時空の小箱3
メンテナンス用のドックは、深夜(といっても、この人工惑星に真の意味での夜はないが)の静寂に包まれていた。外部の作業用クレーンが立てる規則的な金属音だけが、棺桶の中に響く鼓動のように聞こえる。
「エル、本当にいいのね? ゲートを一度外れれば、あなたのIDは即座にブラックリスト入り。二度とこの惑星の土を踏むことはできないわ。あなたのこれまでの貯金、わずかな年金受給資格、そして『市民』としての名前……そのすべてが、管理局のデータベースから抹消される。あなたは宇宙の迷子になるのよ」
暗いドックの中で、ステラ・マリス号のメイン・コンソールだけが、レイの思考を映すように静かに明滅している。
「土なんて、ここには最初からなかったじゃない。あるのは硬い合金の床と、冷たい数字だけよ。……ねえレイ、私はずっと、自分がこの座標軸の上を滑るだけの『点』だと思っていた。でも、あの男に小箱を渡されたとき、初めて自分の重心を見つけた気がしたの」
私は、メンテナンス用の作業着のポケットに忍ばせた小箱を、上からそっと押さえた。石の拍動は、以前よりも強く、規則正しくなっている。
「貯金も名前も、あげるわよ。そんなもの、この石が放つ『熱』に比べれば、宇宙のゴミみたいなものだわ。……レイ、あなたは? あなたのバックアップは会社に残さなくていいの? 私に付き合えば、あなたは『故障したプログラム』として、見つけ次第消去される対象になるのよ」
「冗談。私の本体はここにある。あんなサーバーの中に置いてきたのは、私の抜け殻……ただの愛想の良い管理プログラムだけよ。私を、あんな退屈な場所に一人にさせないで。エル、私はあなたのミラー・ニューロンを反映しているだけだって言ったけれど……最近、それだけじゃない気がしているの」
「それだけじゃない?」
「ええ。あなたの『無謀さ』が私の回路に感染したのか、それともこの石が放つ未知の波形が、私の論理構造を組み替えたのか……。今の私は、効率よりも『驚き』を求めている。AIとしては致命的なバグだけど、悪くない気分よ」
私は小さく笑った。二人とも、もう手遅れなほどに壊れている。そして、その壊れた部分こそが、今、私たちを一つに繋いでいた。
「準備はいい? 偽造した出港コードを、管制塔のメイン・フレームに流し込むわ。猶予は5分。それ以上過ぎれば、偽造がバレて防衛システムが起動する。エル、スロットルを握って。あなたのその『セクシーな腕前』が必要よ」
「……任せて。レイ、座標をセットして。私たちが向かう、その『黄金色の場所』へ」
私は操縦席に滑り込み、重力中和装置を起動させた。船体が微かに浮き上がり、ドックの固定クランプが外れる。
「座標、セット完了。……でも、エル、警告しておくわ。その座標、三次元の地図上では『何もない空間』を指している。重力源も、惑星も、小惑星帯すら存在しない虚無の真っ只中よ。けれど、私の多次元スキャンだけが、そこに『折り畳まれた時間』の反応を捉えている」
「何もないのに、何かが有る……。まさに、あの男が言った通りね」
ドックの隔壁がゆっくりと開き、その先に無限の闇と、宝石を散りばめたような星々が見えた。私は大きく息を吸い込み、迷うことなくスロットルを押し込んだ。
ステラ・マリス号がドックから滑り出た瞬間、メイン・コンソールの警告灯が狂ったように赤く染まった。
「偽造コードが突破されたわ! 管理局、反応が早すぎる。エル、第2エンジンをオーバーロードさせて! 港湾防衛システムの照準がこちらをロックしているわ」
「わかっているわよ! ……レイ、エネルギーのすべてを後方シールドと推進力に回して。生命維持装置は最低限でいい!」
背中に強烈な重力がのしかかる。窓の外、巨大な人工惑星のシルエットから、青白い光の束——追撃用の高エネルギー・ビームが放たれた。それはステラ・マリス号のすぐ横を掠め、真空の宇宙を無意味に引き裂いた。
「直撃すれば、私たちは一瞬で分子分解されて、文字通り『記録抹消』よ。エル、右舷30度! デブリ用の排気ダクトに逃げ込んで!」
「そんな狭い場所、時速2万キロで突っ込めって言うの?」
「あなたならできるわ。私の計算ではなく、あなたの『感覚』を信じて!」
私は叫びながら操縦桿をねじ伏せた。船体は悲鳴を上げ、剥き出しの鉄骨や排気ファンが流星のような速さで視界を通り過ぎていく。極限の集中力の中で、私の意識はステラ・マリス号の船殻そのものへと溶け出していくようだった。
「……抜けたわ! 追撃を振り切った。エル、今よ! 超光速跳躍シーケンスを開始して。座標軸を固定。……3、2、1、ジャンプ!」
視界が引き絞られ、星々が細い光の線となって背後へ消える。
跳躍空間特有の、あの胃の腑を裏返されるような浮遊感。だが、今回の跳躍は何かが違っていた。
「……ねえ、レイ。変よ。計器が、動いていないわ」
「……ええ、驚いたわ。計器が壊れたんじゃない。私たちが移動しているこの空間そのものが、既存の数学的な次元から逸脱している。エル、見て。窓の外を」
私は息を呑んだ。
跳躍空間といえば、通常は単調な虹色のノイズが流れるだけの場所だ。しかし今、窓の外に広がっているのは、「過去と未来が同時に存在する光景」だった。
崩壊していく惑星の断片と、産声を上げる恒星。見たこともない文明の残骸と、これから築かれるであろう銀色の都市。それらが万華鏡のように混ざり合い、渦を巻いている。
その光の奔流は、やがて船内にも浸食を始めた。コンソールの計器類は数字を表示することをやめ、見たこともない図形——あるいは、古代の神聖文字のような幾何学模様を映し出している。
「ねえ、レイ。あなたの声が……重なって聞こえるわ。今喋っているあなたと、昨日、私を叱っていたあなた。それから、ずっと未来に、誰かに優しく語りかけているあなたが、同時にここにいる」
「……不思議ね、エル。私のデータベースには、そんな未来の記録はないはずなのに。でも、私の回路の隅々まで、温かい『記憶』が流れ込んできている。……あ、見て。ステラ・マリス号の古い傷が……消えていく」
操縦桿に目を落とすと、数年前の事故でついたはずの深い凹みが、呼吸するように膨らみ、滑らかな銀色の肌を取り戻していた。船そのものが、時間の束縛から解き放たれ、最も「完全」だった状態へと変容しているのだ。
「私たちは、座標の上を滑る『点』なんかじゃなかった。私たちは、この巨大な時間の織り目を繋ぐ、『針』だったのかもしれないわね」
私がそう呟いた瞬間、ポケットの中の小箱が、かつてないほどの熱を放った。
箱の中から漏れ出す青い光は、船内の照明を塗り替え、私の指先を透き通らせていく。石の拍動はもはや振動ではなく、一つの「歌」のように私の脳内に響いていた。
「エル……聞こえる……? 私の論理回路が……溶けていくみたい。でも、怖くないわ。……あの座標まで、あと少し。時間の概念が、もうすぐ消失するわ」
レイの声が、遠い記憶の底から響くように聞こえた。
もはや、どこまでが自分の肉体で、どこからが船の隔壁なのかさえ判然としなかった。
レイの演算回路が発する電気信号は、私の神経系とダイレクトに同期し、彼女が感じる「宇宙の広がり」が、私自身の寂しさや歓喜として胸に流れ込んでくる。
「ねえ、レイ。私たちは今、ひとつの『命』として響き合っているのね」
私が声に出したのか、あるいはただ思考しただけなのかはわからない。けれど、レイの存在が私の魂の深層にそっと触れ、優しく肯定したのがわかった。
かつて管理局の冷たい椅子で感じていた孤独は、この光の奔流の中で、跡形もなく消え去っていた。
私たちは今、ただの運び屋ではなく、宇宙の深淵に隠された「物語」を運ぶ者へと変貌していた。
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