表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
  作者: しゅう


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

29/52

風の連鎖1

深い眠りの底から意識の粒が浮上してくる感覚は、いつも不思議な心地よさを伴う。

目蓋の裏側に透ける光の色で、今日がどのような朝であるかを予測するのが、私の密かな日課だった。今朝の光は、淡く、それでいて力強い黄金色。春の訪れを予感させる、小春日和の温もりだ。


私はゆっくりと身体を起こし、まだ重たい四肢を連れて窓辺へと向かった。

鍵を外し、サッシを左右に大きく開け放つ。

その瞬間、部屋の中に流れ込んできたのは、三月の少しひんやりとした、けれど確かな生命力を帯びた「息吹」だった。

庭先に植えた沈丁花の香りが、窓から入り込んだ風に乗って、部屋の空気を一気に入れ替えていく。夜の間に淀んでいた思考が、外の世界の清冽な空気と混ざり合い、内側から浄化されていくのがわかった。

私の吐き出した古い溜息が外気へと溶け込み、代わりに沈丁花の生命力が私の肺を満たす。私と世界は、この窓一枚を隔てて常に混じり合い、重なり合っているのだ。


「……いい朝だ」


私は、使い古したパーカーを羽織ると、吸い寄せられるように外へと足を踏み出した。

早朝の街は、まだ眠りの名残の中にあった。

アスファルトの上を歩く自分の靴音だけが、朝の静寂の中に小気味よいリズムを刻んで響く。

空を見上げれば、雲ひとつない淡いブルーが天辺まで広がっている。太陽はまだ低く、街路樹や電柱の影を、驚くほど長く、鮮明に描いていた。光と影の境界線がこれほどまでにくっきりと見えるのは、大気中の塵が寝静まり、空気が純化されている証拠だ。


商店街の入り口まで来ると、一軒のパン屋から香ばしい小麦の匂いが漂ってきた。

まだシャッターは半分閉まっているが、中からは規則正しい作業音が聞こえてくる。粉を練る音、天板を重ねる音。誰かが誰かのために、今日という日を準備している音だ。

私はその音を背に受けながら、いつもの散歩コースである公園へと向かった。

公園の片隅では、椿の花がその重みを誇示するように、鮮やかな紅を朝露に濡らしている。池の面は鏡のように滑らかで、一羽のセキレイが水面を叩くたびに、同心円状の波紋がどこまでも広がっていった。

その小さな波紋が、池の端の葦を揺らし、そこに止まっていた小さな虫が飛び立つ。

そんな何気ない「連鎖」の一つひとつが、今の私には、心地よく感じられる。


ベンチに腰を下ろすと、少し離れたところで野良猫が大きくあくびをして、こちらを一瞥してから毛繕いを始めた。

今のこの瞬間、世界は完璧な調和の中にあった。

風は、頬を優しく撫でる程度の微風。木の葉を一枚揺らすのにも、ためらっているかのような静寂。


ふと、周囲から音が消えたような錯覚に陥った。

遠くを走る電車の走行音だけが、不自然に鮮明に鼓膜を震わせる。鳥たちが歌をやめ、公園の木々が一斉に息を止めたかのような、奇妙な真空状態。

私は自分の心臓が刻む鼓動と、街がゆっくりと目覚めていく拍動が重なり合うのを感じていた。目に見える物と、目に見えないエネルギーが、この穏やかな陽光の中で静かに混ざり合っている。

私は一歩一歩、確かな踏み応えを感じて、帰路に就いた。

背中に受ける陽光が次第に強くなり、全身の細胞が完璧に目覚めていく感覚。

今の私は、この平穏な時間が永遠に続くかのように錯覚していた。


正午を過ぎたあたりから、空気の密度が変わった。

朝のあの澄み渡った静寂はどこへ行ったのか。空の端から、薄汚れた綿を引き延ばしたような灰色の雲が、驚くべき速さで太陽を侵食し始めていた。

部屋の温度が、不自然に上がる。生温かく、湿った空気が肌にまとわりつく。

それは春の訪れを喜ぶ暖かさではなく、巨大な何かが移動してくる際の摩擦熱のようだった。

私は、開け放していた窓を閉めようと手をかけた。その瞬間――。


「……っ!」


鼓膜を叩くような、低い地鳴りが聞こえた。

次の刹那、見えない巨人が壁を突き飛ばしたかのような衝撃が、家全体を揺らした。春一番。そう呼ぶにはあまりに凶暴な、大気の奔流だ。

閉めかけたサッシが悲鳴を上げ、私の指先を弾こうとする。

必死に窓を閉め、鍵をかけたが、今度はガラスが一枚の薄い膜のようにたわみ、風の怒号をそのまま部屋の中へと透過させてきた。

外の景色は一変していた。

朝、あんなに穏やかだった街路樹の枝が、苦悶に満ちた仕草で激しくのたうち回っている。

どこか遠くで、空き缶がアスファルトを叩く乾いた音が響き、誰かの家の看板が、耐えきれずに悲鳴を上げて千切れ飛んだ。

視界の端を、黄色い砂塵が猛烈な勢いで通り過ぎていく。大気そのものが意思を持って、この世界のすべての配置を書き換えようとしているかのようだ。


窓の外に目を凝らせば、荒れ狂う風に翻弄される人々の姿が、まるで声の出ない無声映画のように映し出されていた。

歩道の向こうでは、一人の老人が突風に煽られ、大切そうに被っていた帽子を飛ばされている。帽子は生き物のようにアスファルトを跳ね、それを追いかけようと老人が一歩、車道へと足を踏み出す。その刹那、脇を通り抜けようとした配送トラックが急ブレーキをかけ、重苦しいタイヤの摩擦音が、閉め切った窓越しにも微かに届いた。

その光景を眺めながら、私の心臓はさらに激しく拍動した。

あの一歩。あのブレーキ。あの数秒の沈黙。

それらはすべて、この部屋に届いている沈丁花の香りと、今まさに私の指先を震わせている窓ガラスの振動と、分かちがたく繋がっている。

私は、窓を叩く風の響きを全身に浴びながら、ふと、幼い頃に聞いた滑稽な話を思い出した。


「風が吹けば、桶屋が儲かる」

風が吹いて土ぼこりが舞うと、人々の目に入って失明する者が増える。すると三味線で生計を立てる座頭が増え、三味線の皮に使う猫が不足する。猫がいなくなれば鼠が増え、鼠が桶をかじるから、結果として桶屋が繁盛する――。

あまりに飛躍した、こじつけのような因果関係。

けれど、目の前で荒れ狂うこの圧倒的なエネルギーを眺めていると、それが単なる冗談には思えなくなってくる。


たとえば、いま目の前で飛ばされたあの「居酒屋」の古びた看板はどうだろう。

あれが曲がり角まで転がり、通りかかった自転車の進路を塞ぐ。驚いた乗り手が急ブレーキをかけ、背後の車がわずかにハンドルを切る。そのコンマ数秒の遅滞が、一キロ先の信号待ちの列を狂わせ、誰かが約束の時間に間に合わなくなる。

その「間に合わなかった」という事実が、本来行われるはずだった契約を白紙に戻し、巡り巡って、どこか遠い町の桶屋を倒産させる、あるいは、かつてない好機を与えることだってあるのではないか。


この風が、今、目に見えない何かを引き起こしているのか。

飛ばされたあの看板が、曲がり角で誰かの足を止め、その数秒のズレが、出会うはずのない二人を引き合わせるのではないか。

あるいは、舞い上がった砂の粒が、精密な機械の隙間に入り込み、そこから始まる誤作動が、遠い異国で打ち上げられるロケットの軌道を、ほんの数ミリだけ歪めてしまうのではないか。

私は、窓枠を掴む手に力を込めた。

もはや、この風をただの気象現象として眺めることはできない。

私の思考は、部屋の四隅を飛び越え、街を飲み込み、成層圏を突き抜けて、因果の糸が複雑に絡み合う無限の連鎖の海へと、深く、深く沈み込んでいった。

読んでいただきありがとうございます。

下の★~★★★★★で評価してもらえると勉強になります。

感想などいただけると嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ