命とは何か3
九月の半ばを過ぎると、北国の風にははっきりと硬い冷たさが混じり始める。
庁舎へ向かうバスの車窓を流れる景色は、いつの間にか圧倒的な黄金色に塗りつぶされていた。見渡す限りの田んぼに、たわわに実った稲穂が重そうに頭を垂れ始め、秋を感じさせる風に撫でられては波のようにうねっている。
その光景は、恐ろしいほどの生命力に満ちていた。一粒の種籾から始まった命が、泥にまみれ、夏の酷暑に耐え、台風の風に震えながら、今、こうして誰かの「生」を支えるための結晶となって完成の時を待っている。
結は窓ガラスに額を寄せ、その眩しいまでの黄金の海を見つめた。
――私のこの半年は、何かを実らせることができただろうか。
春、あんなに鮮やかだった桜の木は、今はもう、湿った土のような色に変貌した葉を落とし始めている。あの窓口で、ボロボロの半纏を着た老人が上げた悲鳴。その残響さえも、季節が移り変わるたびに薄れ、今では結の記憶の底に沈んだオリのようになっている。
庁舎の重い扉を開ける。
冷房の止まった九月の廊下には、古びた紙と埃が混じった、役所独特の「停滞した匂い」が淀んでいた。
結は自分の席に着くと、淀みのない動作で紺色の腕差しを嵌めた。ゴムが手首を締め付ける感触は、今や自分の皮膚の一部のように馴染んでいる。
「おはようございます」
隣の席の小野寺に向けた挨拶も、もはや震えることはない。
結の窓口対応は、この半年で見違えるほど「完璧」になった。不備のある書類を一目で見抜き、事務提要の何ページに何が書いてあるかを指先が覚えている。市民の泣き言を適当なところで切り上げ、次の番号を呼ぶタイミングも、小野寺から「あなた、もう立派な即戦力ね」と太鼓判を押されるほどだ。
けれど、その「完璧さ」を手に入れれば入れるほど、結は自分の中の何かが、急速に乾いていくのを感じていた。
機械的に動く指先。マニュアル通りの言葉。それは、あの日「紙っこしか見てねえ」と罵られた、小野寺の姿そのものではないか。
給湯室で、十人分のお茶を淹れる。
九時、十時半、午後二時、三時半。
一度も間違えることなく、それぞれのデスクに置かれた「各自のカップ」に、適温の茶を運ぶ。誰が熱めを好み、誰が濃いめを嫌うか。それを完璧にこなすことが、今の結に与えられた最も重要な「責任」だった。
その傍らで、同期採用の男性職員たちは、課長の机の周りに集まり、大きな地図を広げていた。
「次の予算編成では、この区画の道路拡張を優先させる。佐藤(同期の男性)、君も現場を見て回って、地権者のリストを作っておけ」
課長の声が、活気を持って執務室に響く。
「はい!頑張ります!」
同期の彼が弾ませる声には、未来を創る者特有の「熱」があった。彼らには、この町の十年後、二十年後の設計図が手渡されているのだ。
一方で、結のデスクにあるのは、終わりのない過去の記録――台帳の整理と、お茶の補充。
市長が、事あるごとに口にする「男女雇用均等法」という言葉。朝礼で胸を張って語られるその言葉が、結には、空を漂う実体のない陽炎のように見えた。
「これからは、女性も能力を発揮する時代だ」
そう言いながら、お茶を運ぶ結の指先を誰一人見ようとはしない。彼らにとって、結は「背景」の一部であり、お茶は自動的に湧いてくるものだと思っている。
結は、給湯室のシンクに溜まった茶殻を見つめた。
窓の外には、命の完成形である黄金の稲穂。
窓の内には、組織の歯車として、日々を消費するだけの自分。
このまま、ここで年を取っていくのだろうか。
実を結ぶこともなく、誰の記憶に残ることもなく、ただ古びた書類と一緒に、地下の書庫に積み上げられていくだけの人生なのだろうか。
ふいに、自分の命の輪郭が、透けて消えてしまいそうなほどの猛烈な「寂しさ」が、結を襲った。それは、あの日感じた鋭い「怒り」よりも、ずっと深く、冷たく、彼女の魂を侵食していく。
お茶を配り終えようとした時、同期の佐藤が課長の机に広げられた図面を指さして、弾んだ声を出した。
「課長、ここの土地改良が進めば、来年の秋にはもっと見事な収穫風景が見られますね」
「ああ、そうだ。この町を支えるのは稲の命だ。それを守るのが我々の仕事だよ、佐藤君」
二人の会話に、結の入り込む隙間はどこにもなかった。お茶を置いた結の手元に、誰の視線も落ちることはない。湯呑みから立ち上がる湯気だけが、結と彼らの間にある、見えないけれど決定的な「壁」を象徴しているようだった。
結は自分のデスクに戻り、意味のない台帳の数字を追い続けた。
同期の佐藤は、半年経って「町を支える仕事」という命の根幹に触れ、その瞳を輝かせている。一方で自分は、彼らが喉を潤すためのお茶を淹れ、彼らが使った茶碗を洗う。
市長が誇らしげに語る「男女雇用均等法」が、結の耳には、皮肉な子守唄のように聞こえた。
法が、制度が、時代が変わるという。けれど、この昭和六十二年の庁舎に澱む、女性を「背景」としてしか見ない空気感は、法の一振りで消えるほど軽いものではなかった。
昼休み、給湯室の冷たい水で茶碗を洗っていると、小野寺が静かに入ってきた。
「佐藤さん。まだあの時のことを考えているの?」
小野寺の問いに、結の手が止まる。「あの時」とは、半年前のあのおじいさんのことだ。
「……あの、均等法って、何なんでしょうか。私たちも、彼らと同じように試験を受けて、同じように採用されたはずなのに」
小野寺は、少しだけ寂しそうに口角を上げた。
「あの言葉はね、私たちが男の人と同じ重荷を背負ってもいいという『許可証』に過ぎないのよ。でもね、お茶を汲む手や、机を拭く手が免除されるわけじゃない。結局、二重の役割を完璧にこなして、初めて一人前だと認められる……いえ、認められることさえないかもしれないわね」
小野寺の言葉は、諦めというよりも、長い年月をかけて蓄積された「哀しみ」そのものだった。彼女の紺色の腕差しは、結のものよりもずっと色褪せ、角が擦り切れている。その擦り切れこそが、彼女が組織という巨大な機械に削り取られてきた命の痕跡のように見えた。
窓の外に目を向ければ、再び黄金の海が広がっている。
ふと、あのおじいさんのことを想う。
あの日、怒り狂い、絶望し、最後には「あんたも役人だったか」と吐き捨てて去った、あの痩せ細った命。
収穫の季節を迎えた今、あのおじいさんの田んぼはどうなっただろう。
支給を停止され、誰からも「放置」されたあの日、彼はあのまま、この秋の輝きを見ることなく、どこかでひっそりと枯れてしまったのではないか。
「命を守るのが仕事」だと、課長は言った。
けれど、その「命」の中に、あのおじいさんの命や、今こうして透明な存在として扱われている自分の命は含まれているのだろうか。
結の胸を去来したのは、燃えるような怒りではなかった。
それは、ただ静かに、深く、骨の髄まで染み渡るような「哀しみ」だった。
自分たちは、この実り豊かな大地の上に立ちながら、誰一人として本当の意味で「命」と向き合っていないのではないか。
書類を整え、ハンコを押し、お茶を運ぶ。その「型」を繰り返すことで、生身の人間が持つ痛みや、絶望や、震えを、見ないふりをしているだけではないのか。
終業のチャイムが鳴り、結は逃げるように庁舎を出た。
帰りのバスの車窓からは、夕闇に沈み始めた黄金の海が見える。朝よりも色が深まり、どこか物悲しい沈黙を湛えた稲穂の群れ。
結は自分の膝の上で、両手を重ねた。半年間、毎日毎日、紺色の腕差しに締め付けられてきた腕には、消えない「跡」が残っている。
それは、自分の命がこの組織に縛られ、少しずつ自由を失っている証のように思えてならなかった。
バスが揺れるたび、結の心も大きく揺れた。
このまま、ここで消えていくだけの人生。
誰にも届かないお茶を運び、誰にも読まれない台帳を整理し続ける毎日。
黄金色の稲穂が頭を垂れるのは、命が完成したからだ。けれど、自分のこの重苦しい「哀しみ」は、一体どこへ向かい、何の実りを結ぶというのだろう。
結は、バッグの底に忍ばせたまま、一度も開いていない手鏡に指を触れた。
まだ、それを開く勇気はなかった。
ただ、窓の外を流れる秋の気配に、自分の命が溶けて消えてしまいそうな孤独だけが、いつまでも彼女を包み込んでいた。
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