想像の根源2
光を放つモニターの前で、私の指は止まっていた。
最初の一文字を打つ。それは、これまでの報告書やメールとは全く違う、自分自身の奥底から引きずり出される物でなければならない。
最初は、私を追い詰めた上司や、見て見ぬふりをした同僚たちへの呪詛を書き連ねようとした。彼らの実名を少しだけ変え、いかに自分が不当に扱われたか、いかに彼らが醜悪であるかを、鋭い言葉の刃で切り裂く復讐劇。
だが、数行書いて、私は手が止まった。
画面に並んだ文字は、黒ずんでいて、腐ったような臭いがした。それは、かつて職場で私が扱っていた「死んだ言葉」の裏返しでしかなかった。怒りに任せて書きなぐった文章は、私の中の「アメノミナカヌシ」を少しも震わせることはなかった。
「……これじゃない」
私は、バックスペースキーを叩いて、すべてを消し去った。
空梅雨の熱気が籠もる部屋で、私は目を閉じた。
タイトルなんて、どこを探しても見つからなかった。華々しい物語の幕開けも、読者を惹きつける洗練された一文も、私の中には用意されていなかった。
あるのはただ、点々と浮かび上がる、形を持たない断片だけだ。
焼け付くような砂の匂い。誰かに裏切られた時の、喉の奥が引き攣れる感覚。暗闇の中で、微かに、けれど確かに光る水面。
それらは言葉以前の、ただの記憶の澱でしかなかった。だが、その澱をどうにかして外に引き出さなければ、私はこのままこの部屋の熱気に溶けて消えてしまう。そんな切迫感だけが、私の背中を押していた。
私は、その断片の一つを掴み取り、文章にしようとキーボードを叩き始めた。
最初は驚くほどつたないものだった。
接続詞はぎこちなく、語彙は貧弱で、描写は上滑りしている。報告書作成で凝り固まった脳は、自由な表現を拒むように、勝手に論理的な整合性を探そうとする。そのたびに私の筆は止まり、自己嫌悪の波が押し寄せた。
「自分には、何も書けないのではないか」
その恐怖が、指先を凍りつかせる。
それでも、私は打ち続けた。
美しくなくていい。誰に褒められなくてもいい。ただ、私の中にあるこの「震え」を、一文字でもいいから外へ定着させたかった。
キーを叩く音が、静寂の中で次第にリズムを刻み始める。
つたない言葉を積み重ね、何度も書き直し、消し、また置く。その不格好な格闘を繰り返しているうちに、変化が訪れた。
点と点として存在していた断片たちが、私の意識を通ることで、細い糸のように繋がり始めたのだ。
書きたい物語が、ゆっくりと、けれど抗いようのない力で姿を現し始める。
それは、あのハローワークのある小さな市ではない。もっと遠い、けれどどこか既視感のある、時間の止まったような街。そこで私は、かつて自分が職場で使い果たし、捨ててきたはずの情熱を、一人の登場人物に託していた。
不思議な感覚だった。
現実の私は、相変わらず冷房の効かない蒸し暑いアパートの一室に座り、古びたパソコンの熱を膝に感じているだけの「無職の男」だ。だが、画面の中のカーソルが踊るたび、私の意識は肉体を離れ、物語の中の風に吹かれていた。
つたなかった文章は、いつしか私の意図を超えた「熱」を帯び、独自の鼓動を打ち始めていた。そこでは、言葉はもはや死んだ記号ではなく、私の生命そのものを運ぶ器へと変わっていた。
翌朝、私はわずかな仮眠を挟んで、再びハローワークへと向かった。
逃げ場のない熱気と、刺すような日差しは昨日と変わらない。だが、自動ドアを抜けて待合室に足を踏み入れた瞬間、私の内側で奇妙な変化が起きていることに気づいた。
昨日まで、ここは私を記号化し、無価値さを突きつけてくる処刑場のような場所だった。しかし今の私の眼に映るのは、単なる重苦しい空気ではない。
窓口で淡々と、事務的に言葉を吐き出す職員。うなだれて番号札を凝視する中年の男。不安げに履歴書を読み返す若者。彼ら一人一人の背後に、かつての私と同じように殺された言葉や、誰にも語られることのない無数の物語の断片が、オーラのように漂っているのが見える。
「この人の内側にも、まだ鳴り止まない何かがあるはずだ」
そう思った瞬間、私はもう、単なる「求職者の一人」ではなくなっていた。絶望のただ中にいながら、同時にそれを別の角度から見つめる者としての視点。現実という世界に飲み込まれず、その奥にある潜象世界を意識する。それだけで、背筋が自然と伸びるのを感じた。
アパートへ帰り着くと、私はすぐにスマートフォンを開き、例のネット小説の投稿サイトを覗いた。
昨夜までは、そこはただの救いであり、現実逃避の場所だった。だが今は、並んでいるタイトルの一つ一つが、見ず知らずの他人が必死に立ち上げた「世界」の叫びとして聞こえてくる。
溢れかえる物語の数々に、一時は圧倒されそうになった。プロのような洗練された文体も、何万回も読まれている華やかな人気作もそこにはある。それに比べて、私の書いたものはあまりに不格好で、つたなく、剥き出しの傷跡のようだ。
それでも、私は自分の書いた物を愛おしく思った。
ランキングの数字や流行の作法に照らせば、私の言葉は価値のないものかもしれない。だが、この不格好な一文一文こそが、私という生命がこの世界に刻もうとした唯一無二の鼓動なのだ。他人の物差しで測れるような価値など、最初から求めてはいなかった。
夜が深まるにつれ、アパートの四畳半は再び「創造の実験室」へと変貌する。
モニターの放つ青白い光は、暗闇の中で唯一の灯台のように私を導く。現実の暑さは相変わらずだが、意識が物語の奥深くへと沈み込んでいくと、その不快感さえもが「熱情」という別のエネルギーに変換されていく。
かつて仕事を持ち帰るために使っていたこの古いノートパソコンが、今は私を異界へと繋ぐ扉だ。効率と義務の象徴だった機械から、私の命を運ぶ言葉が溢れ出していく。
キーを叩く音が、静寂の中で一定のリズムを刻み続ける。それは、私という存在が確かにここにあり、死んでなどいないことを証明する心拍音だった。
文字の連なりを読み返すと、そこにはかつて私が持っていたはずの「自分自身の温度」が宿っていた。
推敲を重ねる作業は、自分の傷口を丁寧に縫い合わせるような痛みと、それ以上の法悦を伴った。一つ一つの文章が整うたび、私を縛り付けていた過去の呪縛が、薄皮を剥ぐように剥がれ落ちていく。
ふと、物語の主人公に名を与えた時、私は救われたのだと悟った。
現実の私は、依然として名前を隠すようにして街を歩き、ハローワークで記号として扱われる存在だ。だが、物語というもう一つの世界において、私は新しい名と、新しい命を自分自身に与えることができた。この「二重構造」の自覚こそが、私を狂気から救い出す唯一の命綱だった。
最後の一行の句点を打ち込み、私は深く息を吐き出した。
画面上を流れる文字の群れは、もはや私個人を苦しめる澱ではなく、自律して輝く星々のようにも見えた。
意識が現実の四畳半に戻ってくると、遠くで始発電車の響きが微かに聞こえてくる。
世界が動き出す前の、この奇跡のような静寂の中で、私はただ自分の内側に満ちた静かな万能感に浸っていた。
ぬるくなったコップの水を飲み干すと、驚くほど身体の隅々にまで染み渡っていった。
喉の渇きが癒えると同時に、私は自分の手がかすかに震えていることに気づく。それは恐怖ではなく、何かが新しく産声を上げたことへの、生命としての共鳴だった。
私は、静かにモニターを見つめ直し、この物語を世界へ放つ準備が整ったことを確信した。
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