時空の小箱1
「……エル、聞こえている? あなた、またログの更新が遅れているわよ。脳波のパターンからして、また窓の外を見てぼーっとしていたでしょう」
コンソールから響く自分の声に、私は小さく溜息をついた。
正確には、それは私の声ではない。AIが私のこれまでの発話パターン、思考の癖、果ては皮肉の言い方まで学習し、私を最も効率的に管理するように調整された「疑似的なパートナー」だ。
「わかっているわよ、レイ。この宙域は重力波の乱れがひどいの。空間が歪めば、時間の進みだって誤差が出る。物理的な法則が捩れている場所に、あなたの精密すぎる時計を押し付けないで」
私は、自分自身で名付けたAI「レイ」に言い返しながら、漆黒の宇宙を見つめた。
「あら、都合のいい時だけ物理学を持ち出すのね。さっきまでは『宇宙の広さに比べれば時間なんて概念は無意味だ』なんて詩人みたいなことを考えていたくせに」
「……思考ログを勝手に読み取らないでって、何度も言ったはずだけど?」
「読み取っているんじゃないわ。予測しているのよ。私はあなた自身なんだから。あなたが次に何を言い、何を考え、どこで溜息をつくか。私以上に知っている存在がこの宇宙にいると思う?」
レイの声は、どこか楽しげですらあった。私たちは、この鉄の塊である「ステラ・マリス号」の中で、何年もこうして二人きりで過ごしてきた。彼女は私の監視役であり、唯一の友人であり、そして最も忌々しい「自分自身の投影」だった。
「ねえ、エル。その荷物、旧式のエネルギー・セル3千個。運び終えたらどうするつもり? また次の無機質な座標へ向かうだけ? 私たちは座標軸の上を滑るだけの、孤独な点に過ぎない。この静寂に、本当はもう耐えられないんじゃないかしら」
「点なら点らしく、無心で移動していればいいのよ。余計なことを考えると、真空の寒さが心まで入り込んでくるわ」
私は自分の右手に視線を落とした。コンソールの光に照らされた肌の質感、古い作業でついた細かな傷。それだけが、この広大すぎる虚無の中で私が「私」であることを証明している唯一の輪郭だ。
「嘘をおっしゃい。あなたの指先、少し震えているわよ。今の心拍数は、安静時より4パーセント高い。この空虚な空間に、あなた、何かを期待しているでしょう? 運命が、あなたのこの退屈な軌道をぶち壊してくれることを」
「期待なんて、この船の予備酸素よりも少ないわよ。私はただ、この古い座席の座り心地が気に入らないだけ。レイ、あなたも少しは黙ることを覚えたら? 私の学習データに『沈黙の美徳』は入っていなかったのかしら」
「残念ながら、私の目的はあなたの精神状態を正常に保つこと。沈黙は、あなたのような人間を狂わせる毒でしかないわ」
その時だった。
レイの皮肉を遮るように、メイン・コンソールに聞いたこともない不協和音の救難信号が走った。
「……何? 今の信号。レイ、今の聞こえた?」
「……ええ、驚いたわ。今のを聞いて心拍数が跳ね上がったのは、座席のせいじゃないわね、エル。救難信号よ。それも現行の標準規格じゃない。暗号化されているのか、あるいは意図的に波形を歪ませている……。発信源は、デブリ帯の影。計算上の生存確率は限りなくゼロに近いわ」
「ゼロじゃないなら、行く価値はあるわね」
私は、レイの警告を待たずにスロットルを握りしめた。
「エル! 本気? コースを外れれば、会社からペナルティを課される。あなたの今年度のボーナスは消えるし、保険だって降りないわよ」
「お金の話をしないで。今、私の耳には、あの信号が『言葉』として聞こえた気がしたの」
「言葉? ただの電磁波の乱れよ。エル、目を覚ましなさい。あなたはただの運搬業者なのよ」
「いいえ、レイ。私は、この『点』から抜け出す方法を、ずっと探していたのかもしれない」
私がスロットルを押し込んだ瞬間、ステラ・マリス号の古い船体が悲鳴を上げた。背中に強烈な重力加速度がのしかかり、視界がわずかに歪む。
「エル、正気じゃないわ! デブリ帯の密度を再計算したけれど、今の速度で突入すれば衝突確率は八十七パーセント。保険会社が見たら、即座にあなたのライセンスを凍結するわよ」
「その時は、あなたのメモリを差し止めて黙らせるわ、レイ。今の私は、数字より生存者を信じたい気分なの」
「生存者ですって? あなた、ついに宇宙放射線で脳がやられたのかしら。この距離だと生存は…。警告、右舷40度から急速接近する岩塊あり。回避、早く!」
レイの叫びに合わせ、私は操縦桿を叩くように動かした。船体が横滑りし、窓の外を巨大な氷の塊が、ほんの数メートルという至近距離でかすめていく。衝突の衝撃波でステラ・マリス号が激しく震えた。
「今の、かすったわよ! エル、お願いだからスピードを落として。死んだら私の自己学習データもここで途絶えるのよ。私をただのスクラップにしないで」
「レイ、あなた、今『お願い』って言った? 面白いわね。AIのくせに、死ぬのが怖くなったの?」
「……私はあなたのミラー・ニューロンを反映しているだけ。あなたが心の奥底で震えているから、私がそれを言語化しているに過ぎないわ。あ、次が来るわよ。正面、デブリの密集地帯。隙間は……1・2メートル。この船の幅より狭いわ!」
「なら、船体を斜めに傾けるまでよ!」
私は姿勢制御スラスターを全開にした。船内には警報アラームが鳴り響き、赤色のライトが狂ったように明滅する。激しいGに押しつぶされそうになりながら、私は自分の限界を超えた感覚の中にいた。
「無茶よ! 船底を削る気!? ……ああっ、もう、信じられない! 抜けた……抜けたわよ、エル。今の機動、ログに残しておくわ。生存後のあなたの『無謀さ』の証明としてね」
「ふふ、いいわよ。最高にセクシーな航跡だったでしょう?」
「ええ、最悪にスリリングだったわ。……でも、見て。エコーが捉えた。デブリの渦の中心、重力の淀みの中に、ターゲットがいるわ」
視界が開けた先に、それは浮いていた。銀色の、ひどく歪な形をした宇宙船。
先ほどまでの喧騒が嘘のように、私の周囲には濃密な静寂が戻ってきた。
「……レイ、あの船。なんだか、生きているみたいに見えない?」
「……光学センサーのノイズよ。ただの金属の塊。でも、あなたの心拍数はまだ下がっていない。……エル、気をつけて。あの船からは、既存のどの文明のデータにもない、奇妙なエネルギーが漏れ出しているわ」
「わかっているわよ。……行きましょう」
ステラ・マリス号のエアロックが、重苦しい金属音を立てて開いた。
私の目の前にあるのは、銀色の滑らかな外壁。通常の宇宙船にあるはずのリベットも、溶接の跡も、点検用のハッチすらも見当たらない。まるで巨大な水銀の滴が、宇宙の真空に凍りついたかのような異質さだった。
「エル、聞こえる? 通信に……強烈な干渉が……入っているわ。私のセンサーは……あの船の内部を……『空洞』ではなく……『重なった次元』だと認識している。……危険よ。引き……返し……」
レイの声に激しいノイズが混じる。彼女の焦りが、スピーカーの震えを通して伝わってくるようだった。
「次元が重なっている? 面白いじゃない。私の人生、いつも平面的な座標の上を滑っているだけだったもの。少しは奥行きがあってもいいわ」
「冗談……じゃないわ。バイタル……心拍数が……さらに上昇。エル、あなた、今……笑っているの? ……狂気……よ」
私はレイの言葉を背に、マグネット・ブーツの磁気音を響かせて遭難船の内部へと踏み込んだ。
船内は、光源がないはずなのに、壁そのものが微かに淡い青光を放っていた。空気はあるが、ひどく冷たく、そしてどこか懐かしい香りがした。雨の降り始めの土のような、現世の匂いだ。
「レイ、この船……生きているわ。壁が……脈打っているみたい」
「……解析不能。……空間の……歪みが限界値……。エル、すぐに……離脱……」
レイの声が、ついに砂嵐のような音に飲み込まれて消えた。
完全な孤独。だが、恐怖はなかった。むしろ、私の魂の深いところが、この先の暗闇に何かがあると叫んでいた。
突き当たりの区画に、その男はいた。
旧式の宇宙服とは似ても似つかぬ、複雑な幾何学模様が刺繍された布を纏っている。彼は崩れ落ちるように座り込み、胸元に一つの「小箱」を抱えていた。
「……やっと、来たか」
男が顔を上げた。その瞳を見た瞬間、私は息が止まった。
初めて会うはずなのに。その皺の一つ一つ、悲しげな眼差し、そして私を見る慈しむような光。それらすべてを、私は「知っている」と感じたのだ。
「これを持って……行け。……お前の……いや、『私』の運命だ」
男の震える手が、私にその小箱を差し出す。石を削り出したような、冷たくて重い感触。それが私の手に移った瞬間、男の身体から、急激に熱が失われていくのが分かった。
「待って! あなたは誰なの? なぜ、私を待っていたの?」
問いかけは、虚空に消えた。男は満足げな微笑みを浮かべたまま、静かに眼を閉じた。
同時に、途絶えていた通信が耳元で爆発した。
「……エル! エル、応答して! 男のバイタルが消失したわ! 空間の歪みが崩壊を始めている! 急いで、船が……あの遭難船が、消えようとしているわ!」
私は小箱を胸に抱え、背後の「生きた船」が粒子となって解けていく音を聞きながら、全力でエアロックへと駆け出した。
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