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  作者: しゅう


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30/56

風の連鎖2

窓の向こう、居酒屋の看板がアスファルトを削りながら転がった瞬間、一人の男がその渦中にいた。

保険会社の渉外員として、この街を何千回と走り抜けてきた男だ。

彼は電動アシスト自転車のペダルを、引きちぎらんばかりの勢いで漕いでいた。

カゴの中には、厳重に封をされた大きな革の鞄。その中には、ある中小企業の社長が数ヶ月悩んだ末に判を突くはずの、高額な生命保険の契約書類一式が入っている。


予定の時刻まで、あと七分。

信号を二つ越え、踏切を一つ渡れば、社長の待つ応接室に辿り着くはずだった。

しかし、突風はその計算を無慈悲に踏み潰した。

角の居酒屋から千切れ飛んだ「名物・煮込み」と書かれた木製の看板が、まるで生き物のような跳躍を見せ、男の自転車のわずか数メートル先で進路を塞ぐように横たわったのだ。

 

「……っ!」

男は悲鳴のような声を上げ、力任せにブレーキレバーを握った。

乾いたアスファルトの上で、タイヤが甲高い悲鳴を上げ、車体は大きく右に傾く。辛うじて転倒は免れたものの、自転車の挙動を立て直すのに、男は貴重な数秒を費やした。

看板は、道路を完全に塞いでいるわけではない。だが、その背後から来ていた軽トラックが、倒れた看板を避けようとして不自然な膨らみを見せた。

対向車線から来ていたセダンが、その軽トラックを回避するためにハンドルを左に切る。

 

それは、街のどこにでもある、小さな交通の乱れに過ぎなかった。

普段ならば、舌打ち一つで終わるような出来事だ。

だが、この瞬間の「ズレ」が、まるで水面に投げ込まれた石のように、周囲の時間を歪めていく。

渉外員の男は、焦燥に駆られて腕時計に目をやった。

秒針は、彼の焦りなど意に介さず、冷酷なリズムを刻み続けている。

看板のせいで出来た「淀み」を抜けるのに、彼はさらに十秒を失った。

その十秒があれば、彼は次の交差点を「青」で渡りきることができたはずだった。

だが、彼が交差点に差し掛かったとき、信号は非情にも黄色から赤へと変わった。

男はハンドルを握りしめ、歯噛みした。

信号待ちの六十秒。

もし、あの看板が飛ばなければ。もし、朝の沈丁花の香りに見惚れて散歩を長引かせなければ。

そんな無意味な「もしも」が、彼の脳内で激しく火花を散らす。

 

信号機の向こう側では、彼が会うはずだった社長が、応接室の時計を眺めていた。

その社長にとっても、この数分はただの待ち時間ではなかったのだ。

彼には、この契約を結んだ直後に、長年連れ添った妻が入院している病院へと向かう予定があった。

一分、また一分と、渉外員が届けるはずの「安心」が遅れるたびに、社長の心には、かつてない不安の影が差し始めていく――。


赤信号の下、アスファルトから吹き上がる熱を含んだ風が、男の頬を執拗に叩く。

乱れた髪を直す余裕もなく、彼はただ、目前の横断歩道を無機質に通り過ぎていく人々の群れを眺めていた。風に煽られて足早に去る者、スマートフォンに目を落としたまま歩く者。世界は何事もなかったかのように動き続けているのに、自分だけがこの一画に縫い付けられ、一歩も前に進めない。その理不尽な対比が、彼の心臓をさらに速く、苦しく脈打たせた。

ふと視線を落とすと、鞄の隙間から契約書類の端が覗いていた。

この紙切れ一枚がなければ、自分はただの「風に吹かれている男」に過ぎない。だが、これを持っているがゆえに、自分は今、全人生を賭けた崖っぷちに立たされている。

もし間に合わなければ。もし社長の気が変わってしまったら。上司の叱責、失われる信頼、そして住宅ローンの支払いに追われる日常の風景が、走馬灯のように脳裏を駆け巡る。

一方、社長は応接室の重厚な革張りの椅子に深く腰掛け、指先で卓上を一定のリズムで叩いていた。

予定の時刻から既に五分が過ぎている。

普段なら「少しの遅れ」で済ませるはずの寛容さが、今の彼には微塵も残っていなかった。

胸のポケットには、妻が待つ病院の面会証が入っている。重い病床にある彼女と交わした「午後の二時には必ず行く」という約束。

それを守るためには、今ここで契約を終え、即座に車を出さなければならない。

社長は、壁に掛けられた古風な振り子時計に目をやった。

風の唸り声に混じって響く、カチ、カチという無機質な秒針の音。それが、妻との残された時間を削り取っていく音のように聞こえてならない。

「……やはり、今日は縁がなかったということか」

社長は小さく呟くと、立ち上がって窓の外を見つめた。

窓の向こう、遠くの交差点で信号待ちをしている一台の自転車。その乗り手が、自分に向けて届けようとしている「未来の保障」を必死に握りしめていることなど、今の社長には知る由もなかった。



居酒屋の看板を避けるために軽トラックが描いた不自然な軌跡は、さらなる混乱の火種を路上のあちこちに撒き散らしていた。

そのトラックの荷台に鎮座していたのは、数カ国にまたがるコンソーシアムが社運を賭けて開発した、最新鋭の半導体露光装置の基幹パーツだった。価格にして五百億円。目に見えないナノ単位の世界を制御するための、究極の精密結晶だ。

輸送には細心の注意が払われ、本来であれば特殊な振動吸収システムを備えた大型トレーラーで運ばれるはずのものだった。しかし、ここでも「連鎖」は起きていた。朝の突風の影響で港湾のクレーン作業が一時中断し、物流ダイヤが狂った結果、中継地点までの極短距離を、やむを得ずこの軽トラックが代行することになったのだ。

「……ったく、なんて風だ」

運転手はハンドルを握り直し、心臓の鼓動を鎮めようと深く息を吐いた。看板を避けた際の挙動で、背後のコンテナから微かな、だが嫌な予感をさせる「揺れ」が伝わってきた気がしたからだ。

だが、風はまだ彼を解放しなかった。

トラックが交差点を曲がりきろうとしたその時、視界の隅で「白いもの」が舞った。

歩道を歩いていた老人の頭から、愛用していたパナマ帽が剥ぎ取られるように宙へ浮いたのだ。

その老人は、かつてこの街の町工場で熟練の旋盤工として働いていた男だった。今は隠居し、唯一の楽しみである孫娘の入学祝いを買うために、一張羅のスーツを着て街へ出ていた。帽子は、今は亡き妻から銀婚式の折に贈られた、かけがえのない形見だった。


「あ……っ!」

老人は、思考よりも先に身体が動いた。

逃げていく妻の形見を追いかけ、無意識に車道へと足を踏み出す。

トラックの運転手の視界に、飛び出してきた老人の姿が飛び込んできた。

「危ねぇ!」

反射的に踏み込まれたブレーキペダル。

先ほどの看板の時とは比べものにならない、文字通りの「急停止」。

タイヤがアスファルトを焼き、白煙が上がる。老人の鼻先数十センチで、鉄の塊はようやくその動きを止めた。

老人はへたり込み、帽子は風に弄ばれながらさらに遠くへと転がっていった。

助かった。誰もがそう思った。

しかし、トラックの荷台の中では、目に見えない破滅が音を立てていた。

五百億円の精密装置。その内部に組み込まれた、髪の毛の数千分の一の狂いも許されないレーザー発振器の光軸が、急制動による凄まじいG(重力加速度)によって、わずかに、本当にわずか数ミクロンだけ、設計図から逸脱したのだ。

それは、この時点では誰にも気づかれない「死」だった。

だが、この数ミクロンのズレは、数週間後に異国の地で稼働を始めた際、製造される数千万個のチップをすべて不良品へと変え、世界の電子機器市場に未曾有のパニックを引き起こす導火線となる。

老人は震える手で地面を突き、自分を死の淵から救ったトラックの運転手に、申し訳なさそうに頭を下げた。

運転手は激しい動悸に襲われながらも、「大丈夫ですよ」と力なく手を振った。

彼はまだ知らない。自分の右足が踏んだそのブレーキが、数千キロ彼方の経済を破壊し、巡り巡って自分の会社の株価さえも暴落させる連鎖のスイッチを押したことを――。


老人は、アスファルトに這いつくばったまま、遠ざかっていく帽子の行方を目で追うのをやめた。代わりに、目の前で止まったトラックの、鈍く光るバンパーを見つめた。

かつて旋盤の前に立ち、鉄の塊を削り出していた若き日の感覚が、指先に鮮烈に蘇る。油の匂い、火花、そして指先で探る「千分の一ミリ」の凹凸。あの頃の自分なら、この急停止の衝撃が、荷台の中の「何か」にどのような影響を及ぼしたか、その振動の響きだけで理解できただろう。

老人は、膝の震えを抑えながら立ち上がった。命を救われた安堵よりも、自分がこの「街という巨大な装置」の精密な歯車を狂わせてしまったのではないかという、職人特有の不吉な予感が、古びた背中を震わせていた。

一方、運転手は、ハンドルを握る両手の汗をズボンで拭った。

荷台を確認すべきだ。一刻も早く、コンテナを開けて装置の固定を確かめるべきだ。そう理性が叫んでいる。だが、彼の身体は凍りついたように動かなかった。もし、あの白いケースに傷がついていたら。もし、積み荷のインジケーターが異常を知らせる赤色に変わっていたら。

それを確認した瞬間、自分の人生は終わる。配送ダイヤの遅れ、巨額の損害賠償、会社からの解雇。その恐怖が、プロとしての責任感を容易く上書きした。

「……大丈夫だ。何も起きてない」

自分に言い聞かせるように、震える声で呟く。運転手は、荷台の異変に気づかないふりをして、アクセルを強く踏み込んだ。


軽トラックは、再び風を切り裂いて走り出した。

老人は、その排気ガスに巻かれながら、静かに街路樹の陰へと身を寄せた。

彼の頭上を、再び強烈な突風が吹き抜けていく。それは、彼から形見の帽子を奪い去った風であり、同時に、工場の命運を握る若き社長の未来を、そして数週間後の世界経済を、音もなく切り刻んだ「死神」の吐息でもあった。

読んでいただきありがとうございます。

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