盤なのだよ」
老人は、静かに告げた。
「私はメトセラ。メトセラと呼ばれている。」
「今日からお前を、『ノア』と呼ぼう。」
ノア。
その「音」が空気中に放たれた瞬間、里の木々が一斉にざわめいた。
名前を持たなかった私が、初めて自分という存在を与えられた瞬間。
私の胸の奥で、小さな、けれど消えることのない火が灯ったのを、私は確かに感じていた。
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