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  作者: しゅう


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風の連鎖4

社長は、妻の細く、陶器のように透き通った手を握り直した。

指先の微かな震えが伝わらないよう、彼は精一杯の平静を装う。だが、彼の脳裏には、先ほど置き去りにしてきたあの交差点の光景が、焼き付いて離れない。

アスファルトに散らばった白いシーツ。それはまるで、これからこの世界に訪れる巨大な弔い旗のようにも見えた。

「あなた、顔色が良くないわ。本当に大丈夫?」

妻の穏やかな問いかけが、逃げ場のない刃となって彼の胸を抉る。


彼は知らなかった。自分が「急げ」と命じ、事故の現場を黙殺したあの数十秒の間に、どれほどの因果が歪んでしまったか。ただただ正体の分からない不安だけが募っていく。


「……少し、風が強すぎただけだよ。この街の風は、時々、意地悪をするからね」

社長は、窓の外を流れる雲を見つめながら答えた。

窓ガラスの向こう、地上では、彼が引き起こした渋滞がいよいよ臨界点に達しようとしていた。怒号とクラクションの嵐。だが、この防音完備の特別室には、その地獄のような喧騒は一切届かない。

この「静寂」こそが、特権階級である彼が手に入れた果実であり、同時に彼を蝕む猛毒でもあった。

ふと視線を落としたテレビ画面。音の消されたニュース番組の下部には、赤いテロップが流れ始めた。

『異国の地で、世紀のプロジェクトが最終局面へ。最新型ロケット、発射まで残り五分』

映像は、赤道直下の焼け付くような青空を背景に、威風堂々と立つロケットを映し出している。


その巨大な円筒の中に、あの一瞬のブレーキで生じた「数ミクロンの絶望」が潜んでいる。

社長は、込み上げてくる吐き気を必死に抑え込んだ。


妻が、楽しげにテレビを見上げ、声を弾ませた。

「きれいね。あれが宇宙へ行くのね。夢があるわ」

「ああ……。そうだね」

社長は、喉の奥に張り付いた唾を飲み込んだ。


これから起きることは「夢」などではない。

それは、看板を避け、帽子を追いかけ、シーツに目を塞がれた人々が積み上げてきた、無機質な物理法則の帰結だ。


カウントダウンの数字が、刻一刻と刻まれる。

病室の時計の針と、ロケットの発射タイマー。そして妻の心電図。

三つの異なるリズムが、一つの「破局」に向かって同期していく。

社長は、最期の祈りを捧げるように、妻の手を強く、痛いほどに握り締めた。

「……すまない」

蚊の鳴くような声で漏れた謝罪は、窓の外を吹き抜ける強風の唸りにかき消された。


無音のテレビ画面の中で、カウントダウンの数字が、ついに「0」に達した。

画面が閃光を放ち、次に映し出されたのは、轟音なき噴射炎に包まれて緩やかに上昇を開始するロケットの姿だった。それは、人類の傲慢なまでの挑戦を象徴する、白く巨大な、しかしどこか儚げな祈りの柱に見えた。

しかし、その祈りは、あまりにも些細な、数ミクロンの狂いによって打ち砕かれる運命にあった。

高度を上げ、青い空に白い航跡を残しながら、ロケットは予定の軌道を外れることなく突き進んでいく。管制室のスタッフたちは、一瞬の緊張から解放され、安堵の表情を見せ始めた。

だが、その安堵は、まさに嵐の前の静けさだった。

上空数万メートル。成層圏の入り口に達しようとしたその瞬間、白い巨体に、目に見えない微細な振動が走った。それは、あの一瞬の急ブレーキによって砕かれた基板に宿る、死に至る欠陥の囁きだった。

内部で組み込まれた、最高純度であるはずが、わずかに狂ってしまったプロセッサが、制御システムに致命的な誤作動を引き起こす。


その瞬間、ロケットの側面に、不気味な赤い閃光が走った。

そして、次の瞬間――白い巨体は、空中で巨大な炎の花弁を広げた。

無音の映像の中で、美しくも残酷な爆発が起きる。それは、数千本の針葉樹林が一瞬で燃え尽きるような、凄まじい熱量と破壊の連鎖だった。

ロケットの破片が、灼熱の火の粉となって四方八方に飛び散り、やがて白い煙と灰色のチリとなって、広大な青空に悲劇の絵を描いた。

それは、遠い異国の空で、あの三月の風に舞った居酒屋の看板や、老人のパナマ帽、そして主婦の手から滑り落ちた白いシーツが、最後の最後に「ひとつ」になった姿のようだった。

すべての「白」が、大気圏を覆う悲しみの塵となって、地球全体を包み込む。


病室に響くのは、妻の微かな寝息と、点滴の落ちる規則的な音だけだった。

しかし、社長の網膜には、テレビ画面の爆発の閃光が焼き付いていた。

次の瞬間、彼の握りしめた妻の手が、電撃に打たれたようにピクリと痙攣した。同時に、病室の窓ガラスが、今までとは比べものにならないほど激しく、けたたましい音を立てて震え上がった。

物理的な衝撃波が、数千キロの距離と数秒のタイムラグを越えて、この防音された部屋にまで達したのだ。

社長は目を見開き、反射的に窓の外に目をやった。

そこには、先ほどまでと変わらない、灰色の雲がたなびく午後の空が広がっている。だが、彼の耳には、世界中のどこかで、無数のガラスが砕け散るような、あるいは誰かの人生が崩壊していくような、想像を絶する破砕音が響き渡る幻聴が聞こえた。



ハッと、「私」は目を開けた。

そこは、数分前と全く変わらない、見慣れたリビングの窓辺だった。

春の陽光が部屋いっぱいに満ち、微かに沈丁花の甘い香りが漂っている。

頬を撫でる風は、先ほどまでの荒々しい唸りを潜め、穏やかなそよ風に変わっていた。まるで、あの狂ったような連鎖の夢が、最初から存在しなかったかのように。

だが、「私」の心臓は激しく脈打ち、額には冷たい汗が滲んでいた。

夢だったのか。それとも、遠い世界のどこかで、今まさに起きている現実を、風が運んできていたのか。

「私」はゆっくりと身体を起こし、窓の外に目をやった。

アスファルトの隅には、千切れ飛んだ「名物・煮込み」の看板が、ゴミのように転がっている。その向こうでは、老人が風に弄ばれながら、愛用の帽子を追いかけている。

そして、交差点の信号待ちで、一人の男が電動アシスト自転車のペダルを、引きちぎらんばかりの勢いで漕ぎ出す準備をしている。その男のカゴの中には、厳重に封をされた大きな革の鞄。

すべてが、数分前と同じ風景。

しかし、「私」の心は、もはや以前とは違っていた。

視界に入る一つひとつのモノが、風に揺れる街路樹の葉一枚までが、途方もないスケールの「連鎖」の一部に見える。


風が、また吹いた。

それは、春を告げる穏やかな風であり、同時に、世界中で起きている見えない因果を、今この瞬間も運び続けている「流れ」そのものだった。

「私」は、窓辺に飾られた沈丁花の小さな花びらに触れた。

その花が咲くこと、その香りが「私」の鼻腔をくすぐること。

そのすべてが、無数の「もしも」の連鎖の上に成り立っているのだ。

遠い空の向こうで、再び風が唸った気がした。

「私」は、そっと目を閉じ、風の音に耳を澄ませた。

世界は、決して偶然ではできていない。

風は、常にすべてを運び、すべてを繋いでいる。

読んでいただきありがとうございます。

下の★~★★★★★で評価してもらえると勉強になります。

感想などいただけると嬉しいです。



本作は、これで終話となります。

今回の物語は、カタカムナ第9首に触れている中で閃きました。

この首からは「バタフライエフェクト」という言葉が浮かび、調べたところ日本語のことわざでは「風が吹けば桶屋が儲かる」に当たると知ったので、それをもとにした物語にしました。

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