想像の根源4
カーテンの隙間から差し込む光は、昨日まで私を追い詰めていた容赦ない日差しではなく、世界が新しく更新されたことを告げる柔らかな祝福のように感じられた。
枕元に置いたスマートフォンを手に取り、画面を点灯させる。ネットの海へ放り出した私の「断片」たちは、今もどこかで、見知らぬ誰かの視線に触れ、小さなさざ波を立て続けているはずだ。アクセス解析の数字は、あの『1』から劇的に増えているわけではない。だが、その小さな数字の一つ一つが、私という生命がこの地上に確かに存在し、誰かと繋がっているという、何物にも代えがたい「錨」となっていた。
私はゆっくりと起き上がり、ぬるくなった水を一杯飲んだ。
昨日までと同じ四畳半のアパート。冷房の効かない蒸し暑い空気も、古びたノートパソコンの佇まいも、何一つ変わってはいない。だが、私自身の内側の重心が、決定的に入れ替わっていた。
これまでの私は、社会という巨大なシステムの歯車から外れ、何者でもなくなった自分を恥じ、恐れていた。だが今の私は知っている。ハローワークの番号札で呼ばれる「記号としての私」は、私の生命のほんの一部、目に見える「カタ」の側面に過ぎないことを。
その背後には、言葉によって紡ぎ出された無限の世界が広がっている。私は二つの世界を同時に生きる術を手に入れたのだ。
私は、鏡の前に立った。
映し出されているのは、相変わらず無職の、少し痩せた中年の男だ。だが、その瞳の奥には、昨日までにはなかった静かな光が宿っていた。
「よし」
短く呟き、私は身支度を始めた。
今日はまた、ハローワークへ行く日だ。だが、あそこへ向かう足取りは、もはや処刑場へ引かれていく囚人のそれではない。
アパートの重い鉄の扉を開け、一歩外へ踏み出した瞬間、私はその場に立ち尽くした。
昨日まで、私の肌を刺し、体力を奪うだけの呪わしい熱気だと思っていた空梅雨の陽光が、今は全く別の相貌を持って私を迎えていた。
空を見上げれば、そこにはどこまでも透き通った青の階調が広がっている。その輝きは、単なる太陽の光ではなかった。空気中に漂う無数の塵や水分、それら微細な粒子の一つ一つが、神聖な意志を持って発光しているかのように見えた。
ふと視線を落とせば、アスファルトの隙間に溜まった乾いた泥や、風に舞い上がる細かな埃さえもが、逆光を浴びてダイヤモンドの粉のようにキラキラと輝いている。かつては汚れや不快感の象徴でしかなかったものが、今は世界を構成する等価値な「光の断片」として私の網膜に焼き付いた。
「ああ、世界はこんなにも、光に満ちていたのか」
私はゆっくりと歩き始めた。
足の裏がアスファルトの熱を、靴底越しに確かな質量として感じ取る。その熱さえも、地球という巨大な生命体が発する鼓動の一部として心地よく響く。
街路樹の銀杏や、庭先に身を乗り出した金木犀の緑。その色は、単なる色彩を通り越して、生命の叫びそのものだった。葉の葉脈一つ一つに水が行き渡り、光合成という静かな爆発を繰り返している。その深い緑の奥底からは、むせ返るような生命の匂いが立ち昇り、私の鼻腔をくすぐった。葉の表面で反射する光の屈折、風に揺れる茎のしなり。これまで視界の端にも留めなかった些細な風景が、今は一つの独立した「物語」として立ち上がってくる。
私は気づく。目に見えるこの世界の背後には、常に万物を動かし続ける巨大なエネルギーの奔流が流れているのだということに。
駅へと向かう道すがら、すれ違う人々の姿も、昨日までとは違って見えた。
買い物袋を下げた主婦、足早に歩くサラリーマン、自転車で駆け抜ける学生。彼らの頬を伝う汗の粒が、光を反射して一瞬だけ虹色に輝く。彼ら一人一人が、それぞれの物語という宇宙を抱え、今この瞬間の光を共有している。
かつての私は、彼らの中に「成功者」や「自分を拒絶する社会の代表」を見ては、勝手に疎外感に打ちひしがれていた。だが今は違う。彼らの背後にも、目には見えないが無数の「想い」や「記憶」がオーラのように揺らめいている。私たちは、この潜象世界という大きな海を共に泳ぐ、名もなき同志なのだ。
その連帯感に気づいた瞬間、胸の奥から温かい「幸せ」の雫が溢れ出した。それは、何かを達成したから得られる報酬ではない。ただここに存在し、世界と共鳴していることそのものに対する、根源的な法悦だった。
踏切の遮断機が下り、電車の通過を待つ時間さえも、私にとっては贅沢な「観測」の時間となった。
金属が擦れる音、風を切る轟音、枕木を叩く振動。それらすべてが、複雑に重なり合う光の粒となって私の全身を震わせる。
線路脇の錆びついた鉄柵に止まった一羽の雀が、羽を震わせて飛び立つ。その羽ばたきが空気を震わせ、その震えが私の頬を撫でる。
「生命の元は変化変遷し進んでいる」
万物は一刻も留まることなく移ろい、重なり合い、新しい形を成していく。私の人生もまた、この大きな流れの一部なのだ。
商店街の軒先から流れてくる、どこか懐かしいラジオの音。誰かの家の台所から漂う、醤油が焦げるような夕げの支度の匂い。街路樹の葉が擦れ合う、潮騒にも似た微かな囁き。
一歩踏み出すごとに、重力から解き放たれ、身体が軽くなっていく。現実の引力が弱まり、代わりに私の魂が、より自由な次元へと浮上していくような全能感。私は、自分が透明な光の繭に包まれているかのような幸福感に浸りながら、一歩一歩、その輝きを踏みしめていった。埃さえも愛おしく、影さえも暖かい。
やがて、目的地のハローワークが入るビルが見えてきた。
かつては私を記号化し、無価値さを突きつけてくる「処刑場」の門構えに見えたあの無機質なガラス張りの建物が、今は不思議なほど柔らかい光に包まれている。
そこはもう、私の価値を判定する場所ではない。
現実という舞台の上で、私が「求職者」という役を演じるための、単なる一場面に過ぎないのだ。
玄関の自動ドアは、鏡のように磨かれ、街の喧騒と眩いばかりの陽光を反射している。
私はその鏡面の中に、一人の男の姿を見た。
それは、どこにでもいる無職の求職者だ。だが、その背後には、昨夜私がネットの海へ放流した無数の言葉たちが、見えない翼のように広がっている。
私は、玄関の自動ドアの前で一度立ち止まり、深く、最後の一呼吸を整えた。
センサーが私の存在を感知し、静かに、滑らかにドアが開く。
向こう側から流れ込んでくる冷気は、外の灼熱と混ざり合い、霧のような光の粒となって私の全身を包み込んだ。
私は新しい名前を胸の中で一度だけ唱えた。
肺いっぱいに満たされたのは、希望の匂いがする新しい空気だった。
私は光り輝く自動ドアの向こう側へと、軽やかに足を踏み入れた。
読んでいただきありがとうございます。
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本作「想像の根源」は、これで終話となります。
今回の物語は、カタカムナ第7首に触れている中で閃いたものです。
私自身がこの場所に投稿するに至った「きっかけ」を、色濃く投影した内容となりました。
小説という形を借りて様々な想像を巡らせましたが、これは誰かに読んでいただくためという以上に、私自身が「もう一つの人生」を歩み出すために必要な、自分自身のための作品になったと感じています。




