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  作者: しゅう


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23/52

想像の根源3

物語は完成した。だが、まだこの作品には名前がない。

私は、投稿画面の最上段にある『作品名』という空欄をじっと見つめていた。

かつて職場で作成していた膨大な報告書や企画書なら、中身を端的に説明する無機質な題名をつければ済むことだった。効率と正確さだけを求められる世界では、言葉は記号であれば十分だった。しかし今、私の前にあるのは、記号などでは到底括れない、私の内臓を裏返してさらけ出したような言葉の奔流だ。この三千字を超える熱量に、どのような「魂のラベル」を貼るべきか。

私は、いくつかの言葉を打ち込んでみた。

最初は、流行のネット小説を真似て、読者の目を引くような長い説明調のタイトルを。次に、かつて自分を追い詰めた者たちへの皮肉を込めた、冷笑的なタイトルを。だが、画面に並んだその文字列は、どれも私の物語に似つかわしくなく、どこか他人事のように薄めているようにしか見えなかった。


「……違う、これではない」

バックスペースキーを連打し、空欄に戻す。

この物語は、私の絶望の産物であり、同時に再生の産声なのだ。あの灼熱のハローワークで、一度社会的に死にかけた私が、暗闇の中で手探りで掴み取った「別の世界」への鍵。それは、誰かに見せるための装飾ではなく、私という生命がここに在ることを証明する、唯一の真実でなければならない。


私は目を閉じ、物語の中で主人公が歩いた砂の匂いや、喉を焼いた水の感覚を思い出した。

不意に、私の内側の最も深い場所、自分でも意識していなかった潜象世界の底から、一つの言葉が浮上してきた。

それは、物語の本質を射抜くと同時に、現実の私を繋ぎ止めていた、最も根源的な叫びだった。

指先が、迷いなくキーを叩く。

その文字を打ち込んだ瞬間、バラバラだった断片たちが、一つの生命体としてカチリと噛み合う音が聞こえた気がした。名を与えることで、この物語はようやく、私から離れて独立した「個」としての重みを持ち始めたのだ。


続いて、ペンネームの欄にカーソルを移す。

ここには、社会の中で摩耗し、記号化された私の本名は必要ない。あの職場の名簿に載り、ハローワークの番号札で呼ばれる「私」は、ここで一度脱ぎ捨てる。

私は、自分がこれから作者として生きていくための、新しい名を選んだ。

自分自身を意識する覚悟を込めた名。その名前を自分に与えることは、かつての死に体の自分を葬り、新しい自分を再定義する「聖なる儀式」でもあった。


ペンネームを打ち込み終えたとき、画面の端にある「公開」という二文字のボタンが、まるで意志を持った巨大な眼のように私を射抜いた。

このボタンを押せば、私の物語は私の手から離れ、ネットという広大な情報の海へと放流される。それは、四畳半の静寂の中で守られていた私の「聖域」が、他者の視線という冷徹な光に晒されることを意味していた。

不意に、忌まわしい記憶が脳裏をかすめる。

「お前の言葉には価値がない」「誰もそんなものは求めていない」

かつての職場で、上司から投げつけられた無数の言葉のつぶて。それらは今も、私の心の底におりとなって沈み、機会があればいつでも私を引きずり戻そうと手ぐすねを引いている。

モニターを見つめる私の指先が、わずかに震えた。

もし、誰にも読まれなかったら。もし、心ない誹謗中傷に晒されたら。せっかく紡ぎ出したこの生命が、無機質な「0」や「1」の記号の中に埋もれ、誰にも届かずに消えてしまったら……。

 

恐怖が、冷たい汗となって背中を伝う。

一度ボタンを押せば、もう二度と「何者でもなかった自分」には戻れない。だが、その恐怖の裏側で、私の中の別の声が強く叫んでいた。

ここで踏み止まれば、私は一生、あのハローワークの帰り道に見た蜃気楼の中に閉じ込められたままだ。自分をさらけ出すことは、傷つくことではない。自分をさらけ出さないことこそが、本当の意味での死なのだと、私の魂が告げていた。

私は深く息を吸い込み、肺の中に夜の冷たい空気を満たした。

新しく自分に与えたペンネームは、今や私を現実の呪縛から解き放つよろいとなり、武器となっていた。

夜明け前の紫がかった光が、部屋に差し込み始める。

私は、投稿サイトの管理画面を開き、そこにある「新規作品作成」のボタンを凝視した。

これまで書き溜めた言葉の塊を、ただのデータとしてではなく、一つの独立した「生命体」として世界へ送り出すための最終段階だ。

カーソルが点滅する。

 

私は、長い間空白のままだった「作品名」の欄に、ゆっくりと指を伸ばした。

それは、私の絶望でも、復讐でもない。

この空梅雨の熱気の中で、死にかけていた私が最後に見出した、最も純粋な何かを象徴する言葉。

不格好な断片たちが、ようやく一つの冠を得る。

その一打ごとに、これまで私を押しつぶしていた「社会的生命」の重苦しさが、少しずつ軽くなっていくのを感じた。


画面には、いつでも「公開」できる状態の原稿が並んでいる。

この一線を越えれば、私の孤独な格闘は、誰の目にも触れる「物語」へと変貌する。

恐ろしさはなかった。

ただ、自分の中から溢れ出したこの熱量を、一刻も早く、どこか遠くにいる「まだ見ぬ誰か」へと届けたかった。

そして、自分の作品を残したい気持ちが生まれ始めた。


マウスを握る右手に、微かな、けれど確かな力がこもる。

人差し指をわずか数ミリ動かし、カチリと乾いた音を立てる。それだけの、日常で何万回と繰り返してきたはずの極小の動作。だが今の私にとって、それは自分の全存在を賭けて、引き返すことのできない「境界線」を飛び越える行為だった。

画面が一度白く反転し、読み込みを示す歯車が回る。

その数秒間、私は呼吸を止めていた。心臓の鼓動が耳元で暴力的なほど激しく打ち鳴らされ、部屋の空気が一気に希薄になったような錯覚に陥る。

やがて、画面が切り替わった。

『作品の公開が完了しました』

無機質なフォントで表示されたその一文を目にした瞬間、全身の力が抜け、椅子に深く沈み込んだ。


放たれたのだ。

私の内側の、誰にも触れさせたくなかったおりも、震えるようなヒビキも、今この瞬間、ネットの闇を介して全方位へと拡散された。

不思議な感覚だった。

あれほど執着し、抱えていた物語が、自分という器から離れて独立した「外側の存在」になった。それは、自分の体の一部を失ったような空虚さと、それ以上に、何物にも代えがたい「解放」の味を伴っていた。


私は、震える指で「アクセス解析」のページを開いた。

当然、数字はすべて「0」だ。

私の叫びは、まだ誰の耳にも届いていない。この広大なネットの荒野で、たった一編の、無名の男が書いた物語が見出される確率など、砂漠に落とした一粒の真珠を探すようなものだ。

 

それからの一時間は、これまでの人生で最も長く、狂おしい時間だった。

数分おきにブラウザの更新ボタンを叩く。変化のない「0」という数字が、私という存在を再び否定しようとしているかのように感じられ、胃の奥が冷たく縮み上がる。

「やはり、誰にも届かないのではないか」

過去の絶望が再び首をもたげたその時、画面が切り替わった。

 

PVの欄に、小さな、けれど確かな『1』という数字が灯った。

 

息が止まった。

それは、単なるデータの変動ではなかった。どこかの誰かが、この広大な宇宙の中で私の物語を見つけ、その入り口を潜り、私の言葉に触れたという「接触」の証明だった。

その『1』という数字が、ハローワークで手渡される番号札のそれとは全く違う意味を持っていることに、私は涙が出るほどの衝撃を受けた。ここにあるのは記号ではなく、生命と生命が指先で触れ合った瞬間の光だった。

 

ふと視線を上げると、窓の外はすでに完全な朝を迎えていた。

紫がかっていた光は白く輝き、街はいつものように、騒がしく無関心に動き出し始めている。

だが、私に見えている世界は、昨日までとは決定的に違っていた。

ゴミ収集車の音、遠くで聞こえる犬の鳴き声、アスファルトを叩く通行人の靴音。それらすべての騒音が、物語の一部として、あるいは世界を形作る壮大なヒビキの一部として、私の鼓膜に届いていた。

冷房の効かない四畳半の熱気は相変わらずだ。だが、私はもう、その暑さにうだるだけの男ではない。

 

私は、自分の内側に確立された、もう一つの自分の重心を確かめるように、深く、静かに息を吐いた。

現実の世界で記号として生きる自分を、物語の世界の自分が静かに観測している。その強固な連帯がある限り、私はもう、どのような孤独にも、どのような否定にも屈することはない。

私は再びキーボードに手を置いた。

公開した物語の続きを、あるいは新しく胎動し始めた別のヒビキを文字にするために。

 

今日から、私のもう一つの人生が始まるのだ。

読んでいただきありがとうございます。

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